第14話 名前を失くした存在

空間は静かだった。

だがその沈黙は、嵐の前のものではない。


それ自体が、「すべての言葉が消えた世界」のようだった。


書架の奥、黒の帳の中から現れた存在。

《記録焼却者(エンディ・ルート)》


人の姿を模していたが、顔は何も描かれていなかった。

目も、口も、感情も、存在も、全てが未記載。


けれど、彼が立っているだけで、《アトリウム・ゼロ》の書架が一冊ずつ燃えていく。


「君はまだ、わかっていない」


その“声”は、言語ではなかった。


だが、ルークには聞こえていた。


「……わかってない? 何を」


「名前の呪いだ。

名付けられた時点で、存在は縛られる。

意味を持った瞬間から、可能性は“死ぬ”んだよ」


フェリアが口を塞ぐように震えながら言った。


「……その声……まさか……」


ルークがエンディ・ルートを見据える。


《オムニ・レコード》が一部の分析に成功する。


──名前:エンディ・ルート(Endyroot)

──正体:記録の第一階層“閉幕装置”

──機能:全記録への終了命令/観測不可領域の確定


(……こいつは、“終わりそのもの”……!)


「君は、“始まり”を読もうとしている。

だが、始まりには“終わり”が必要なんだ。

そうでなければ、物語は永遠に縛られる」


「……それでも、俺は読みに行く。

“終わらせないために”。始まりを読むことは、未来を諦めないってことだ」


「だから、愚かなんだ。

ルーク・アークレイン、いや——」


エンディ・ルートが手を差し出す。


「ArkLine-Zero。

君の本当の名前は、ここで生まれた“最初の記録形式”。

最初に“名を与えた者”の模造体。君は“人”ではない」


空気が張り詰める。


ルークの胸が、急に脈を打った。


“ArkLine-Zero”——

それは、《オムニ・レコード》の内部ログにも記されていた、存在未定義のコード。


《自己観測:不一致》

《補正開始》──


視界が、歪む。


ルークの中で、“自分”という定義が揺らぎ始めていた。


リシアが、悲鳴を上げる。


「やめて!! ルークは、ルークよ!!

人間とか記録とか、関係ない!!」


フェリアも、一歩踏み出す。


「記録守として言います。

ルークは“読んだ”。それが全ての証明です。

“理解しようとする意思”は、どんな存在にも宿り得る!」


しかし——


「ならば証明してみろよ、“記録”としての正しさを」


エンディ・ルートが手を振ると、空間が暗転し、

図書館の“最初の1ページ”が浮かび上がる。


そこには——


“ArkLine”という名を持たぬ、もう一人のルークに似た少年の記録


があった。


「名前って、ほんとはいらないよね。

呼ばれなければ、傷つかないし、責められないし」


「でも……“名前を呼んでくれた”あの子の声は、消えてほしくなかった」


その声を聞いた瞬間、ルークの視界に奔流のような記憶が流れ込む。


—自分は、最初の記録形式だった。

—存在するために、“誰かの観測”を必要とした。

—だが、それをしてくれた“誰か”の名を忘れてしまった。

—そして、自分もまた“ルーク”という仮の名を使い始めた。


「……俺は、存在してはいけなかった……?」


エンディ・ルートが静かに言う。


「君はただの仮初。観測を生むための、ただの記録体。

……“消えることで、物語を終わらせる者”として作られた存在なんだ」


ルークが、拳を握る。


「それでも……俺は、“呼ばれた”」


記憶の奥に、微かに響いた声。


「——ルーク、また明日も一緒に本を読もうね!」


その声は、今のリシアの声に似ていた。


いや、同じだった。


彼女が、名を呼んでくれたから。

彼女が、ルークと“呼び続けてくれた”から。


(……そうだ。俺は、“誰かに読まれた存在”だ。

でもそれは、“誰かと物語を生きた”という証拠だ!)


《記録確定:存在定義更新》

《名前:「ルーク・アークレイン」》

《存在形態:「観測者より生まれし、読む者」》


ルークが叫ぶ。


「もう“ArkLine”じゃない! 俺は、“ルーク”だ!!」


その瞬間、空間が白く爆ぜる。


“名前”が、確定された。


エンディ・ルートの形が崩れ始める。


「……名を持つ者に、私の干渉は……」


フェリアが手を合わせて言った。


「記録は、今、ひとつの命として確定されました」


リシアが微笑む。


「……おかえり、“ルーク”」


ルークは、小さく笑って言った。


「ただいま」

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