人間と魔女1

 携帯に、昴ちゃんから謝罪の連絡が入る。それを確認して、澄香はそっとビルの壁から離れた。視線の先では、注目を集めようとする看板達がギラギラと輝いている。ホーム画面に戻したスマートフォンは、今の時刻が二十二時を回っていることを澄香に知らせたけれど、まだまだ街は眠るつもりはないようだ。

 スタンプでおどけて返信をして、澄香は街の喧騒の中へと歩き出した。繁華街とはいえ、この時間になると人はまばらで、看板の輝く中心街から少し外れると、いきなり水を打ったような沈黙があたりを支配する。

 夜の街を散歩するようになったのは、元々仕事人間だった父に加えて、母親も家を空けがちになった二年前からだ。自分以外誰もいない家はひどく居心地が悪くて、逃げ出すように町に繰り出したのが最初。昴ちゃんとの共通の趣味というのはこれで、同じように夜の散歩をしていた昴ちゃんに出会って、それからはほとんど毎日一緒に夜の街にいるようになった。両親は澄香の行動に気づいていないのか、あるいは澄香への後ろめたさか、何も言わない。それをいいことに、澄香は今日もらぶらと町を歩く。眉をしかめる人はいるかもしれないが、これが澄香の日常だった。

 駅から離れて、住宅街の方へ歩を進める。そこは喧噪にあふれる町とはうって変わって物音一つせず、自分が世界から放り投げられてしまったような安心感がある。何者にも触れず、縛られないという自由。それは一種の逃避に過ぎないのかもしれないけれど、澄香にはとても気持ちがよかった。

「あの……。すいません」

 と、その異質な空間が現実に引き戻される。自分に向けられた声に振り向くと、そこにいたのは困ったような顔をした男性だった。30代くらいだろうか。中肉中背で、短く刈り込んだ髪はいかにも真面目なサラリーマンといった風だったが、少しくたびれたスーツがさえない、という修飾語を思い浮かばせる。へにょりと曲がった眉は本当に困り果てていることがよく分かって、多分謝罪なんかは上手いんだろうな、という失礼極まりない感想が脳裏に浮かんだ。

「あ、はい。どうしましたか?」

 夜の散歩という都合上、基本的には他人からの接触には極力関わらないようにしている。ただ、目の前の彼の、そのあまりにも無害で同情を誘う雰囲気に澄香は自然と足を止めていた。何というか、断った方が責められるような雰囲気が、彼にはあった。

「ええと……。ちょっと、お伺いしたいんですけどお」

 足を止めた澄香に困った顔のまま愛想笑いを浮かべて、彼がゆっくりと近づく。右手ではスマートフォンを操作して、地図アプリを起動しているようだった。

「はい」

「あのお、ここなんですけれど」

 澄香の横に滑り込むように体を潜り込ませて、彼は携帯電話の画面を見せてくる。そこには予想通り地図が映っていて、澄香たちの現在位置を教えている。

 少し、距離が近いな。携帯の画面を見せるためとは言え、少し密着するように体を寄せてきた男に、眉を顰める。まあ、気のせいかと、気を取り直して男が示す画面に集中しようとしたとき、耳元ですう、っと音がして、空気が通り抜ける感触がした。大きく息を吸った時の音。

 ぎょっとして男に目を向ける。視界には、まず、男のもみあげが映った。男の顔は澄香の顔に触れんばかりの位置にあり、視線は画面から外れていて、というか目は閉じられていて、恍惚とした表情で、彼は澄香の耳元で息を吸っていた。

 匂いを嗅いでいるようだと思った。

 きゃ、と悲鳴を上げて飛びのく。男は澄香の悲鳴で初めて自分の状況に気が付いたようで、再び顔に気弱な笑みを張り付けなおした。

「ああ……。すいません。とっても、いい匂いでしたので」

 なにか汚れたような感覚がして、耳に手を当てた澄香を見て、彼はねっとりとそう言った。しまった。自分の顔から、血の気が引いているのを感じた。人畜無害そうな雰囲気にすっかり騙されてしまったが、どうやら応じてはいけない相手だったらしい。

「いや……。でも本当にいい匂いだ……。素晴らしい。なんて、かぐわしくて、瑞々しくて、芳醇な匂い………」

 澄香のそれを思い出したのか、うっとりとした顔で彼は澄香の匂いの感想を述べる。背筋をぞくぞくと悪寒が走り抜けて、澄香はその場から一刻も早く逃げ出したいという衝動にかられた。男はそんな澄香の様子に構うことなく、焦点の合っていない目で、ぼそぼそと呟き続けている。

「……、こんな、こんな匂いは久しぶりだあ。最近はまともに、まともに、ありつけてなかったからあ。ああ、ああ、なんて素晴らしいんだ。私はついている。……。そうだ、私はついている。そうだよ。こんなに、こんなに、いい香りなら」

 その気持ち悪い言葉に、澄香が一歩足を引くのと、彼の焦点が、澄香の顔に帰って来るのは、ほぼ同時だった。

「食ったら、どんだけ、どんだけ、美味いんだろうなあ」

 その言葉に。

 常軌を逸している、彼の言葉の中でも特に奇妙なその言葉に、一瞬澄香の思考が飛ぶ。

 その瞬間、腕に鋭い痛みが走った。

「いっつ……!」

 火が付いたように熱を帯びる腕をおもわず引き寄せると、ぬらりとした感触が腕に伝わった。恐る恐る腕を見ると、赤い線が綺麗に三本走っている。どくどくとそれは痛みを主張していて、今まで感じたことのない痛みに、澄香は歯を強くかみしめた。赤い中には少し白いクリーム色のものが見える。脂肪だろうか。ともかく、傷はかなり深いそうだった。傷口からは、真っ赤な血が、ぽたぽたと道路に落ちている。

「ああああああああああああああああああああ」

 突然、悲鳴のような声が、それも目の前から聞こえて、澄香はぎょっとして顔を上げた。

 目の前では彼が叫んでいた。その口は歓喜にゆがんでいる。何が何だかわからなくて固まった澄香の前で、彼は自分の右腕を口元まで持ってくると、それをぺろりと舐めた。

 その腕は常人の腕と言うには、あまりに角ばっていて、爪が伸びきっていた。

 人間の、と言うよりは獣のそれによく似ていて、腕というよりも何か別の凶器の様に見えた。

 その異形の腕は、今赤い液体を滴り落としながら街灯に照らされて塗らりと怪しく光っている。

 彼は、その爪に残った、何かをなめて叫んでいた。

 何かは考えるまでもなかった。

 澄香からそぎ落とした、澄香の

「美味えええええ!!!!! 美味えよおお!!!! ああ、ああ、すげえうまみ!! 鼻を抜ける匂い!! 少しえぐみのある血の鉄の味がアクセントになって!!!! ああ。ああ!! 最高だああ!! 美味いよおおおお!! ついてる!! おれはついてるぞおお!!!!」

 体を撃ち震わせながら、男は叫んだ。

 常軌を逸している。痛みと恐怖にがくがくと震える体を必死に抑えて、目から零れ落ちそうな涙をこらえながら澄香は一歩後ずさりした。

 目の前の男、ただの変質者ではない。

 その様相、その言動。

 シリアルキラーか、殺人者か、ともかくもっと狂暴で、邪悪で、危険な。

 そう考えて、頭にばかげた言葉が浮かぶ。

 人狼。

 そうだ。

 目の前の男は、まるで。

「ああ……。こんなカスでも、こんなにうまいんだあああ」

 感動に涙さえ浮かべた男の瞳に、ゆっくりと光が戻る。焦点が、澄香に会う。

「ハツやレバー……。モツは、きっと、もっとうまいんだろうなあ」

 限界だった。

 こちらを見る、大好物を目にした小学生のような満面の笑みを浮かべた顔が視界に映った瞬間、澄香は全速力で逃げ出した。

「待ってくれよお……………」

 その背後から、情けない、気弱そうな声が響いてくる。その声が傷口を撫でるように痛みが走る。走るときの振動が、肌を撫でる風が、噛み締めないと我慢できないほどの痛みを、忘れさせてくれない。

「ねえ、待ってくれよお……。君、絶対美味しんだ。僕が保証するよ。柔らかくて、ジューシーで、血の死したたり落ちる……。噛み応えのある心臓(ハツ)、なめらかな肝臓(レバー)。どれも、たぶん、とても、おいしいと思うんだぁ」

 怖くて、痛くて、もつれそうになる足と、口から洩れそうになる嗚咽を必死にこらえながら懸命に地面を蹴る。背後から聞こえてくるおぞましい言葉の羅列には必死に耳を塞いで。

 ふと、その音が先ほどと変わらない大きさをしている事に気が付いた。

 見るな、という理性の叫びは無視して、我慢できずに後ろを確認する。

 走っているような音はしないのに。澄香みたいに息は上がっていないのに。先ほどと同じ位置に、ぴったりと、男はつけてきていた。

「逃げたって無駄だよう」

 ひきつった澄香の顔が目に映ったのか、にんまりと顔をゆがませて男は言った。その顔に身を震わせて、澄香はなりふり構わず足を回す。踏み込んだ足、息を吸う喉、噛み締めた奥歯から痛みが抗議となって押し寄せるが、それらはすべて無視した。

 必死に逃げ切るすべを探して視界を探り、細く折れた一本道に入り込む。背後からは、笑ったような、どこ行くのお? という声が聞こえた。その声が、さらに足の回転を速めさせる。気持ち悪い。聞きたくない。でも、それよりも何よりも。

 怖い。

 怖くて怖くて、仕方がない。

 マンションとマンションの隙間を、体を擦りながら駆ける。駅までつけば。この閑静な住宅街を抜けられれば、きっとあいつも乱暴な事はしないだろう。本当に? という疑問の声は踏みつけて、安心したい一心で澄香は走った。

 いつの間にか、後ろからは声も、足音も聞こえなくなっていた。そのことに少しだけほっとして、でも、足を緩めるほどの安心感には程遠くて、鉄のような味を喉に感じながら、澄香は走る。

 明かりのない、暗い路地裏を何回か曲がると、視界に白い明りが入って来た。

 あそこまで行けば、きっと大丈夫。

 根拠のない希望に、じんじんと限界を主張する足にもう一度力をこめる。

 助かった。そんな言葉が、頭をよぎった時。

「だからあ、言ったよねえ。逃げても無駄だよおって」

 冷水の様に、頭上からその声は響いた。

 思わずそちらに目を向けるのと、体に衝撃が走るのは同時だった。頭上から降って来た何かに身体を地面に押し付けられ、走っていた勢いはそのままに澄香は地面を滑る。えぐられた傷がコンクリートに引きずられて、澄香の喉から細い悲鳴が上がる。

 視界の先、明かりからかなり離れた、静かな暗い路地裏で澄香の身体は止まる。

 打ち付けられ、じんじんと痛む全身を誰が強引に上に向ける。そのまま無遠慮にそいつは澄香の上に馬乗りになった。腰が胸に当たり、押し出された空気が、つぶれた蛙のような声とともに漏れ出る。

 耳には、はあ、はあという荒い息の音が聞こえる。うめきながら目を開けると、視界いっぱいに、目を爛々と輝かせた男の顔が広がった。荒く、熱い吐息が、舐めるように澄香の顔にかかる。自分の顔がひきつるのが分かった。目の端から、我慢できなくなった涙がこぼれ出る。

「は、はは……。すごい、すごいなあ。まるで犯しているみたいだ。楽しかったし、楽しいよ、ありがとうねえ」

 耳元に口を近づけて、ドラマで恋人がするように、男が澄香にそう囁く。だらしなくゆがんだ口元からよだれがだらだらと落ちて、澄香の頬と口元を濡らした。それを、気持ち悪いと思う余裕すら、今の澄香には残っていない。

「ありがとうねえ。本当にありがとうねえ。君は僕の天使だよお」

 じゃ、さよならだね。

 そう言って、男は右腕を振りかぶった。細い、遠くからの明かりに照らされて、その爪が、それについた血が、それに挟まった肉が、怪しく光る。

「それじゃあ、いただきます」

 男はねっとりと言って、振り上げた右腕に力を込めた。ぎりぎりと、筋肉のきしむような音がして、絶頂しているかのように、男の顔にこれまでで一番の笑顔が浮かんで、その恐怖と嫌悪感に、澄香は思わず目をつぶる。

 心の中で、助けて、と叫んでいた。

 恐怖にすくんで泣いていた。

 死にたくないと涙して、でも死ぬんだと諦めていた。

 そうして、澄香は死を待って。

 いつまでも来ないそれに、目を見開いた。

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