人間と人狼
家を出て、隣の家のチャイムを鳴らす。いつもの朝の行動。鳴らしたインターホンだけが空しく響いた。家の主、瀬尾昴は、まだ帰ってはいないらしい。落胆しかけた時、頭上から声がした。
「……。なんですぐ来られるかな」
振り返ると、ふわふわの髪が目に入る。きまりが悪そうに、彼女は底に立っていた。大型犬みたいな、澄香の親友。昨日澄香を食らった、瀬尾昴。
「……。おはよ、昴ちゃん」
そこ顔は憮然とした表情に覆われていて、にへら、と表情を崩した澄香を、なにか辛いものでも見るようにみて、昴は顔を背けた。
「怖くないの?」
ぶっきらぼうに、彼女は聞く。
「怖くないよ」
澄香は言う。体をえぐられた感覚は、まだ胸に残っているのに、どこかふわふわとして恐怖は感じなかった。それを、昴が辛そうに見つめている。
「私、死んだの?」
だから、何か言われる前に、澄香はそう尋ねた。
ごめん。という、短い返事が返って来る。
「そっか」
「…………」
昴は、顔を背けたままだった。その顔で、その表情で、彼女は澄香がまだ生きている理由を知っていると分かる。それを、後ろめたく思っている事も。
「ごめん」
昴が繰り返した。いいよ。と短く答える。昴は、何度か何か言おうとして、口から言葉が出てきていなかった。その様子に苦笑して、澄香はその手を引く。歩き出す二人は、少しぎこちない。でも、澄香が気にしていない以上、それは時間が解決してくれる、はずだ。
「行こう? つみきちゃんも待ってるんでしょ?」
でもその空気が少しだけ悲しくて、場を和ませるように澄香はそう、彼女に尋ねた。彼女が生きているという事は、つみきは澄香のお願いを聞いてくれたという事だ。或いは。いや、胸に沸いた考えを振り切って、昴を見る。昴は、何かに耐えるようにきつく唇を結んでいた。ごめん。独り言のような謝罪が、その口から地面に落ちる。
「つみきは、死んだよ」
その言葉が、コンクリート小さく反射した気がした。
「私は死んだという事にしておいてください」
暗がりの中、こちらを見ないようにしてつみきは言った。昴は抱きかかえた澄香にそっと視線を降ろす。彼女はよく眠っている。つみきは、それでは、といって足早にその場所を離れようとした。
「待てよ」
その背中に、声をかける。
「何か」
「何かじゃないだろ」
あくまで冷静で、でも引きつったような声が癇に障った。自分でも驚くぐらい軽い澄香の体の重みが、昴の背を押す。
「理由は」
「私はいなくなるので」
「おい」
その言葉の意味が分からないほど、昴は平穏な人生を送ってきてはいない。彼女は昴たちの前から消えるつもりだ。彼女が澄香を傷つけたから。
「消えるべきなのは私だろ」
そう口に出していた。間違ったことは言っていない。なんせ、彼女を食べた張本人だ。
「昴さん、私は魔女ですよ」
明け方の、少し白み始めた空。その白い光の中にかき消されるように笑顔を作った彼女は、振り返って笑った。
「人狼を殺すものです。澄香さんとも、一緒にはいられない」
「澄香も殺すのか?」
「ええ」
即答だった。
「それを破ってしまうほど、私はまだ、吹っ切れてはいないんです」
「泣くぞ。澄香」
「そうだと、嬉しいですね」
それで昴を殺さなかったんじゃないか、と言う叫びを、彼女は華麗に脇へとどけて、そう笑った。その声色に、どこか突き放すような言葉を感じて、昴はそれ以上の問いかけをやめる。「ああ、そうかよ。じゃあ、どこへなりとも行っちまえ。こいつにはそう説明しておいてやる」
「ええ、さようなら、人狼の昴さん」
おさらばです。そう言って、彼女は朝の街に消えた。
あとには、何も残らなかった。
「嘘だよね」
澄香は、そう、真っすぐ昴の瞳を見る。昴は、うん。と、あっさりとその事実を認めた。
「なんでそんな嘘つくの」
「あいつの希望」
くしゃと、澄香の頭を撫でて、昴は歩き出す。
「もう会うつもりはないんだって。だから、そう伝えておこうと思って」
「昴ちゃん」
「ほら、行こう、澄香。学校に遅れる」
「昴ちゃん」
声を張る。その声に、昴はその場に立ち止まる。
「なんで?」
そのなんで、にはいくつかの意味がこもっている。なんで、彼女は生きているのか。なんで、昴は嘘をついたのか。なんで、昴は答えようとしなかったのか。昴は黙った後、くるりと振り返って口を開く。
「私が、澄香を人狼にした」
生き返らせるには、そうするしかなかった。そう、自虐的に笑いながら彼女は言う。
「だから、あいつとはもう会わない方がいい」
あいつは魔女で。人狼を、殺すものだから。
あいつも、お前とは会いたくないんだって。そう、顔に笑みを張り付けたまま、昴は言う。
ごめんな。という言葉が、三度、その口から漏れた。
自分の、胸を触る。つみきから聞いた、人狼の説明が、ぶり返した熱のように、脳内を駆けた。『人を食らう怪物』。そんなものに自分がなってしまった。その恐怖。
でも、昴を責める気にはなれなかった。
だけど、納得のできないものは、納得ができない。
「この後、色々教えてあげるよ。放課後は一緒に居よう。知り合いを紹介してあげる。私結構有名人だからさ。澄香にも、いろいろしてあげられると思うんだ」
「昴ちゃん」
「なに?」
「なんで嘘だって教えてくれたの?」
昴が、その言葉に押し黙る。澄香が人狼だったとして。そうなってしまった彼女が、つみきに会わないようにした方がいいのは分かる。きっと、つみきもそう望んだという事も。でも、だとしたら澄香はずっと彼女が生きている事なんか知らない方がいい。死んでしまった。打から会えない。その方がいい。なのに、昴はそうしなかった。彼女の行動は、矛盾している。
昴は沈黙していた。
長い、沈黙だった。
「……、澄香が、どうするべきかは決めるべきだと思ったから」
観念した。そう言いたげな声色で、ため息交じりに昴は答える。
「卑怯だよね。ごめん。でもさ、あいつと会う会わないは、私とあいつだけで決めていい事じゃないと思ったから」
だから、澄香に嘘を教えたままでいたくはなかったんだ。視線を定めず、昴は言う。
「昴ちゃんは、私がつみきちゃんと会うの、嫌?」
「……分からない」
再度尋ねると、消え入りそうな声で、昴は呟いた。
「あいつ、お前を殺すって言ってた。あれはたぶん本気だった。澄香は、あいつに会わない方がいいと思う。それに、私もあいつをどう見ていいのか分からない」
仇で。共犯で。級友で。そして。
声にならなかった言葉は、なんとなくだけど澄香も分かった。分かって、それで、だから、昴の手を引く。
「昴ちゃん、じゃあ、行こう?」
そう言って、学校と反対方向へとその手を引く。どこに? 疲れた声で、昴が答えた。
「分からないなら、一緒に居るべきだよ」
きっと。何にも答えが出ないとするならば、それでもその人とは一緒に居るべきなのだ。そう、澄香は思う。だって、分かれてしまったらもう会えないのだから。後悔を繰り返しながら生きるのは、きっと何よりも辛いものなのだから。
そんな気持ちは、捨てた方がいい。
「……どこだよ。それ」
吐き捨てるような言葉だった。でも口は笑っていた。自嘲するような言葉だったけど、どこか楽しげにも聞こえた。
だから、澄香は笑顔で答えた。
「見つかるよ。きっと」
私達、三人なら。
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