第1章「兄、胃痛。」



――それはある冬の午後、年明け直後のことだった。


編集部の一角。

コンビニのカップスープを啜りながら、天野伊吹は机に突っ伏していた。


「……いてててて……」


かすかに呻いた腹の音。

湧き上がるのは栄養ではなく、胃液の方だった。

誰もが忙しくキーボードを叩く中、彼だけが明らかに顔色が悪い。


「……くっそ、また……っ」


お腹を押さえながら、引き出しから常備薬のボトルを取り出す。

中身は胃薬、正露丸、ビオフェルミン……もはやミニ薬局である。

目の前の原稿チェックリストには、朱文字で「※至急返答」「作者超多忙」と赤字が飛び交っていた。


「……湊……てめぇ、年始からどんだけ飛ばしてんだよ……」


ひとりごとにしては、若干殺意がこもっていた。


 



 


漫画家・佐原湊。

彼は今や“時の人”である。


青春群像劇のヒット作『アネモネ・バレット』は、アニメ化決定。

関連グッズや書き下ろしイラストの依頼も雪崩のように舞い込み、

担当編集である伊吹は、完全にキャパオーバーの真っ只中だった。


「こっちは正月返上でメール返してんだよ……!休めやせめて!!」


さらに追い打ちをかけるように、伊吹の私用スマホが震える。


「――あっ、なずな?おう、今帰るとこ……うん、うん……は?保育園?ああ、迎え?うん、大丈夫大丈夫(吐血寸前)……ああ……」


胃痛×残業×家事=即死。


ひとまず電話を切った後、伊吹は机の下で崩れ落ちた。


「胃……いてぇ……このまま死んだら労災おりるかな……」


 



 


そして場面は変わって、帰宅後の天野家。


子どもたちがわいわいと玄関に駆け寄ってくる中、伊吹は絞り出すように声をかける。


「……ただいま……」


「パパおかえりー!」

「おなかいたいのなおったー?」


(どこで聞いた……?)


苦笑しつつ、靴を脱ぎながらリビングに入ると、

なずながキッチンから手を止めずに一言。


「伊吹、最近コーヒー減らしてる?」


「えっ……?」


「その顔。絶対、胃、やられてる。ていうか今日の昼もカップ麺だったでしょ?」


ギクリ。


「ちょっ、なんで知って――」


「湊くんから連絡来た。“兄さん、今年まだちゃんとした飯食ってない”って。」


「……裏切り者ォ……」


 



 


夕飯時。伊吹はテーブルの味噌汁をすすりながら、内心で葛藤していた。


(昔はもっと体力あったのにな……)


ふと、となりの席でスプーンを持ったユメが小声でつぶやく。


「……胃にくるなら、コーヒーやめたら?」


「……うるせぇ……」


『ほんと、無理しないでよ。あんたの仕事、支えるために私も頑張ってるんだから』


伊吹:「……あーもう、わかってるってば……」


 


すると子どもたちが、「ねーねー!」と色紙を見せに来る。


「パパ見て!『おくすりはいたいのにまけないためにあるんだよ!』ってかいた!」


「……どこの哲学者だよ、おまえは……」


伊吹の中で、ようやく笑いがこぼれた。


 



 


その夜。

湊からの“とある画像”が、伊吹のスマホに届く。


「兄さん、これ見て。俺の部屋に、機材がまた増えました(汗)」


伊吹はその写真を見て、また胃がキリキリと痛み出す。


(おいおい……なんかタブレット増えてね?)


次回、「その買い物、本当に必要?」に続く――。

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