第5話

 風呂から上がった辺りでふつふつと憤りが蘇ってきた。手のひらへ爪を立てる。勘違いするな、あたしだって書けるのに。

 教科書の奥から白い表紙のノートを出した。“雨の国”の続き、この前は行き詰まったけど、今なら。


 シャーペンを走らせる。少しだけ進んだけど、結局根本的なところに無理があって、また詰まってしまった。ノートを閉じる。


 ああ……みんなに見せるための小説、用意しなきゃな。虚ろに思い出して、スマホを出した。例のアプリを起動し『続きを書いて』と打ち込んだ。抵抗みたいなものも回を重ねるごとにどんどん摩耗して、今や消えてしまった気がする。

 送信した瞬間、流れるように言葉が溢れた。

 目の前に広がる物語文は整っていた。さっき自分が作ったものがゴミに見えるほど。スマホに付けた指先から感覚が薄くなる。

 書くことで少しだけ取り戻しかけた自信が萎んでいく姿が見えて、頭を掻きむしりたくなってくる。

 何でこんな設定が、展開が、思いつくんだろう。

 生きてないのに。


 気持ち悪。急に吐き気がきざして、あたしは穢らわしい画面から指を離した。人の心を動かそうとするなよ、人間じゃないくせに。

 手元の開いたままのノートと見比べて、ふっとアホらしさで笑いが漏れた。

「あたし、何のために書いてんだろ」

 声がブレる。

 何でまだ書こうとしてるの?

 叶わないことを理解させられるだけなのに。実際あたしの代わりなんていくらでもいて、何なら機械の方がずっと、


「……う、」


 情けない声が喉を震わせて、堪えきれなくて、とうとう決壊した。

 勢いよく机につっぷす。涙がじわじわじわじわ滲んできて、鼻水まで垂れてきて、汚らわしいそれらが袖に染み込んでいく。

 喉がギュッって詰まって、息ができない。そのたびに透明がぼろぼろ溢れる。

 あたしには溢れても溢れても無くならない感情があるのに、なんで心のないおまえの方が。


 どれだけそうしていただろうか。何でも良いから気を紛らわせる先を見つけたくて首を動かせば、本棚が目に入った。最近、全然読書してないや。

 物語のこと考えるたびに、追いたてられてるみたいに焦るから。

 そういえば月曜、汐崎ジェナが訊いてきたな。『深山さんは好きな小説ってある?』って。その問いには素直に一番好きな小説の名前で返した。

 椅子を立ち、本棚を見渡す。あった。

 その本をを取り出すと、ほどよい重みが手のひらにかかる。これ、こんなに小さかったっけ?

 表紙が見えるように両手で持つと、荒んだ心がきゅんと躍って、少しだけ潤った。切なさに似た懐かしさが心を震わす。

 あたしにとってこれは──心が躍って、楽しくて、でも優しくて。最後には泣きそうになる。特別な一冊。

(久々に読もうかな)

 小説のこと思い出すのは嫌なのに、でも一度生まれた「読みたい」を飲み込めなくて、導かれるようにあたしは物語への扉を開く、

 ◆

 お姉ちゃんがかしてくれた本の、すてきな表紙を。

 その本はふしぎだった。まるでノロイにかけられたみたいに、文字をおいかけるのが、ページをめくるのが、やめられないんだ。

 そうしてあたしはずっと床にすわったまま本を読み終えた。二時間くらいたっていた。イスにすわることもわすれていた。

 心があつかった。

 本をとじて、あたしはなんだか泣きそうになってくる。がんばろうって言われてるみたいだな。

 でも、楽しかった。ワクワクが止まらなかった。やっぱり本は、本だけじゃないけど、お話はま法みたい。なんにもできないあたしのことも、バカにしてくるヤツのこともわすれて、どこにだって行けるみたい。

 ……あたしもこんなお話書いてみたいな。

 好きな本はたくさんあるのに、こんな風に思ったの、今日がはじめてだ。


 ◆


 勢いよくドアが開く音で正気に帰る。

「桐〜!まだ起きてる?イヤホン返して……って、やだ、なんで泣いてるの!?」


 流動する視界の端に姉ちゃんを確認した。

 物語の扉を閉じる。足の痺れが小一時間座りっぱなしだったことを伝える。

 鏡を見ずとも頬の冷たさで、自分の顔が土砂降りに降られた後のようにみっともないことが分かった。なんでこのタイミングだよ。てか勝手に入って来るんじゃねぇよ。舌打ちすると、姉ちゃんはあたしの手元を見て声を上げる。

「まって!“萬屋アリス”じゃん懐かし〜!アンタこれ大好きだったよね!元々私が買った本なのに、影響されて小説まで書き出すしさ。久々に読んでんの?お姉ちゃんも読みた、ちょ!押さないで、」

 バタン!

 あたしの感傷の膜を破ってズカズカ侵入して来る姉を追い出し、あたしは再び物語を開く。最後の四章目、ヒロイン・アリスが依頼人の壱太にかけたセリフを、もう一度心で唱える。


『その悔しい気持ちは絶対すてちゃだめ!!ジャマなかじゃない。どんな気持ちも、あなただけの宝物なの!』


 指は震えていた。最初に生まれたのは怒りだった。

 バカなこと言わないで。

 やめてくれよ、思い出させないでくれよ。あたしが自分を守るために築いたもの、めりめり剥がないでよ。埋まってた本物を突き付けるな。

 昔と同じ声で再生される言葉は、かつてはただ励ましをくれるだけだったのに。今となっては心の根っこを痛いほど締め付けてくる。


 ……あたしは。汐崎ジェナの小説のすごさを前にして、確かに悔しいって思った。

 のに、自分の悔しさを捨てた。

 あーあ。もう目、逸らせなくなっちゃったよ。それが本物。

 あのね。宝物は、光は、差すだけじゃないの。強い光は、刺してくるんだよ。痛いんだよ。


 見習い魔女のアリスの萬屋には、章ごとに様々な人がやって来る。中でもこの章はお気に入りで、迷っている壱太の背中を押すアリスが眩しくて、あたしは読むたびに感動してたんだった。


 薄い埃を撫でた。あたしはいつの間に、きみに受け取ったものを忘れちゃってたんだろうなぁ。


 またじわっと目頭が熱くなる。胸を裂かれそうになって、肩が震える。どろどろの感情の雪崩が、ごめんね、と言葉を押し出していく。

「アリス。あたし、こんなのになっちゃった。小説を書くことを大好きだったこと忘れたのに、固執するのはやめられなかった。『すごい』って言ってもらうための道具としてしか、見ないような、奴に、なってっ、書けないのに認められたくて、だから……、嘘ついて」

 罪を零すたびに、ぼたぼた雫が落ちる。

 汚して、ごめん。あなたの友達だったあたしの、あなたに貰った大事な夢を、こんな形に歪めちゃった。

 もう一個。見ないふりをしていた本音の蓋が剥がれ落ちてしまう。


 あたし、本当は書きたい。

 すごく、物語を創りたい。本物の、自分の言葉で誰かに届けられればどれだけ良いだろうって、消えないのに。でも本気で書きたいって思うたびに、

 こごえるみたいに、怖くてたまらないんだよ。

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