人間について
「う……ん」
澄香が目を覚ますと、白い太陽光が瞳に刺さった。体を起こせば、そこは自宅で、いつものように誰もいない。両親は、なるべくこの家には居ないようにしていた。その方が、二人に都合がいいから。
鈴鳴家は二階建てで、各個人に寝室をお父さんが作ったので、リビングには窓が多い。東の小窓、ベランダに出る南向きの窓、北の台所につけられた曇り窓、西につけられた換気用の窓。だから、たまにリビングで昼寝や寝落ちをすると、強烈な光で不機嫌に目を覚ましてしまって、それで姉や母によく揶揄われたのを思い出す。
ベッド代わりにしてしまっていたソファーから起き上がる。時計を見ると、時刻は午前七時を示している。学校に行くのなら、もう起きなくてはいけない時間だ。
そっと、脇腹を触ってみる。
記憶が正しければ、昨日。
昨日、友人に、食いちぎられた場所。
触れると、柔らかい肌の感触が返って来る。視線を降ろせば、寝間着はそこだけびりびりに敗れていて、自分の子供っぽい柔肌が、顔をのぞかせていた。
それで、昨日あったことは、夢でもなんでもなく、ただの事実なんだろうなと、澄香は理解する。あの、暗い、深い海に落ちて行くような感覚も、自分の中から命を物質したものが抜け落ちていく感触も、それが落ち切って、自分が生命というモノから外れた物へとなり果てた感覚も、けして夢ではないのだと悟る。
階段を上がって、自分の部屋に向かう。部屋で制服に着替え、昨日家を出る前に今日の準備を終えていた鞄をつかんで、部屋を出る。そして、隣の部屋へ。両親が決して踏み入れない、その部屋に入る。本当は、板でも打ち付けて閉じてしまいたいであろう、その部屋に。部屋の中には、澄香の部屋と同じようなベッドと勉強机。クローゼットに、本の入った棚が置いてある。それらは二年前からそのままで、だから、うっすらと埃が積もってしまっている。
部屋の主は、勉強机の上に、小さくなって座っていた。
「おはよう。お姉ちゃん」
お輪を鳴らして、手を合わせる。
鈴鳴唯香。
澄香の姉は控えめな笑顔で、微笑んでいた。
黒く縁どられた、額縁の中で。
自慢の姉だった。引っ込み思案の妹と、しっかり者の姉。澄香はよく姉の後をついていったし、姉はそんな澄香をしっかり甘やかした。四歳差という年齢差もそれに影響をされたのかもしれない。ともかく澄香にとって姉は、優しくて、かっこいい、自慢の人だった。
一度だけ、おとぎ話をされたことがある。
魔女と、人狼の話。
怖いよ、と、澄香は言った。
そんな話を唯香にして欲しくなかった。例え嘘だとしても、創作だとしても、姉の口からは、希望にあふれた話を聞いていたかった。その言葉に、彼女はわずかに傷ついた顔をして。以来、その話をしなかった。唯香が澄香と距離を取り出したのは、もしかしたらその頃だったのかもしれない。その姉の話をもっと聞いていたら。一人でいた姉に、寄り添ってあげることが、できていれば。
唯香は、もしかしたら、まだ生きていたかもしれない。
魔女と人狼。その姿をこの目で見た今は、余計にそう思ってしまう。
日課であるお祈りを終えて、澄香は立ち上がる。昨日会った出来事、今まであった出来事。その全てを、姉と相談してみたかった。でも姉は、当然の如く、澄香には何も言ってくれない。当然だ。彼女は死んでしまっているのだから。まだ生きている唯香は、彼女と話をすることはできない。
「……。行ってきます」
そう言って、部屋を出た。その姿を、遺影の中から姉が見つめていた。
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