第6話

 奴は本当にいた。

 ためらった。見なかったフリをして帰ることは出来た。しなびた心にムチを打ってなんとか開けたドアは途方もない重さだった。

「汐崎」

 そいつは本棚に囲まれたあかねさす大きなテーブルに、腕を預けていた。

 顔を上げた拍子に、原稿用紙へ真っ直ぐ垂れていた髪が揺れる。

「その……“小説の話”の続きしたくて、もしかしたら、いるかなって」

 そいつの碧い石のはまった目は、初めて笑った。


「口きいてくれると思わなかった」

 汐崎ジェナの向かいに座ったあたしはその発言をシカトし、“萬屋アリス”を差し出す。もはやこいつ用に被る猫などない。それは向こうも同じなのだろう。

「……これ、前にあたしが好きって言った本。子供向けだからあんたには面白くないかもだけど、良ければ読んで」

 そいつは「ありがとう」と早速読みだす。

 ページをめくる音だけが秒針が動くように静寂に刻まれ続ける。しばらくして、

「一章目、終わった」

「どう?」

「児童書にしては良い」

 そいつの眼が笑ったのが、用意していた言葉で喉を震わす覚悟の最後のピースだった。

「……その本、初めて読んだのはあたしが小四の時なんだけどさ。めちゃくちゃ面白くて。どうしたらこんな小説が書けるのかなって。すごく憧れて、」

「確かに深山さんぽかった。“四中の鍵穴”の学校に住んでる魔法使いのくだりもこれの影響でしょ」

 ムカ。細かいとこ覚えるな。続きを言おうとしたのにその態度がシャクで言葉を捨てる。

「続き読んで」


「二章終わった」

「読むの速くない?」

「昔からよく読むから、文章」

「そういや、あんたが好きな本ってどういうものなの?」

 一週間前。“萬屋アリス”を読み返した時、初めて読んだ時のワクワクが次々蘇った。この本を読んで生まれた、「あたしも書きたい」って熱い深い衝動を思い出して、懐かしくて、でもそのせいで悲しくなって嫌になって、ふと浮かんだ。

 あいつにも、あたしにとっての“萬屋アリス”はあるのかな、と。遠ざかっても消せない、心臓の底に糸をくくりつけて引いてくるような思い出の物語は。

 それを想像してみると不思議なものだ。初めて小説好きとしてこいつと語り合いたくなった。

 それに──いや、“もう一つしたい話”をのことを浮かべると、心が逃げ出したそうに後ずさった。怖くない怖くない、と手を引いて戻した。


 もちろん、あんな会話をした直後のこの一週間、教室で声をかけるなんてしたくなかった。だから先週と同じ曜日、同じ場所にいなければ諦めようって。

 そして、そいつは本当に放課後の図書室で一人、小説を書いていたのだった。


 そいつは「変なもの食べた?」とでも言いたげに笑ってから、

「そうだな。小説なら“わたしの上京”って分かるかな」

「知らない」

「地方の中学生が、突発的に一人で東京に行く話。今度貸す」

 語尾がはずんでいる。まるで恋の相手の名を呼ぶような、『小説を書くことだよ』の言い方と似ていた。


「あんた都民じゃん。都会に憧れる気持ちとか分かんの?」

 都会に行けば何かがあるんじゃないかって、根拠のない希望の押し付けが。

「全然分からない。好きな場所じゃなかったから。

 でも、遠くに逃げたくなる気持ちは誰でも持ってるでしょ。その矛先が違うだけ」

 碧い眼の奥は、張り詰めていた。

 あたしは、この顔を知ってる。いや、実際に見たわけじゃない。でもあたしの頭の中に、こんな表情をする少年がいる。

 汐崎の小説──“日速三メートルのことば”の主人公は、こんな顔で空を見ていたのだ。

 痛みを噛み締めるように。

 かける言葉を見失っているうちに、彼女は本の世界へ戻ってしまった。

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