偽りの始まりと小さな相棒

「お主様…ねんねん…眠い…」


「眠れ。お主様が家へ連れて帰る」


僕は慎重に姿勢を調整し、彼女をよりしっかりと背中に固定した。熔殻虫との戦いは、我々の力の全てを振り絞り尽くした。


帰り道は、初めて来た時よりも、ずっと軽やかに感じられた。

 


ぼろくてそれでもなぜか安心するあの借家に戻り、息が漏れないほどの慎重さで熟睡するネンネンをベッドに横たえ、布団をかけた。


彼女の安らかな寝顔を眺めて、初めて張り詰めた神経が解けた。


「…ふぅ」


「ハッ!…やったぞ、あの大虫を倒せたなんて…!」


喜びが心の奥から湧き上がった。


しかしそれは同時に、押し寄せる怒涛の疲労と、体中の各所から遅れて襲ってくる激痛の合図だった。


「ちっ…うぐ…」


壁に手をかけ、よろめきながら狭いバスルームに辿り着く。ムリな動きで、筋肉を痛めてしまった…また数日痛みが続きそうだ。


鏡に映る自分の姿を見た。金髪は変わらず、イヤリングは薄暗い照明の下でかすかに光っている。


転生したその日から、この体自体が驚きだった。


ボロボロになった上着を脱ぐと、鍛え上げられた上半身が露わになる。


筋肉の流線は滑らかだが力強く、皮膚は新旧入り混じる傷痕だらけだ——スライムによる侵蝕痕、ゴブリンの爪痕、熔岩による焦げ跡…。


しかし、その傷の下には、常人を遥かに凌駕する頑強な肉体があった。


軽く右腕を動かしてみると、なんと回復がかなり進んでいる! ネンネンの治癒の気配と、自らの高い回復力によって、古傷が驚くべき速さで癒えつつあった。腫れは引き、深い痣(あざ)の痕が残るだけだ。


「こ、この回復力…ありえない…」


僕は呟きながら、かさぶたになりつつある深い爪痕を指で撫でた。普通なら、こんな傷は最低でも数週間の静養が必要だというのに、まだ二日も経っていない!


素夜空塵(そよ くうじん)の肉体能力! まったく驚異的だ…。


奴はきっと…誰にも知られぬところで、苛烈極まりない、自虐とも言える鍛錬を積んでいたに違いない。だが、何のために? 力を追い求めたのか? それとも…別の目的があったのか?


「催眠師(サイレンサー)」という、陰湿な職業を選びながら、これほどの剛躯を持つ男…奴の実像とは何だったのか?


さらに僕を混乱させるのは、奴の一つの職業が——「癒し手(ヒーラー)」だったことだ。


目を閉じ、ゲーム内の「素夜空塵」についての断片的な記憶を必死に辿ってみる。


彼は悪役(ヴィラン)だった。スキルツリーは「精神汚染(メンタル・ポイズン)」、「暗示操作(インパルス・サジェスト)」、「苦痛吸収(ペイン・ドレイン)」といった陰険な催眠系スキルばかりで、「癒し手」などという職業とは全く無縁だったはずだ。


しかし、この肉体の記憶の深層に眠る、「癒し手」としての根源的な力は紛れもなく存在した!


微弱ではあるが、確かに!まるで意図的に埋められながらも、それでもなお強く根を張り発芽した一粒の種のように…。


「素夜空塵…お前は…どんな過去を持っているんだ…?」


僕は鏡に向かって呟いた。鏡に映る金髪の青年は、答えの出せない問いをはらむ複雑な眼差しでこちらを見つめていた。

 


それからの数日間、生活は穏やかなペースで流れた。ようやく休める時が訪れたのだ。


熔殻虫が残した熔岩結晶を吸収したネンネンは、活力を驚くべき速さで取り戻し、前以上に元気いっぱいになっていた。


彼女は完全に僕に張り付いた存在になった。食事の支度をする時も、掃除をする時も、本を読んでいる時も、ただぼんやりしている時も…僕が何をするにも、小さな青い影が必ずすぐそばに寄り添っていた。


学園の始まる日が刻々と近づいてくる。片隅に忘れ去られていた一枚の書類——『冒険者学園(リスクテイカーズ・アカデミア)』の入学許可証を、ついに出してきた。濃紺の厚紙の表紙には、燻し金(くすがね)で茨(いばら)と剣が交差した校章が光っている。


学生証の写真を見る。そこにいる「素夜空塵」は、派手な金髪をイヤリングで強調しているのに、純粋そのものの笑みを浮かべている。


ファイルに記載された彼の過去に関する情報はほとんどなく、出身地として「風惜(かぜおと)村」とあるだけだった。記憶にはない名前だ。


「お主様?」


ネンネンの声に考えごとを遮られた。いつの間にか机によじ登り、小さな頭をかしげながら、僕が手にした入学許可証と学生証を不思議そうに見つめている。


「これ…なに?」


小さな指で、チラリと許可証をトントンとつついた。


「学校だ」


僕は証書をしまい込み、彼女の髪をクシャクシャと撫でた。


「たぶん…面倒な場所だろうな」


「学校?」


初めて聞く言葉を繰り返し、大きな瞳に好奇心があふれ出した。


「面白い? ねんねん…行ける?」


彼女の純粋無垢な眼差しを見る。そして脳裏に浮かぶのは、学園で出会うかもしれない「面識のある」面々——彼に傷つけられたヒロインたち、そして…あの、必ずや輝きを放つ運命の「主人公」の姿だ…。


「ハ…ハハ」


皮肉な笑いが零れた。面倒?多分…死を意味するだろう!


しかし、ネンネンの期待に満ちた眼差しを直視し、深く息を吸い込むと、心の中の疑念や不安をぐっと押し殺した。


「…そうなるかもな」(ゲーム中なら、使用人やペットを連れて行けもした。だが問題が起きた場合の責任は自己負担だった)


僕は彼女のふにふにした頬を優しくつまんだ。


「だが、それより前に、お前の入学祝いを準備しなきゃな」


例えば、彼女を普通の人間の小さな女の子に見せられるような服一式。そして…彼女の非人(ひじん)的な本質を完璧に隠しきる方法を。


始業の鐘が、今まさに鳴ろうとしている。


平穏な日常は終焉を迎えようとしている。


いよいよだ——僕の学園生活が、始まるのだ。

 

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