第11話 正しさよりも君と、寄り添う音のない夜
《ただいまの静けさ》
玄関の鍵が、ゆっくりと回る音がした。
小さく軋む音とともに扉が開き、ひんやりとした空気が足元をくぐる。
「……ただいま」
呟くような声が、誰もいない空間へと零れる。
靴を脱ぎ、上着を手に持ったまま廊下を進むと、奥の部屋から淡い光が漏れていた。
紙よりも薄い、それでいて強い光。淡青の符が、部屋の奥でかすかに瞬いている。
机に向かっていたフィアは、手を止め、軽くペンを置く音だけが響いた。
机に向かっていたフィアは、振り返りもせずに言った。
「おかえり」
その声だけで、緊張がほどけた。
戦いの気配も、境界のざわめきも、すべてが遠ざかっていく。
「……ああ」
鞄を無造作に置き、いつもの定位置――窓際の椅子に腰を下ろす。
視線の先では、フィアが黙々と符を貼り合わせ、なにかの調整をしていた。集中しているのか、手元から目を離さない。
部屋の中に、時計の針の音だけが響いている。
けれどその静けさは、以前のようなぎこちなさではなかった。
言葉がなくても、ただ“居る”ことが心地いい。そんな、ぬるま湯のような空気が、確かに流れていた。
帰ってきたのだと、ようやく実感する。
《無言の共有》
冷蔵庫の扉が開く、わずかな音。
中から缶を2本取り出し、手のひらで温度を確かめるように握る。
フィアの右手のすぐ隣。作業の邪魔にならない、けれど目に入る距離。
フィアは手を止めなかった。けれど、ちらりと視線だけを動かす。
コーヒー缶のラベルに、一瞬だけ目をやる。
何も言わない。
だが、それで十分だった。
拒まない。けれど甘えもしない。
そんな彼女の反応に、
椅子に腰を下ろし、缶のプルタブを開ける。静かな音が部屋に響く。
小さく、控えめな香りが立ちのぼる。
夜の気配が、窓の外からそっと忍び寄ってくるようだった。
深い藍色。灯りの届かない高いところで、星が滲んでいる。
「……静かだな」
ぽつりと呟くように言うと、少しの間を置いて声が返ってくる。
「……うるさいの、嫌いでしょ」
フィアの手元は相変わらず忙しい。符を折り、重ね、淡く光らせながら言う。
その声音に、咎めも遠慮もなかった。ただ、当然のように。
言葉は少ない。でもそれで、すべて伝わる。
《答えを形にして》
缶の残りを飲み干すと、
フィアがわずかに目を上げる。
灰色の紙包みに覆われたそれを、しばし見つめていたが――
「……これ、取りに行ってた。渡したかったから」
そう言って、そっと紙を解く。
中には、ひときわ丁寧な手仕事で仕上げられた、金属製のブローチが収まっていた。
中心には、
その光の交点に、小さな五七桜の紋が添えられている。
強さと願い、光と春の記憶が重なるような意匠だった。
フィアが少しだけ目を見開く。
照れたように、でも逃げることなく、まっすぐ言葉を紡ぐ。
「……これは、昔の俺が“正しさ”を背負ってた証みたいなもんだった」
「誰かを守る、誰かを救う。そのために“正しく”あろうとしてた」
「でも……今は違う。これを、“願い”として渡したいと思った」
箱を差し出しながら、少しだけ目を逸らす。
耳が赤くなっているのをごまかすように、言葉だけが前に出る。
「俺はもう、“守るべき正義”じゃなくて、“一緒にいたい相手”を選びたい」
言い終えたあとの沈黙は、どこか柔らかい。
それは、返事を強いるものじゃない。
ただ、この気持ちが本物だと、伝えたかっただけ。
《本音に触れる符》
フィアは、目の前のブローチをしばらく見つめていた。
その視線は、どこか遠くを見ているようでもあって、
今そこにある“想い”を、じわじわと受け止めているようでもあった。
フィアは小さく瞬きをして、唇をきゅっと結ぶ。
頬に触れた指先が、ほんのり熱を帯びている。
やがて、小さな声が空気を震わせた。
「……変な人」
でも、その声に棘はなかった。
むしろ、自分でも気づかないくらい、照れと嬉しさがにじんでいた。
「でも、あんたに託せてよかったよ。うちの符」
フィアは椅子の背にもたれたまま、天井を見上げる。
「誰かの役に立つものを作りたかったんだ、ずっと」
「でもそれってつまり——」
言葉を選びながら、ゆっくりと息を吐く。
「……あたしも、“助けたい”って思ってたんだな、って」
隠してたわけじゃない。
ただ、自分でも気づいてなかっただけ。
“弱さ”や“優しさ”みたいなものを、自分の中に見つけるのが、怖かったのかもしれない。
その言葉を聞いて、ハルはふっと笑った。
「わかってたよ」
「最初に、符を貸してくれたときから、ずっと」
そう返す声には、からかいも見栄もなかった。
ただ、まっすぐに、フィアの想いを“知ってた”人の声だった。
部屋には再び、静けさが戻る。
でも、その静けさはもう、孤独じゃなかった。
《願いの交差点》
フィアは手の中のブローチを、もう一度、じっと見つめた。
桜の花びらを模した意匠。
五七桜の輝きが、柔らかいピンクに縁取られている。
「……つけるの、ちょっと恥ずかしいけど」
そう言って、胸元にそっと当ててみせる。
「……嫌いじゃない」
言葉とは裏腹に、耳が少し赤い。
ハルは、思わず口元をゆるめた。
「似合ってると思うよ」
フィアは目を逸らしながらも、ふっと笑う。
その笑みに、作り物の強がりはなかった。
素直な、ちょっとだけ拗ねたような、でも確かな“嬉しさ”が宿っていた。
「ありがと。……これからも、そばにいて」
その声は、はっきりと——けれど小さく。
届く人にだけ届けばいい、そんな“本音”の温度だった。
「もちろん」
二人の間に、特別な言葉はない。
それでも、もう十分だった。
窓の外、夜風が音もなく吹き抜けていく。
五七桜を模したブローチの模様が、
風の軌跡にそっと重なるように、揺れていた。
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