WONDERFUL WONDER WORLD サード
隅田 天美
序章 はい、よろこんで 前編
誰かが言っていた。
--街は一秒たりとて同じ姿をしない
確かにそうだ。
緒方雄一警視副総監は、全面ガラス張りの執務室から街を見下ろし思う。
夕暮れ時。
眼下では厚手のコートやロングブーツを装備した人々が往来している。
首を下げれば一般職員などが帰路につくのが見える。
この部屋に入って、何年になるだろう。
最初のうちは、緊張していたが今はすっかり馴染んだ自分がいる。
ドアから叩く音がする。
「緒方警視副総監、猪口直衛が入ります」
渋い声がした。
だが、張りがありドア越しでも聞こえる。
「どうぞ、お入りください」
「失礼します」
入ってきたのは壮年の定年になる刑事が入ってきた。
肩についた腕章は警部を示していた。
直立不動で敬礼をする。
緒方も猪口に倣うように敬礼する。
だが、すぐに緊張を解いた。
「まずは、お座りください」
「……はい」
規律正しく、猪口は来客用ソファーに着席した。
その様子を見て、緒方は対面するように個人用ソファーに座る。
そして、制服の上着を脱いだ。
「今日は、『警視副総監』ではなく、あなたの『元部下』として話がしたいです」
猪口は数秒天井を仰ぎ、同じように上着と帽子を脱いだ。
「それで、『元上司』である俺を呼んで何を……」
緒方は言葉の終わりまで聞かず、立ち上がり部屋の隅にあった小型冷蔵庫からペットボトルのお茶を出した。
「俺、あなたに『お茶を入れるのが下手』と怒られたので、これにします」
この言葉に猪口は苦笑した。
ガラスで出来たサイドテーブルに置かれたプラスチック容器を触れようと猪口の左手が伸びた時、老刑事に苦悶の表情が浮かんだ。
時間とともに脂汗も出て、歯を食いしばる。
「大丈夫ですか⁉」
慌てる緒方を猪口は制した。
「大丈夫です……いつものことです……」
荒い息の間から、慣れているように猪口は反対の手で労わるように擦る。
時間にすれば、ほんの数分だが猪口は、顔を上げた。
「ご心配おかけしました」
そう言いつつ、断りもせずに反対の右手で器用にペットボトルの蓋を開けて一気に半分以上飲んだ。
今度は逆に緒方が顔を伏せた。
「猪口さん、傷…… 痛みますか?」
猪口は苦笑した。
「まあ、痛みますなぁ…… あの時の
「…… 見せて、いただけませんか?」
また、猪口は考えた。
今度は倍かかった。
真顔になり、「いいでしょう」と左腕の袖を捲る。
白い
いや、百足の様な手術痕だ。
自嘲するように猪口が口を開いた。
「この腕を見たり痺れが来るたびに思い出します。俺が自分勝手に作った【灰衣】、その犠牲になった部下たちを……」
その言葉を真顔で聞いて、思い出していた。
若き日の猪口直衛は正義に燃えていた。
故に社会や警察内に『正義』がないこと、成り立たないことに不満を持ち、同志を集め、非公式の公安組織を作った。
その時、若手だった緒方雄一も加わった。
だが、その緒方のミスで爆弾魔の仕掛けた手榴弾が暴発。
結果、猪口は長時間の手術で一命は取り留めたが痺れなどの障害が残った。
同時に、【灰衣】が警察上層部に知れ渡り、組織は解体され、メンバーの消息が途絶えた。
警察内に残ったのは猪口と緒方のみである。
「……あの時、猪口さんに助けてもらってなければ今の俺はいません」
そういうと、悲痛な顔の緒方は頭を下げた。
「だから、俺は最後の命令として『俺よりも上に行け。そして、【灰衣】の教訓を次世代に受け継ぐ組織を作れ』と言いました」
その言葉に緒方の表情が柔らかくなった。
「あなたもまた、障害を持ちながら常に事件の最前線で『百足の猪口』『公安の特級エース』『公安の墓守』と呼ばれ、敬われ、恐れられた」
「それも、あと数日です…… 実際、ここ数年はデスクワークが多いし、若手がだいぶ台頭してきた…… あと、一か月もしたら宿舎を出て、かかりつけの病院のある豊原県星ノ宮市で息子夫婦の下で自由気ままな隠居爺です」
「ほう……」
と、緒方は執務机に戻り、ある書類を持ってきた。
「では、これをお読みください」
不思議そうな顔をする猪口。
数枚の書類をプリントアウトしたものをホチキスで止めてある。
表題を見て猪口は目を見開いた。
『諮問刑事(仮)原案』
言葉が詰まる。
制服から慌てて老眼鏡をケースから出して夢中で読んだ。
何度も何度も読み返す。
麻痺ではない。
手が震える。
緒方はその間、のんびりお茶を飲んだ。
「『特別権限を持った半官半民による事件の検証や沈静化などを目的とした組織』 ……意外と骨でした。それにふさわしい人物が中々いない。しかし、灯台下暗しですね。あなたの関係者にちょうどいい人物たちがいた」
この言葉に猪口は意外にも複雑な顔をした。
嬉しさもある。
同時に怒りもある。
だが、覚悟した。
猪口は背筋を伸ばし、朗々と言葉を継いだ。
「『我が猪口家は如何様な時代でも中央政界に入り込み、日本を変えるよう努力し必ず日本を変える』 ……まさか、こんなことで彼らを使うことになるとは思わなんだ」
「ネット上では天皇家を陰で守る『猪鹿蝶』などと呼ばれていますが、ほとんど噂程度になっているようですが、未だに継いでいるんですね」
「ほぼほぼ、形骸化しています」
断言して猪口は温くなった残ったお茶を飲んだ。
「彼らの持つ高度な戦闘能力や情報網、経験などは非常に我々、公安部にとって有益なのです」
いつの間にか、部屋は夜の闇に染まり、自動センサーで間接照明が灯る執務室に二人はいた。
「…… 望んではいましたが、彼らの責任者が自分にふさわしいかはいささか疑問が残ります」
猪口は正直に告白した。
その猪口、かつての上司の目を緒方は真っすぐ見た。
「この組織はあなたの老後の慰めに作ったわけじゃない。俺はこの組織が成功したら、ゆくゆくは日本中の警察に編成させるつもりです。これは、あくまで【灰衣】の遺志を継いだテストケースです」
静かな時が過ぎた。
「緒方副警視総監、自分は最初に何をすればいいですか?」
ゆっくり、しかし、確かな意志を持って猪口は真剣に問うた。
緒方は肩の力を抜いた。
「よかった…… では、さっそくですが明後日、有休をとって夕方四時に成田空港に行ってください。そこに来るMr.Nの護衛をお願いします」
命令に猪口は静かに答えた。
「はい、よろこんで」
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