第15話 『背番号1の責任』

 早朝の校舎に、まだ生徒の気配はなかった。




 グラウンドに面した校舎の四階、古びた教員室の窓から、長谷川校長は湯気の立つマグカップを手にして、外をぼんやり眺めていた。


 朝の静寂を破るように、カコン、と乾いた音が風に乗って届いてくる。




「……また来てるか」




 視線の先、グラウンドには一人の影。




 ピッチャーマウンドに立つ、背番号“1”のユニフォーム。


 風祭球児だった。




 キャップのつばを指でなぞりながら、一呼吸。


 そして、静かにセットポジションに入り、一球を投じる。




 そのフォームに、かつての自分を重ねたのは、校長にとって自然なことだった。




「……やっと、“1”の意味を考える奴が現れたか」




 かつて、長谷川自身も「背番号1」を目指した選手だった。


 だが、怪我と進路の現実に押され、夢を折り畳んで教員となった。




 あれから何年も経つ。




 グラウンドで汗を流す者たちを見守る立場になった今も、朝焼けのマウンドに立つ者を見ると、胸がざわつく。




 球児がまた、投げた。




 フォームに、迷いはあっても逃げはなかった。


 むしろ、不器用なまでに真っすぐだった。




 長谷川は机に戻り、革の手帳を開いた。


 カリカリとペンを走らせる。




 ──風祭球児、ようやく野球と向き合い始める。




 文字を見つめ、ふっと口角をゆるめる。




「さて……今年の夏は、もう少し見てみるか」




 校長はマグカップの中のぬるくなったコーヒーを啜りながら、再びグラウンドへ視線を戻す。


 そこには、朝の光を浴びながら、何度も何度も腕を振る風祭球児の姿があった。




 校長室の書棚の最上段には、誰も手を触れない古い木箱がある。


 中には、若き日の長谷川自身が着けていた「背番号10」のユニフォームが、今も静かに眠っていた。




 その日も、朝の誰もいないグラウンドを見下ろしながら、長谷川は小さく独り言をつぶやいた。




「……俺も、あそこで何度も投げたもんだ」




 高校二年の夏。


 控えピッチャーとしてベンチを温めながら、夢ばかりを見ていた。




 エースにはなれなかった。


 けれど、あの日々は確かに、自分の中の「何か」を形づくっていた。




 それは、三年の夏の地区予選、ベンチの隅で見上げた夕空の色とともに、今も忘れていない。




「もういいだろ、夢なんて」


 そう言ってユニフォームを箱に仕舞ったのは、教師になって間もない頃だった。




 以来、彼は一歩もマウンドに立つことはなかった。


 選手としても、指導者としても。




 ──それでも。


 人の夢を、誰よりも信じていた。




 その背中が、ようやく「野球の朝」に追いついてきたのだ。




 ある日。


 部活終わりのグラウンド。


 長谷川は一人、校舎裏の旧器具倉庫の影からそっと様子を見ていた。




 修司が黙ってノックを打ち、球児がただ無言でその球を追いかける。


 口を開かず、目も合わさず。


 だが──なぜだろう。あの親子には、確かに「会話」があった。




 たった一球の送球。


 たった一歩のベースカバー。




 「血だな……似るもんだよな、背中ってのは」




 そう呟いたとき、倉庫の壁に寄りかかっていた手が、思わず小さく震えた。




 もう一度、自分にも野球ができたら。


 そんな想いを、今さら抱いてしまうことが悔しかった。




 でも──だからこそ、彼は願っていた。




 風祭親子が、


 三島たちが、


 桜が丘が。




 「俺の代じゃできなかったことを……やってくれ」




 長谷川は、再び空を見上げた。


 昔と変わらぬ校舎の上に、少しだけ高く昇った夕陽が、頬を照らしていた。







 朝の陽が昇りきる前、桜が丘高校のグラウンドにはすでに部員たちの姿があった。




 乾いた砂の上に立ち尽くす球児の背中には、真新しい背番号――“1”のゼッケンが縫い付けられていた。




「……ついに着たな、あの背番号」




 誰かがぽつりとつぶやく。その声に、他の部員たちも思わず手を止めた。




 ブルペンの奥から、キャッチャーミットを持った石原がのっそりと現れた。マスク越しに、じっと球児を見据える。




「いくぞ、風祭」




「……ああ」




 球児の足元には整えられた土。自分が整備したマウンド。立つのは、あの夜と同じ場所だったはずなのに、空気が違う。背中の“1”が、微かに重く感じる。




 第一球。




 構えた石原のミットへ、鋭いストレートが突き刺さる。




 パンッ!




 乾いた音が、グラウンドに響いた。




「ナイスボール!」




 三島が声を上げる。続く部員たちの拍手。みな、球児を見つめていた。




 が、球児の表情は晴れない。眉間に皺を寄せ、どこか焦っているような投球が続いた。




 フォーク、スライダー、ツーシーム。




 どれも鋭く落ち、球速も文句なしだったが、石原が一度、マスクを外して言った。




「お前、力入りすぎ。抜くとこ抜けって。俺のミット、壊れるわ」




「……わかってる」




 返事をしながらも、球児の目は鋭いままだった。石原はぼそりとつぶやいた。




「……わかってねぇ顔だな」




 グラウンドの隅では、修司が腕組みしながら立っていた。何も言わない。ただ、じっと見つめるその姿は、かつてプロ球団のスカウトとして知られた男のまなざしだった。




「……悪くないな」




 ぽつりと漏れたその声に、近くで聞いていた三島がちらりと目をやる。




「褒めてるんですか、それ?」




「いや。言葉通りだ」




 それだけ言って、修司はくるりと背を向けた。




 その頃、千紗はスコアを取りながら、黙って球児の様子を見ていた。




 いつかのように、笑って投げる風祭くんではなかった。どこか、押しつぶされそうな目をしている。




 練習が一段落した頃、千紗はそっと球児に麦茶のボトルを差し出した。




「はい、麦茶。……ちょっと、顔が怖かったよ、今日の風祭くん」




「……そっか」




 受け取った球児は、口をつけながらも目を逸らしていた。




「なんかさ、“結果出さなきゃ”って、そう思ってない?」




 球児の手が止まった。




「……背番号1、背負ったんだ。投げるだけじゃダメだって思ってる。……期待されてるなら、ちゃんと勝たなきゃ」




「うん。でも、風祭くんって、もっとこう……野球を“好き”でやってたじゃない?」




 千紗は少し照れながら、それでもまっすぐに言った。




「今の風祭くんの顔、ちょっとだけ、好きじゃない」




 それは叱責でもなく、励ましでもなく、ただ素直な感想だった。




 球児はふっと息を吐き、麦茶を飲み干す。




「……ありがとな。千紗」




「ん? 今、呼び捨てだった?」




「気のせいだ」




 そんな会話のあと、球児はまたブルペンへ向かっていった。今度は、少しだけ力の抜けたフォームで。




 風が、背番号を揺らしていた。







 その日、千紗はいつもより早めに練習場に顔を出した。


 朝の光に照らされたグラウンドでは、誰より先にユニフォーム姿の風祭球児が立っていた。




 彼は黙ってマウンドに上がると、何度かゆっくりと深呼吸をした。


 大きく吸い込んで、小さく吐く。


 その姿はまるで、見えない重さを一つずつほどいていくようだった。




 千紗は少し離れたベンチに座りながら、手帳をそっと開いた。




《風祭くん観察日記 7月×日》




・ピッチャーマウンドに立ったとき、最初だけ少し深呼吸してた。


・そのときの横顔、目つきがいつもより少し鋭くて、でもどこか心細そうだった。


・アップの後、麦茶を渡したら「サンキュ」って言って受け取ってくれた。


・手がほんのり熱かった。きっと、緊張してたんだと思う。


・ブルペンでの投球は、いつもよりテンポが早くて、でもフォームは崩れてなかった。


・石原くんとキャッチボールしたとき、最後の一球のミットの音に、ちょっとだけ顔が緩んでた。




 千紗は、そこまで書いたところで、少し迷ってペンを止めた。


 球児の背中には「1」のゼッケンがしっかりと縫い付けられていた。


 それはまるで、彼がようやく“チーム”に背中を見せた証のようで、


 その代わりに、誰かの視線を受け止める覚悟でもあるように思えた。




 ページの最後に、千紗はそっと書き添えた。




「今日の風祭くん:強がってたけど、やっぱり、誰かに見ててほしかったのかも」




 風が少し吹いた。


 手帳のページがふわりと揺れたあと、千紗は目を細めてグラウンドを見つめた。




 そこには、背番号“1”の背中を背負ったひとりの投手と、


 その背中を静かに見守る仲間たちの姿があった。







 夕暮れのグラウンド。


 練習が終わった後、誰もいないはずの土の上に、一人だけ残っている影があった。




 三島大地だ。




 キャプテンとして、ノック後のグラウンド整備はもう癖になっていた。


 誰にも言われていないし、言うつもりもない。


 ただ、静かにトンボをかける時間が、妙に心を落ち着かせた。




 スパイクの跡、転んだ跡、踏みしめた跡。


 どれも、今日一日を懸命に生きた痕だ。




 トンボを止め、ふと視線をベンチの方に向けた。


 ──風祭球児の背中が、まだそこにあるような気がした。




 今日、彼は“背番号1”を着て投げた。


 誰にも何も言わず、ただマウンドに立ち、ボールを放っていた。




 それは「勝たせてやる」なんて大げさな宣言じゃない。


 でも、あの背中にはたしかに、“何かを守ろう”とする意志があった。




 三島は帽子を脱ぎ、汗で湿った髪を指でかき上げる。


 そしてポケットから自分のユニフォームを引っ張り出すと、背番号“6”の部分をぎゅっと握った。




「……エースってのは、勝つための存在だけじゃねぇんだよな」




 そう、ぽつりとつぶやいた。




 試合で点を取られても、崩れても、


 あの背中が前を向いていたら、チームは立て直せる。


 そしてその背中を、前に押し出すのが主将の役目だ。




 三島は再びトンボを持ち直し、整地を再開した。




 小さな石を避けながら、土の流れをならしながら、


 その心はひとつの決意を固めていた。




 ──この夏、“風祭”と一緒に、負けたくない。




 夕陽がグラウンドの端に長く影を伸ばしていく。


 その中で、キャプテンの背中もまた、少しだけ強くなっていた。





 


 夜。


 部活が終わり、シャワーを浴び、夕飯もそこそこに済ませたあと、石原翔太は自室の机に向かっていた。


 ベッドの下から引っ張り出したのは、表紙が少し擦れた黒いノート。


 誰にも見せたことのない、自分だけの“キャッチングノート”だ。




 パラパラとページをめくり、今日の練習の記憶を手繰るようにペンを走らせる。




《7月×日 ピッチングデータ:風祭》




・ストレート:キレ○/球速は安定


・フォーク:握りが少し浅くなってる? 落ちが甘い場面あり


・カーブ:コントロール良/左打者に有効


・ランナーあり:セットに入るとフォームが若干早くなる。球質も軽くなる




 石原は顎に手を当て、少し考え込んだ。




 今日の風祭は、いつも通り無口だったが、何かが違っていた。


 いや、いつも通りじゃないからこそ──違いがはっきり見えたのかもしれない。




 “背番号1”を着けて、あいつはマウンドに立った。


 言葉にこそしなかったが、その一歩にどれだけの想いがあったか──


 キャッチャーとして、石原は受け手として、少しだけわかった気がした。




 分析欄の下、空白の余白にペンを走らせる。




「風祭、今日ちょっと重そうだった。


 でも、それでも投げるって決めた顔だった。


 あの背中、支えてやるのがキャッチャーだよな」




 石原はノートを閉じ、キャッチャーミットを棚の上にそっと置いた。


 明日もまた、風祭の球を受ける。


 それがどんな球であっても、自分はミットを構えて、全力で受け止める。




 それが“バッテリー”ってもんだろ、と心の中でつぶやきながら。







 夜の台所は静かだった。


 窓の外で虫の声が遠く聞こえる。蛍光灯の白い光が、ステンレスのポットをかすかに照らしている。




 風祭修司は、小さく舌打ちをしてからインスタントコーヒーの瓶を手に取った。


 カップに粉を入れ、沸騰した湯を静かに注ぐ。湯気がゆっくりと立ちのぼる。少しだけ、まるで息を吐くように。




 「……力んでたな、あいつ」




 口に出した瞬間、自分でも気恥ずかしくなって目を伏せる。


 あのとき、何も言わなかったのは、言えなかったのではない。


 言葉なんかで伝わらないと、わかっていたからだ。




 『背番号1』の重み。


 修司がかつて背負いきれなかったもの。


 だからこそ、息子には、自分の足でそれを越えていってほしかった。




 「……結果じゃねぇんだよ」




 その声は、コーヒーの香りにまぎれて、夜の静けさに吸い込まれていく。


 思えば自分は、いつもそうだった。背中で語ろうとして、距離ばかりつくってきた。




 湯気越しに、ぼんやりと浮かぶキャッチボールの記憶。


 少年だった球児の手から、ボールが真っ直ぐに届いた日のこと。


 それはもう、遠い昔のように思えた。




 ──もう一度、あいつと向き合えるのなら。


 一球ずつ、全部を伝えるしかない。




 「わかってくれるまで……投げさせるさ」




 コーヒーを一口。苦くて熱い、それはまるで、不器用な自分の愛情のようだった。


 ため息まじりにカップを置くと、修司はそっと、古びた練習ノートを開いた。


 明日もまた、誰かの背中を押すために──。


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