第一章:「逃げろ、息ができなくなるまで」

逃げなきゃ。




足がもつれても、汗で前髪が目にかかっても、


喉が焼けついても、


それでも走らなきゃ――あの「ものたち」に追いつかれる。




「こっち!」




隼人くんの手が、わたしの手を強く引いた。


その指が熱くて、皮膚が焼けつきそうだった。


心臓の音が、自分のものか彼のものか、もうわからない。




わたしたちは、真っ暗な樹林を駆け抜けていた。


ヘッドライトも、照明も、携帯の電波もない。


あるのは、月と星と、そしてあの……呻き声。




「う……ぅぅ、が……ああああ……」




叫ぶでも、泣くでもなく、


喉が破れるような音。


島にいたスタッフたちの声じゃない。


人間の“ふりをした”なにか。




あれは、生きてない。


でも、動いてる。




「やばいやばい、やばいって……!」




思わず声が出た。




「息……できない……」




背中が熱い。肺が焼ける。




「こっち、あおいちゃん!」




隼人くんが草むらをかき分けて、小さな洞穴を見つけた。


身をかがめて入ると、中は少しだけ広くて、湿っていた。




「……ここ、しばらく隠れられる」




壁の岩肌から、ぽたぽたと水滴が落ちている。


暗くてよく見えないけど、苔と湿気の匂いが鼻にこびりついた。




わたしたちは、息をひそめて座り込む。


身体が震えている。


どこまでが自分の鼓動で、どこからが彼の震えかわからなかった。




「……やばかった、な」




「うん……」




「マジで死ぬかと思った」




「……ちょっと、カッコ悪かった」




ふたりで、ふっと笑った。


なんでもない言葉で、ちょっとだけ空気がやわらぐ。




でもそのとき、不意に。




「ガシャッ……ガリッ……」




遠くで、木の枝が折れる音がした。




「……あいつら、嗅ぎつけてるかも」




「匂い……水音かも」




「どういうこと?」




「さっきから、ずっと思ってた。水場にだけ近づいてくる気がする。


感染源が水なら……あれも、水を求めてる」




「ってことは、ここ……まずい?」




「かも」




顔を見合わせる。


隼人くんの顔が、わたしの近くにある。


近すぎて、息がかかる。




でも、逃げられなかった。


じゃなくて、逃げる理由がなかった。


このとき、たぶん、わたしはもう彼に――




「……あおいちゃん、さ」




「ん?」




「怖くないの?」




その声は、少しだけ震えてた。


普段、無表情で無口な彼の、ほんとうの声。




「……怖いよ。めちゃくちゃ」




「なのに、冷静だよね。


君がいなかったら、俺……たぶん逃げ遅れてた」




「隼人くんがいなかったら……わたしもパニクってたよ」




「嘘だ」




「ほんとだよ。


でも……君がそばにいたから、逃げられた」




その言葉に、彼が目を見開いた。




「……俺も、だよ。


今、君の手、すげー熱くて、


生きてるって感じがする」




彼が、わたしの手をぎゅっと握った。


それが、くすぐったくて、くるしくて、


でも――甘くて。




「……なに、それ」




「わかんない。でも、ほんとに思ったこと」




わたしの胸の奥が、少しずつ水で満たされていく。


冷たいのに、温かい水。


あの感染の水とは違う、“生きてる”水。




そして――




「来るよ、外」




呻き声が、洞窟の入り口のすぐ外で響いた。




“奴ら”だ。




わたしたちは息を殺した。


ぴくりとも動かず、ただ手だけは、離さなかった。




このときの、肌の温度と、心臓の音。


きっと一生、忘れない。




生き延びるって、こういうことなんだ。




誰かのぬくもりで、鼓動を確かめながら


震える自分を、ちゃんと認めながら――




「……隼人くん」




「なに?」




「生きて……絶対、生きて、ね」




「うん。……絶対、ふたりで帰ろう」




ぬるく湿った洞窟の中。


水のしずくが、またぽたりと落ちた。




その音が合図みたいに、ふたりの手は、


もういちど、強く握られた。




夜は、まだ終わらない。


だけど、希望は――目の前にある。

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