第10話 共鳴

《始まりの地にて》

 夜の市街地。

 数日前と同じ場所に立っているのに、景色はすっかり別物だった。


 ビルの輪郭が溶けかけたように歪み、街灯の光は空間の裂け目をなぞるように滲んでいる。

 夜空もまた、さざ波のように揺らいでいた。水面のように、どこか別の世界が向こうにある気がした。


 「やっぱり、境界が拡がってる」


 フィアが小さくつぶやく。


 「前よりも……“濃い”な。もうすぐ完全に侵食される」


 遥暎ハルも応じながら、視線を遠くへ投げた。建物の影の奥に、確かな気配がある。まだ姿は見えない。だが“いる”。——奴が。


 風が止まり、空気が重くなる。

 フィアは符の感触を確かめるように指先を滑らせ、ハルも籠手の固定を確認した。


 二人の間に言葉は少なかったが、呼吸は合っていた。

 静かな緊張が、目に見えない刃となって張り詰めていく。


 (——あの時は、俺が“守る”ことで精一杯だった)


 遥暎ハルの脳裏に、前回の敗北が過った。あの時は、フィアを戦わせたくないという一心だった。だが、それは彼女の足を縛ることにもなっていた。


 (……今は違う。今度は、隣に立ってる)


 「フィア」


 名前を呼ぶと、彼女がふり向く。


 「……わかってる。後ろは任せた」


 「いや、今回は——横、だろ」


 フィアの口元がわずかに緩む。

 

「……ふっ。らしくないセリフ」


 その“らしくなさ”が、今の自分たちの距離を物語っているのだと、遥暎もまた感じていた。


 揺らぐ空間を見据え、二人は無言で頷き合う。

 そして——


 「行くぞ」

 「……ああ」


 同時に足を踏み出した。

 空間がうねり、皮膚に触れる空気がねじれたように感じる。


 再び踏み入れた“あの場所”は、決戦の舞台として彼らを待っていた。



《迎え撃つ影》

 融合空間の奥。

 廃墟と化した建物群の中、光と影が交錯するように歪んだ空間の先——そこに、待つ者がいた。


 逆光のような輝きの中、ひとつの影が立っている。

 風も音も、そして時間すら、そこだけ止まっているかのように。


 「……待ってたのか」

 

フィアが、ほとんど息を呑むように言った。


 遥暎ハルは前へ一歩、静かに進み出る。

 視線を外さず、ただ目の前の“影”を見据えて。


 吸血鬼は、微動だにしない。

 それどころか、どこか“歓迎”しているかのような気配さえまとっていた。


 「……人間よ」


 囁くような声が空気を震わせる。


 「まだ、その隣に立っていられるか?」


 声に感情はない。ただ、揺るぎない理と、観察者のような静謐な眼差しがそこにあった。


 「“守る”ことで、相手を縛ることになると、なぜ気づかぬ」

 「君の正義は、誰かを“赦されない場所”に閉じ込めていないか?」


 遥暎ハルは答えない。

 まぶたがわずかに伏せられ、表情に陰りが差す。


 (また——問いかけてくる。あの時と、同じように)


 けれど、今度は——


 「それって、“誰かに守られたことない奴”の言い分」


 フィアの声が割って入った。

 静かな空気を、意志のこもった言葉が切り裂く。


 「……あたしは、“道具”じゃない」

 「自分で選んで、この符を作って、託してる」


 「誰かを支配するためじゃない。あんたの魔術みたいに——従わせる手段とは違う」


 その瞳に宿るのは怒りでも反発でもない。

 “自分自身”を語る、澄んだ光だった。


 「これは共鳴の術だよ。頼って、託して、信じてる。だから使える」

 「幻想? 上等だね。現実に希望がないなら、幻想を選んで何が悪い」


 吸血鬼の目が細くなる。感情は読み取れない。

 ただ、わずかに口角が動いた。


 「……滑稽だな。幻想に縋る子供たちよ」


 その瞬間——

 周囲の空気が一気に張り詰めた。足元の地面が軋み、廃墟の床が淡い光で縁取られていく。

 結界が、閉じた。


 遥暎ハルが前に出る。

 その動きに、もはや迷いはない。


 「幻想でもいい。俺たちは、そこに立つ」


 フィアも符を構え、遥暎ハルの隣に立った。


 「立つからには、やることは一つ」


 互いの視線は交差しない。

 けれど——呼吸は、揃っていた。


 魔力の波動が、地を割るように広がる。

 次の瞬間、戦いが始まる。




《共鳴する戦術》

 空間が軋む。


 地を這うように展開された魔術陣が、ゆっくりと明滅を始めた。

 吸血鬼が片腕を掲げる。紫がかった光が周囲に波紋を広げ、景色そのものが揺れる。


 「——幻術!」


 遥暎ハルの叫びと同時に、視界が滲む。

 廃墟の輪郭が溶け、音が遠ざかっていく。ノイズの奔流——。


 その刹那、フィアが指先で弾くようにして一枚の符を飛ばす。

 遥暎ハルの腕に、それは滑るように貼りついた。


 次の瞬間、視界が澄む。

 歪んでいた廃墟が、くっきりと線を取り戻す。


 「——助かった」

 遥暎ハルの声に、フィアは頷くだけ。


 戦場が、静かに動き出す。


 吸血鬼が地を蹴る。黒い残像が空気を裂いた。

 遥暎ハルが応じて走り出す。拳を構え、正面からぶつかりにいく。


 だが——速い。


 腕を絡め取りにいくも、吸血鬼の身体は煙のように流れ、すり抜ける。

 爪が紙一重で頬を掠める。


 「……届かない!」


 叫んだ瞬間、地面に一枚の符が滑り込む。

 フィアが移動先を先読みし、投げたものだ。


 遥暎ハルは迷わずその上を踏み込む。


 ——起動。


 爆風。地を押し上げるような衝撃。

 その反動で、ハルの身体が空中へと舞い上がる。


 重力を逆手にとった制圧軌道。

 空中から、真下の吸血鬼へ拳が叩きつけられる。


 「ッらぁぁっ!!」


 着弾と同時、風が割れる音が轟く。

 吸血鬼が後方へ跳ぶ。だが、その動きに合わせて——


 遥暎ハルの籠手に触れていた符が、ほのかに明滅した。


 フィアが目を見開く。


 「……この反応、まさか——」


 遥暎ハルが拳を振るうたび、符がわずかに起動の“間”を調整する。

 遅延起動、誘導起爆、圧力強化——まるで拳と符が、互いに反応し合っているようだった。


 「共鳴してる……?」


 フィアの指が止まる。視線は、今まさに戦うハルの背中へ。


 それはもう、“支援”ではなかった。


 彼女は一瞬だけ迷い、しかしすぐに数枚の符を抜き取る。

 駆け寄って、遥暎ハルのホルスターにそれを差し込んだ。


 「発動タイミングは、あんたに任せる」


 「え……お前、他人に任せるの苦手じゃ……」


 「もう慣れた。……信じてるから」


 短いやり取り。

 それだけで、互いの手にあった距離が消えていく。


 次の一瞬、遥暎ハルが駆ける。


 拳に宿った魔力が、フィアの符と共鳴し——


 炸裂。


 火花のような符術が、拳と同時に炸ける。

 吸血鬼が初めて、わずかにたじろいだ。


 (これが、あいつの——信じて、託された力)


 フィアは符を投げる。遥暎ハルは何も言わず、動きでその意味を受け取る。


 重なる。


 足音が、呼吸が、戦術が。


 そして——意志が。


 「行くぞ」

 「——合わせるよ」


 挟撃。

 左右から、二つの影が同時に突き出る。


 拳と符、衝撃と光——


 重なった瞬間、空間が白く染まった。



《終わらせにいく》

 崩れかけた建物の中、微細な魔力の残滓が漂っていた。


 重力がわずかに乱れ、肌を刺すような空気のひずみが続いている。

 空間は、不安定だ。それでも、終わりは近い。


 対峙する吸血鬼の気配が、明らかに変化していた。


 ——焦り。


 魔術陣が、地を這うように広がっていく。暴走の兆候を孕んだその光に、フィアが身構える。


 だが、吸血鬼は動かない。ただ、静かに口を開いた。


 「……弱者を守る? 愚かな理想だ」

 「守る力を持つ者こそが、支配すべきなんだよ」

 「お前たちの“共鳴”など幻想だ。寄り添っても、崩れるだけだ」


 フィアが、言葉を返そうとして——

 その肩に、遥暎ハルの手が触れた。


 「……俺の番だ」


 ハルは一歩、前に出る。


 「……確かに、俺は弱かった」

 「守ろうとして、守れなかったこともある。……何度も」


 少し俯いてから、視線をまっすぐに吸血鬼へ向ける。


 「それでも、“守りたい”って気持ちは、消えなかった」

 「俺は——顔が見える距離で、誰かと一緒に立ちたい」

 「間違ったら、謝れる距離で。……それが、俺の“守る”なんだ」


 吸血鬼はわずかに目を細めた。

 そして、失笑する。


 「欺瞞だ。感情に縛られた、無力な幻想だ」


 「……それでもいいさ」


 遥暎ハルは拳をゆっくり握る。

 

「幻想でも……信じたいと思った。あいつと、一緒に」


 静かに、足音が響く。


 フィアが、歩み寄る。そして——


 「これ、全部あんたに託す。……使い切って」


 符の束を、彼のホルスターに差し込む。


 瞬間、微かな光が走る。

 符が、遥暎ハルの魔力と呼応し始めていた。


 籠手に、足に、肩に。

 符が展開されていくたびに、彼の身体に魔力の軌跡が走る。


 「今度こそ、並んで勝つよ」


 フィアが短く言うと、数枚の符を指で弾いた。

 結界符が空中で爆ぜ、吸血鬼の動きを封じる。


 「……任せた、ハル!」


 ハルが駆ける。

 踏み込む一歩ごとに、符が応じるように閃く。


 そして——


 「……俺たちは、これでいいんだ!」


 拳が、正面から吸血鬼の胸部に叩き込まれる。

 同時に、符が共鳴。魔力の波が重なり、爆ぜるように広がった。


 音が、空間を裂いた。


 魔力の暴風が収まるころ、吸血鬼は、膝をついていた。


 その目は、どこか遠くを見つめている。


 「……その幻想を、貫けるなら」


 ぽつりと、呟いたその声とともに——彼は、崩れ落ちた。


 静寂。


 瓦礫の隙間から、わずかに夜風が吹き抜ける。


 フィアが、ゆっくりと息を吐く。


 「……終わったね」


 遥暎ハルは、隣に立った彼女の顔を見てから、小さく頷いた。


 「……ああ。俺たちのやり方で、な」


 二人は、崩れた空間を背に、静かに歩き出す。


 もう何も言わなくても、足音は並んで響いていた。

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