人間と魔女4
入学式からまだ一週間と経っていないのに、昼過ぎの教室にはけだるげな空気が漂っていた。昼食後、二つ目の授業。教壇に立った教師が、自己紹介がてら、と言った感じでこれからの勉強についての心構えを説いている。しかし、そういう事を気にしている子は言われなくとも分かっているだろうし、気にしていない子は今行ったところで気にしないだろう。先生もそれを分かっているのか、話している口調はどこか単調だ。
澄香は、自分の右腕を見る。昨夜えぐられたそこには少し大げさに包帯が巻かれていた。今朝この傷に気が付いた母親は、血相を変えて近くの皮膚科に澄香を連れて行った。だから、この授業は澄香の二時間目の授業だ。包丁で間違えて切った。血は止まったから大丈夫だと伝えるとかなり怒られた。本当の事を知ったらどれだけ言われるのか分かったものではないけれど、少なくとも、夜で歩くのをやめるように、とは言われなかった。医者曰く、傷跡も目立つように残ることはないらしい。
ぼんやりと先生の話を聞きながら、澄香の思考は昨日の事件の事ばかり考えている。人狼、少女。ファンタジー小説のような、派手な戦いをしていた二人の様子に、思いをはせる。何かの撮影のようには見えなかった。あの二人は、本当に殺し合いをしていたのだ。
今日で、さよならの方がいいから。
別れ際。最後に少女が澄香に告げた言葉が脳裏に蘇る。あの子はそう言ったが、そう簡単に忘れられるものでもない。また会う機会は、きっとない方がいい。それは分かっているのだけれど。会って、話をしてみたいという欲が抑えられない。
ただ、現状ではそれは非常に難しいように思えた。澄香は彼女の名前も知らないのだ。彼女の望み通り、きっとこれからも澄香と彼女は触れ合うことなどなく生きていく。それは何とも悲しくて、澄香は小さく溜息をついた。
壇上の教師は、一応の義務を果たしたとばかりに、長々と話していた言葉を切った。そうして、授業で使うと言うプリントを前から後ろに回すように指示する。俯いたり外を見たりしていた生徒たちが、その言葉に一様に前の席に注目した。澄香も、思考を昨夜から引き戻してくる。
「はい」
前の席の志水つみきさんにプリントがわたり、振り返った彼女はそう言って澄香にプリントを手渡す。そっけなく、他の人と話すこともない彼女だけれど、愛想がないわけではないんだよな。と澄香は少し失礼なことを考えつつ、ありがとう、と言ってそれを受け取った。
「どういたしまして」
その言葉にも、返答が返って来る。律儀だ。だから別に、彼女は悪い子じゃないし、友達になれたら楽しいんだろうな、と思う。
今日の午後、また話しかけてみよう。何とか捕まえて。
そう意気込む。その様子を志水さんはじっと見つめていたけれど、澄香と目が合うと視線を戻した。
ふと、何かが心に引っかかる。今、何か。前に感じたことがあるような何かを感じたような。自分の分のプリントをとりわけ、なんだったけ……、と首をひねりながら昴ちゃんにプリントを回す。さんきゅ。という声をうわの空で聞き流して、記憶の底をひっくり返した。何か、結構大事な。すごい気になっていたことが、今紐づいたような。
今日で、さよならの方がいいから。
記憶の中、関係ないはずの、昨日の彼女の声がまた耳に響いて。
その時の、困ったように笑う、あの少女の顔が脳裏に浮かぶ。
「ああああああああ!?」
「うわ、なにい!?」
そうして、その顔と、今の志水さんの顔が脳裏で重なって、澄香は思わず大きな声を上げる。視界の先でプリントを受け取った昴ちゃんがその大声に目を見開いた。クラスメイトの視線が、全身に突き刺さるのを感じる。
「あー…………。えっと。鈴鳴さん。どうかした?」
「あ!? いえ、すいません何でもないです!」
気づかわし気に問うた教師の声に悲鳴のように回答して、どったの? と苦笑する昴ちゃんをばつが悪そうに受け流して、澄香はさっと前に向き直る。
正確には、志水さんの方に、視線を向ける。
志水さんはじっとこちらを睨んでいて、その眼光に目をそらした。ただ、その一瞬の顔をみて確信する。
間違いない。
昨日の少女は、澄香の前に座る………。
そっけない、この少女。
志水つみきだ。
「先生」
うわあ。とぐちゃぐちゃとした思考をまとめてる澄香の前で、志水さんが手を挙げた。
「あ、えーー、どした。志水」
「すいません。お腹痛いので保健室へ行って来てもいいですか?」
体調不良とは無縁そうな凛とした声で志水さんはいい、教室中がそんなわけあるかいという空気に包まれる。ただ、教師もわざわざ指摘するまでもないと判断したのか、頭を掻いて答えた。
「あーそうか。お大事にな」
「あと、鈴鳴さんもお腹痛いそうなので一緒に連れて行ってもいいですか?」
「うええええ!?」
サボりとかするんだ。とぼんやりとそれを聞いていた澄香に突然志水さんが声を向ける。思わず素っ頓狂な声でうめくと、振り返った志水さんは、冷たい表情で澄香を睨んだ。
「そうだよね? 鈴鳴さん」
「…………。あ、はい、そうです…………」
その視線に押しつぶされるように、澄香はそう返事をする。クラスメイトは澄香に同情してくれたのか、誰も志水さんに異を唱えようとしない。
いや、そう思うのなら助け舟を出して欲しいのだけれど。
そう思っていると、ちょいちょい、と、スカートの端を手で引かれた。振り返ると心配そうな目をした昴ちゃんと目が合う。
「(大丈夫?)」
「(あー、うん)」
「じゃあ、行こう」
小さく尋ねてきた昴ちゃんにそう答えると、視界の外から志水さんが澄香の手をつかみ歩き出した。同情的な目を向ける皆に大丈夫だから~と手を振って教室を出る。先生にまで同情的な目で見られていたのはちょっとこうなんか言いたいことがあるけれど。
志水さんはそんな教室の様子にも澄香の様子にもかまうことなくずんずんと歩を進めていく。澄香は逆らうことなく歩を合わせていたけれど、彼女が階段を躊躇なく上がろうとしたときには足を止めた。
「なにか?」
不機嫌そうな無表情で志水さんが振り返る。ただ、なに、と言われても理由は明白だ。
「保健室、一階だよ?」
「? 知ってますが」
「ここ、三階だけど」
「それも知ってます」
「えっと……。じゃあ、こっちじゃない?」
そう言って、二階の方を指さすと、彼女は合点が言ったように頷いた。
「出来るだけ、人が来ない方がいいですから」
「いや、答えになってないよね?」
そのままぐいぐいと澄香を引きずる。抵抗しても無駄だと悟った澄香が力なくそれについていくと、彼女はぐんぐんと階段を上がり、澄香達が初日に使った屋上のドアに手をかけた。そのまま屋上に入り、ドアを閉める。春先の、まだ冷たい風が、鼻を撫でた。
志水さんは、閉めたドアに手をかけて、澄香に背を向けたまま何も言わない。いや、何も言わなくても言いたいことはなんとなく分かるんだけど。澄香の方も言うことがないので、結局は二人とも黙ってしまう。
沈黙と風が屋上を吹き抜ける。
「昨日は、ごめんなさい」
五分ほど逡巡して、つぶやくように志水さんはそう言った。
「もっと早く見つけていればよかった」
「いや、そんな、全然」
「その傷」
そう言って、彼女が澄香の右腕を指さす。
「それも、無くて済んだかもしれないのに」
「あ、いや、これ、痕も残らないみたいだから!」
心配しないで! と、どんよりとした彼女の言葉にかぶせるように、明るく答える。聞きたいこと、言いたいことはたくさんあったはずなのに、今の彼女の様子を見てしまうと、それを口にするのは何ともはばかられてしまって。澄香はうつむいている彼女の手を取った。胸元まで彼女の手を上げると、自然と彼女の視線が上がる。目が、合う。
「昨日は、助けてくれてありがとう。かっこよかったよ」
「かっ……」
勤めて明るくいったお礼を反射的に否定したのだろう、喉を鳴らした彼女は、澄香が間髪入れて続けた言葉に、面食らったように息を呑んで、そのままかッと顔を赤面させた。それから、ばつが悪そうに顔をそむける。目に映った耳が、心なしか赤かった。
「座ろ?」
そうして、お話を聞かせて?
そう笑った澄香に、赤い顔のまま、彼女はそっと頷いた。
この世界には、人狼がいる。
人狼は人に紛れ、人を喰らい生きている。
志水さんは、それから人を守るために戦っている魔女である。
「という訳で、鈴鳴さんの家の住所と家族構成を聞きたいと思うのですが」
「まって」
「ああ、あと連絡先も」
「いやちょっと待って」
立て続けにそう説明して、いそいそと携帯を取り出した彼女を、澄香は頭に手を置きながら制する。突っ込みどころがありすぎて、どこから聞けばいいのか分からない。
「えっと?」
「えーーーっと。何点か聞きたいことがあるんだけど、いいかな」
「ええ……なにか?」
「とりあえず話が飛びすぎじゃないかなあ……」
という訳で、じゃないのだ。という訳でじゃ。
「えっと……?」
「いやごめんね。まあ最初の話も言いたいことはあるんだけど、それから突っ込むと話が始まらないから一番根幹から聞きたいんだけど、うん。連絡先はともかく、家族構成と住所って何に使うのさ!?」
「はい、今後の警護の参考にしたいなと思って」
うなりながら尋ねた澄香の質問に、一刀両断! 快刀乱麻! というような切れ味ですっぱりと志水さんが答える。分かりやすい返事で大変ありがたいのだが、話の芯が全く分からない。なんとなく、なんとなく、今日教室に入ってから感じていたことが、澄香の中で確信に変わりつつあった。
この子、話が下手だ。
絶望的に。
「ええええええっと、………。ごめん。初めから話聞いてもいいかな」
「? はい」
「この世界には、人狼っていうのがいるんだ」
「はい」
「どんな生き物なの」
「正式な学名はない、と思います。でも、分類学的な観点から以前仲間が調べたところによると、遺伝子構造は澄香達とは
「ごめん。要点を抜き出して、簡潔に」
「……………………。狂暴で、人を食べます。で、姿が人間と区別できない」
「……。私が、昨日会った人、でいいんだよね」
「はい。あれが人狼です。区別、できなかったでしょう?」
そう言われて、人狼に襲われた時のことを思い返す。……。いや、考えるべきはもっと前のタイミングだろう。澄香に話しかけてきた、その瞬間の姿だ。気弱そうな、無害そうな、サラリーマンの姿。
「…………。確かに、そうかも」
「鈴鳴さんを襲っていた時みたいに、狂暴化していれば、分かるんですが」
「じゃあ、この学校にもいるかもしれないね」
「……可能性は低いかと」
「そうなの?」
「何年か前に、闘争というか、ちょっとした戦争がありまして。今だと市内に百人くらい残ってるんじゃないかな」
「へえ」
人口比的には○.○五%くらいだろうか。
「で、その戦っていたっていう相手が……」
「私達です」
「…………そうなんだ」
あまり困らせないように言ったん飲み込もうとはしたのだが、澄香が相当いぶかし気な顔をしていたのか、志水さんの顔に困り果てたような表情が浮かぶ。
「……ええ」
「昨日の、なんというか映画のアクションみたいなのを見ちゃってるし、そんなに疑ってはないけど……」
ただ、あまりにも突拍子がなくて、昨日の話が夢か何かである可能性を否定できない。
「なにか、志水さんが魔女だって分かる事って、ある?」
「今ですか?」
「今」
澄香がそう言うと、少し思案気に考えたあと、すい、とつみきちゃんは指を振った。その動きに合わせうようにして、空中に黒い穴があらわれて、じゃら、と細い鎖が顔を出した。
「……、これで、どうでしょう?」
「おおう……」
触ってもいい? と聞くとあっさりと許可が出たので腕で触ってみる。冷たい感触。触り心地は金属のようで、ジャラジャラと音を立てるのも本物そっくりだ。腕を這わせて入口まで伝うと、鎖の出口の中にすっぽりと手が入った。入った手は、澄香から見えなくなる。念のため穴の上をまさぐったが、何もなかった。
「これ、昨日の?」
「そう。私の魔法」
しゃっと鎖の出る穴を消して、つみきちゃんは微笑んでそう答えた。いくつかこれが手品や、自分の知っている科学で証明できないか考えて。念のために、隠しカメラやドッキリ版がいないか、、屋上をぐるりと見渡して、そのどれも確認できないことを理解して、澄香はほう、とため息をつく。
この世界には、人狼と魔女がいる。
「本当だったんだ……」
「納得できました?」
よかった。と、澄香の反応を見てつみきちゃんは安心したように笑った。
「では、住所と家族構成を伺っても?」
「ごめん。そこはまだつなげられてないかな……」
そのにこやかな顔のまま、ぐるりと話を最初に戻して志水さんは言う。悪意がないのがありありと分かってしまうのが、余計にタチが悪い。
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