第16話 『マネージャーとキャッチャーの作戦会議』
放課後の図書室は静かだった。
風が窓から入り込み、古いカーテンをゆっくり揺らしている。
奥の閲覧スペースに、ノートパソコンを広げた千紗と、横で顎に手を当てる石原が並んで座っていた。
「こっちの映像、去年の大会ベスト8の試合。相手は……白川南高校」
「ふむ……で、次の初戦が、その白川南ってわけか」
石原が画面をのぞき込みながら、投手のフォームに注目した。
「このピッチャー、右投げサイドスロー。スライダー、けっこうエグい角度で曲がってくるな」
「うん。スロー再生したら、リリースの瞬間、親指の使い方が独特だったよ」
「すげぇな、マネージャー。スカウトか?」
千紗はちょっと照れくさそうに笑った。
「……風祭くんに投げ勝ってほしいから。石原くんにも、受けやすくなるようにって思って」
石原は一瞬だけ視線をそらしてから、咳払いをした。
「お、おう……ま、まぁチーム全体のためだよな」
「うん、もちろん!」
二人の目線がふいに交わって、また少し気まずく逸らされる。
だがその沈黙は、重苦しいものではなかった。
画面の中では、白川南の5番打者がレフトスタンドへ豪快なホームランを放っていた。
「この5番、危険だね。ボール球でも振ってくるけど、当たると飛ぶ」
「……ピッチャー泣かせのタイプだな。風祭、ストライクで勝負しないほうがいいかもな」
ふと、千紗の手元にあるノートが目に入った。
ページの端には、小さな字で「風祭くん観察日記・vol.7」と書かれていた。
「なにそれ?」
「えっ!? あっ、こ、これは……っ、データだよ、データ!」
千紗が慌てて閉じようとしたそのページを、石原が先にめくった。
“キャッチボールの時、右肩がいつもより2センチ下がってた気がする”
“ゼッケンの縫い目が少しほつれてた。直してあげようか悩んだけど見てるだけにした”
“今日の風祭くん:練習中、なんども空を見てた。きっと、自分の投げる空を探してたんだと思う”
「……こりゃデータっていうか、ポエムだな」
「ち、ちがっ、これはそういうのじゃなくてっ!」
千紗は顔を真っ赤にしながらノートを取り返した。
石原は少し笑いながらも、真面目な顔で言った。
「でも、悪くねぇと思うぜ。そういうの」
「え……?」
「風祭って、たぶん自分のことあんまり言わねぇからさ。誰かが見ててやんねぇと、きっと迷子になるタイプなんだよ。……お前のそういう視点、案外チームにとって大事かもな」
千紗は一瞬目を見開き、それから小さくうなずいた。
「ありがとう、石原くん」
そのとき、図書室の入り口で小さな物音がした。
二人がそちらを振り向くと、そこには球児が――。
「……お、お前ら、なにしてんだ、こんなとこで」
「げっ、風祭っ!?」
千紗は慌ててノートを閉じるが、球児の視線は一瞬だけ表紙に止まり、ほんのり眉を上げた。
だがすぐに、目を逸らして口元をわずかに緩める。
「……俺の観察って、そんな面白いか?」
「えっ……え、えっと、それは……!」
「……そっか」
球児はぼそりとそれだけ言うと、ふらりと図書室の奥へ入っていった。
石原が肘で千紗の腕をつついた。
「……顔、ちょっと赤くなってたな」
「な、なってないもん!」
午後五時すぎ。
陽が傾きはじめた図書室の一角には、ノートとファイルが山積みになっていた。
「……スライダーの軌道、やっぱり癖あるよな。シュート回転ぎみっつーか」
石原は目を細めて、パソコンに映された映像を一時停止する。
その隣で、千紗が記録用のノートに黙々とメモを書き込んでいた。
「この高校、三振よりゴロアウト狙ってくるタイプだね。内野陣もやたら前出てるし」
「だな。風祭の球、上手く使えば……よし、これは戦える」
ふたりは顔を見合わせて、ほっと小さく笑う。
その瞬間だった。千紗が、おずおずと小さな水筒を差し出した。
「……あの、これ。麦茶、冷えてるから」
「お、ありがとな。ナイスタイミング」
石原はごくりと一口飲んで──一瞬だけ目を丸くした。
「……あれ? なんか、ちょっと塩味する?」
「う、うん。私、麦茶に塩、ちょっと入れるのが好きで……」
千紗は耳まで赤くなって、あわてて弁解する。「熱中症対策にもなるし、でも変かなって思って……」
石原はそんな千紗を見て、ふっと笑った。
「いや、うまいよ。なんか、夏の味する」
麦茶をもう一口飲みながら、石原は続けた。
「チームのこと、マジで考えてんだな、千紗って」
「え……う、うん、まあ。マネージャーだし……」
言葉を濁しながらも、千紗はこくんとうなずいた。
数秒の沈黙。
だけど、気まずさはなかった。
静かな信頼が、そこにあった。
夕方の図書室に、麦茶の香ばしい香りがふわりと広がる。
石原はふと視線をずらし、ノートの山を見ながらぼそりとつぶやく。
「勝とうな。ちゃんと、勝ちにいこうぜ。……全員で」
「うん!」
千紗の返事は、麦茶よりも透きとおっていた。
千紗の小さな声が、静かな図書室にぽつんと響いた。
夕暮れが窓の外で色を変え、夏の気配が、そっとチームの中に根を張り始めていた。
■
その日の帰り道、風が少し強かった。
風祭球児は、無言で玄関を開けた。靴を脱ぐと、そのまま自室に入り、リュックの中からノートを取り出す。
黒地に白のラインが入った、どこにでもあるキャンパスノート。
彼が“投げたくない日”にだけ開くページがある。
ページをめくる指が、わずかに震えた。
──「誰かに見てほしいなんて思ってない」
──「背番号なんか、いらない」
──「ひとりでやる方が、きっと楽だ」
書いたのは、たしか中学三年の終わり。
部活最後の大会で、満足な登板機会ももらえず、何もできないまま終わった春。
そのとき、誰かに見られるのが怖かった。期待されるのも、失望されるのも、嫌だった。
でも今日。
机の上に広げられた、もう一冊のノート──
それは、千紗の観察日記だった。偶然見てしまった、あの手帳の、ふとした断片。
《風祭くん:強がってたけど、やっぱり、誰かに見ててほしかったのかも》
球児は深く息を吸って、ふっと笑った。
小さく、ほんの少しだけ、照れくさそうに。
「……見てて、くれたんだな」
ふと、今の自分が書くとしたらどう書くだろうと思った。
ページの余白に、ボールペンでゆっくりと書き込む。
──「誰かに見てほしいなんて、思ってなかった。
……って言ったけど、嘘だったな」
窓の外では、グラウンドの方向から風が吹き抜ける音が聞こえる。
誰もいない夜の静けさの中で、その音だけがやけにリアルだった。
ノートを閉じて、球児は顔を上げる。
まだ全部を受け入れたわけじゃない。
それでも──誰かに「見られること」を、少しだけ、肯定してみたかった。
投げる理由が、また一つ、増えたような気がしていた。
■
放課後、少し涼しい風が吹く校舎の廊下。
スコアラー・飯塚まことは、なぜかうろうろと歩き回っていた。
「えっと、ノート、置き忘れたの……どこだっけな」
手に持った筆記用具セットをカタカタいわせながら、迷った先は――図書室だった。
静かな空間。誰もいないかと思って足を踏み入れると、奥の一角から微かな声が聞こえた。
「白川南のエース、スライダー主体でテンポを作ってる。1回裏で必ずインローに投げてくるクセがある」
「じゃあ、初球狙いの作戦もアリかもな。相手が球数で勝負するなら、こっちは“間”で揺さぶろう」
千紗と石原だ。
飯塚は驚いて、咄嗟に本棚の影に隠れた。
盗み聞きする気はなかった。……なかったけれど、足が動かなくなった。
彼らの会話は、まるでプロのスカウトみたいだった。
相手の傾向、球種、打者の癖、データと経験に裏付けられた言葉たち。
――みんな、戦ってるんスね。
飯塚は、そっと図書室を出た。誰にも見られないように。
中学三年の春。
飯塚まことは、ピッチャーだった。
正確に言えば、「補欠ピッチャー」。背番号はいつも11か12で、試合にはめったに出られなかった。
けれど、誰よりもデータを見て、誰よりも丁寧に準備をしていた。
ある日の練習試合。先発投手が突然のアクシデントで投げられなくなり、監督がぽつりとつぶやいた。
「……飯塚、いくか」
「はい!」
返事だけはよかった。ブルペンでもストライクが入り、フォームも乱れなかった。
だが、本番は違った。
最初のバッターに、いきなり四球。
次もフルカウントから、痛打された。走者が溜まるごとに、肩が縮こまっていった。
そして――
三番打者に投げた、インコースへのストレート。
結果は、満塁ホームラン。
左中間へ弧を描いて飛んでいった白球が、どこまでも遠く見えた。
ベンチに戻るとき、仲間の誰もが声をかけなかったのが、逆に辛かった。
試合後、監督がぼそりと漏らした。
「なんであんな球、投げたんだ」
理由はあった。キャッチャーのサインは外角低めの変化球だった。
けど、手が震えて、投げられなかった。ただ、それだけだった。
***
その夜、スコアブックを開いた飯塚は、その一球に迷った。
三番打者の「HRホームラン」という文字は、書けた。
点数も、失点も、四球も全部記録できた。
けれど、“なぜその球が投げられたのか”──
自分の中にあった迷いと、恐怖と、震えは、どこにも記録できなかった。
「数字って、全部を語ってくれねぇんだな……」
その日から、飯塚はピッチャーをやめた。
だけど、グラウンドにいることは、やめなかった。
「だったら俺が、“語れない数字”を見つけてやるよ」
そうして、スコアラーになった。
選手じゃない。ベンチにも立てない。
でも、「見てる」ことならできる。数字の裏にある、空白の“想い”を、掬い上げることは──きっと、自分にしかできない仕事だと信じている。
***
今、彼のスコアブックの最後のページには、こう記されている。
《あの時、書けなかった一球の意味。
それは、“責めるため”じゃなく、“支えるため”に必要だったってこと。》
飯塚まこと。
ポジションはスコアラー。
今も彼は、数字の陰で、“選手の心”を記録し続けている。
***
その日の夜。
飯塚は、自分の部屋の机に向かっていた。
スコアブックを開き、ノートパソコンとにらめっこ。
5年前からの新聞記事、ネットの高校野球データベース。
目をこすりながら、ひたすら数字を拾い続ける。
「白川南高校、得点が集中するイニング……3回と6回か」
そう呟きながら、消しゴムで何度も書き直す。図や表は得意じゃない。
でも、数字の裏にある“流れ”を読もうとするその姿は、どこか誇らしげだった。
***
数日後のグラウンド。
「……えっ、これお前が作ったのか!?」
石原が驚いた声を上げた。
手元には、手書きでびっしりと埋まったA4の紙数枚。
《白川南高校・過去5年の得点パターン一覧》
《3回裏:打順2~5が要注意》《6回表:強攻策傾向あり》
飯塚は照れくさそうに頭をかきながら、ぽつりとつぶやく。
「自分、足は遅いんスけど……数字で、走るタイプなんで」
仲間は何も言わなかった。
ただ、その資料を手に取って、ゆっくりと頷いた。
飯塚まこと。
ポジションはスコアラー。“数字の職人”として、見えない場所で、しっかり戦っていた。
■
放課後の図書室は、窓から差し込む西日で、本棚の影が長く伸びていた。
千紗は窓際の一番奥の席に座って、開きかけのスコア帳を閉じると、そっと膝の上に手帳を広げた。白いページの端を、何度も指先でなぞる。
ペンを取り、書き出す。
《風祭くん観察日記・その8》
*キャッチャーミット越しに石原くんと話してたとき、ちょっと目が笑ってた。
声は聞こえなかったけど、あのときだけ、肩が少しだけ力抜けてた気がする。
*図書室で、観察日記を見られたかもしれない。
本の間から覗いたら、風祭くんが手帳の方ちらっと見て、それから目をそらした。
でも、なんだか怒ってなかった。
……むしろ、耳のあたりがほんのり赤くて、それがちょっと嬉しかった。
*帰り道。
校門の前で風が吹いて、風祭くんの髪が少しだけ乱れた。
それを気にして、指でそっと整えてた。
いつもは無造作なはずなのに、今日はなんだか、その仕草がやけに丁寧だった。
どうしてかな。
千紗はそっとペンを置き、ページの下の空白に、ひとつ深呼吸してから、こう書き加えた。
「今日の風祭くん:気づいてたのかも。私が“見てた”こと、ずっと前から」
ぱたん、と手帳を閉じる音だけが静かに響いた。
図書室の窓の外では、夕焼けがゆっくりと沈み、グラウンドには誰もいない。だけど千紗の心には、ずっとそこにいる風祭球児の影が、はっきりと、あたたかく残っていた。
■
夜。
部屋の明かりは小さなスタンドだけ。
石原涼介は、自分のベッドにごろんと仰向けになりながら、キャッチャーミットを胸の上に乗せていた。
合宿用に買ってもらった大きめのミット。すでに土の色が沁みついている。ポジション柄、消耗が激しくて、去年のミットはすでにボロボロだった。
「……マネージャーって、すげぇよな」
ぽつりと、誰に聞かせるでもなく呟いた。
今日、千紗が作戦ボードの前で話していた内容。
相手投手のスライダーの回転数とか、データから逆算した盗塁タイミングとか。
「野球オタクかよ」って思うくらいに、目が真剣だった。
だけど、不思議と嫌じゃなかった。
「データと情熱、どっちも持ってるんだもんな。あの人は」
それに比べて自分は、と石原はミットをぎゅっと抱きしめた。
キャッチャーというポジションは、孤独だ。
誰かのボールを受け止めることが仕事で、ミスをしても、褒められることは少ない。
でも。
――信じなきゃ、始まらない。
「俺は……風祭を信じるよ」
言いながら、自分の声がちょっとだけ震えていたのに気づいた。
あいつのボールは速い。荒れる時もある。でも、あのフォーム、あの手首の角度――
何度も受けてきた。何度も、背中を見てきた。
「それで打たれたら……そんときは俺のせいでいいや」
責任ってのは、たぶん、そういうことだ。
だから、自分がミットを構えたその先に、あいつの「全力」が来てくれればいい。
スタンドの光が、だんだんとぼやけていく。
石原はそのまま、ミットを胸に抱きながら、静かにまぶたを閉じた。
夢の中でも、たぶん自分はミットを構えてるんだろう。
投げてくるのは、きっとあいつだ。
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