第3話 異界に触れた日、まだ揺らいでいる
《空き倉庫の中のざわめき》
午前六時三十八分。
無線機から鳴り響いた電子音は、夢の続きすら赦さなかった。
「……こちら城南署。第四管理区、旧配送拠点跡地にて通報。倉庫内部より“異常な音と光”を確認とのこと。魔力感知、レベル2。熱源なし。要現地確認」
背筋を走る冷えたもの。それは寝起きの鈍さとは別種の感覚だった。
「……レベル2か。微妙に嫌なラインだな」
吐き捨てるように呟きながら、上着を掴む。
無線機に向かって応答を入れつつ、奥の部屋に声をかけた。
「フィア、起きろ。出るぞ。第四管理区、旧倉庫群に魔力反応」
数秒後、寝巻姿のフィアが無言で姿を現す。
足取りに迷いはない。彼女は目をこすりもせず、手元の符束を確認すると、腰のポーチに静かに仕舞った。
「出動理由は?」
「外部通報。音と光。あの区域に“誰か”が入り込んだ可能性がある」
フィアは短く頷いただけだった。
*
朝焼けすら届かない旧第四管理区。
かつての物流拠点は今や廃墟となり、倉庫群は灰色のブロックに埋もれていた。
白バイのライトが照らす先、倉庫の一角で、空気がわずかに“逆流”していた。
音もなく、風もなく。
それなのに、光だけがゆらめいている。
「……ここか」
空間が歪んでいた。
まるで一点透視図法の中に迷い込んだように、視界の奥行きがわずかにねじれている。
角ばったはずの倉庫が、端のほうで丸みを帯び、鉄骨の影が二重に揺れていた。
その中心から、“音”が漏れてくる。
かすかに擦れる紙の音。
硬質で乾いた——けれど、規則性をもっている。
まるで誰かが、符を一枚一枚、並べているような気配。
フィアが隣で足を止め、低く言う。
「……結界じゃない。これは、“練式”ね。何かを準備してる」
「結界じゃ、ない?」
結界とは“守り”だ。だが、練式とは“起動式”——なにかを始める前の段階を意味している。
「この空間、ねじれてる」
フィアの声には、わずかに警戒が混じった。
「たぶん、あれ……『空間接続素子』が発火しかけてる。物理層が、別世界と擦れてる音だよ」
言われて、
そこに“影”があった。
だが、それは倉庫の形を真似ていながらも、微妙に“ズレている”。
光の反射が、壁の裏側から跳ね返ってくる。
——異世界の“向こう側”が、倉庫の骨組みに“重なっている”のだ。
「……なんだよこれ……融合未満の重ね合わせか?」
「行くの? 二人だけで?」
「他に誰が来るんだよ。俺たちで確認するしかない」
返す言葉に、フィアは静かに符を一枚、指先に挟んだ。
それは“起動前”の静かな動作だったが、その場の空気が確かに変わった。
フィアは一歩引き、彼の背後をとった。まるで無言のフォーメーション。
風はない。だが、緊張だけが、倉庫の外壁を這っていた。
誰かがいる。
それは確信だった。
誰かが、“この空間の裂け目”に手をかけている。
その先に、どんな“音”が待っているのか——まだ、誰も知らなかった。
《揺れる重なり、触れてはいけない境界》
鉄の扉が開いたとき、世界が一瞬、沈んだように見えた。
ガタン——という重たい音のあと、
そこは確かに“建物の中”だったはずなのに、空気が違う。温度が違う。
光の屈折が、何もない空間を軋ませていた。
「……やっぱり、ここ……ズレてる」
フィアが低く言った。
倉庫の中は、まるで別世界と“重ね合わせ”られていた。
見えるのに、見えない。そこにあるのに、形が曖昧。
無機質な鉄骨が、時折、柔らかく“呼吸”しているように揺らめいている。
床は、コンクリートのはずだった。だが今は、布の上を歩いているかのように感触が曖昧だった。
一歩ごとに、靴の裏が“空気を押しつける”ように沈む。
「……これは、何の現象だ」
「“界層の
彼女の声には冷静さがあった。だが、静かすぎるその冷静は、逆に不気味なほどだった。
倉庫の奥、わずかに光る何かがあった。
それは、紙だった。
いや、符だった。
無数の符が天井から糸のように垂れ下がり、空中で浮かぶように留まっている。
「……式の“余波”だ。完全に仕上がってはいない」
フィアがゆっくりと指を伸ばす。指先が符に触れる寸前、
「待て。まだ接触は早いかもしれん」
その瞬間——周囲の光が“ひっくり返った”。
目に見えない何かが、空間を裏返すように波打った。
鉄骨の影が逆流し、時間の感覚が一拍ずれる。
フィアの髪が一瞬、風もないのにふわりと揺れた。
「……接触トリガー、設置されてるかもね」
フィアは符に手を伸ばすのを止めた。
代わりに、ポーチから別の符を取り出す。
淡く青い光が、彼女の指先でじわりと脈打つ。
「この程度の
「“誰がこんなものを張ったか”だな」
そして、彼の視線が、天井の奥へと向かう。
——そこに、“誰か”がいた。
身を隠すように背を曲げた影。だが、気配は明らかだった。
揺らぐ光の中で、フィアが言う。
「——始まるよ。ここ、もうじき本格的に“裂ける”」
空気が静かだった。
だがその静けさは、何かが息を潜めている静けさだった。
《魔力のひび割れと、判断の重さ》
倉庫の空気が、突然「生き物」のようにざわついた。
奥の足場にいた影が、ギシリと鉄骨を軋ませて立ち上がる。
その動きは人間のものに見えた。
だが、次の瞬間、
(違う——あれは、“異世界の構造”を纏ってる)
肌が、凍りついたように粟立つ。
その男の背中から、"樹枝状の“魔力のひび割れ”が放射状に伸びていた。
皮膚を突き破るように、裂け目が空間に浮き、音もなくゆがんでいる。
「異世界由来の生体変異体」——最悪のパターンだった。
「来るッ!」
フィアの声が響くと同時に、空間が跳ねた。
男が飛び込んでくる。
速度は常識を逸していた。
床のコンクリがえぐれ、火花が散った。
拳が直撃していたら、頭蓋ごと砕けていた。
「こっちは殺す気満々だな……!」
振り返った男の目が、白く濁っていた。
理性はない。だが、身体は訓練された動きで殺意を実行に移す。
——元は人間だったのか。今はもう、何かが“違う”。
「フィア、援護頼む!」
「一秒、稼いで!」
その言葉に、
体重を乗せた前蹴りで距離を詰める。
相手の懐に潜り込み、右手の警棒を手首に叩き込んだ。
骨が軋む音。男の腕が鈍った。
そこに、音が落ちた。
「——《 拘束・展符 》」
フィアの声と同時に、空間が軋んだ。
空中に浮かび上がった青白い符が、男の背後から展開する。
風もなかったのに、その符が音を立てて“鳴った”。
——キィィィィ……
共鳴。
符が放つ高周波が男の動きを鈍らせ、魔力のひび割れに干渉する。
背後の裂け目が、わずかに揺れた。
「今ッ、カザマ!」
男の体勢が崩れたその瞬間、警棒を脇に収め、左手の手錠を取り出す。
——バシン。
金属音と共に、男の右腕が捕らえられる。
すかさず体を回し、関節を極める形で地面に叩きつけた。
「ぐあッ……!」
呻きが漏れた。
だが、男はまだ動こうとする。
常人の痛覚ならとっくに意識を手放しているはずなのに、どこか異様にしぶとい。
「フィア、もう一枚!」
「——《重複・縛符》!」
再び符が展開。今度は男の足元に紋様が浮かび上がる。
その瞬間、まるで空気が固まったように、男の動きが凍った。
——制圧、完了。
しばしの沈黙。
フィアが歩み寄りながら、低く呟いた。
「人間なのに、まだ“まとも”だね。あなたの手……震えてる」
怒りでも恐怖でもない。
これは——判断の重さだ。
(正しかったのか? この力で、俺は……“守れて”いるのか)
符の音が、まだ空中に残響のように漂っていた。
《小さな信頼、並んで歩く距離》
倉庫の内部に、静けさが戻った。
いや——正確には、「騒がしさ」が引いていった、というべきか。
魔力の揺らぎは収束し、光の屈折もおさまっていく。
現実と異世界の重なりが、少しずつ“解けて”いくように。
「……拘束、完了。逃走の意思も消失。意識も……あんまり、ないな」
敵の男は床に伏し、符に絡め取られたまま動かない。
だが
「こっちは、終わり。封じも保つはず」
フィアが膝をつき、最後の確認を行っている。
結界の補助符を抜き取りながら、彼女は淡々と作業を続けた。
「符術……すごかったな」
「当然。使えるようにしてきたから」
素っ気ない返事。だが、どこか誇らしげだった。
床に残る魔術痕と、空間に漂う残滓。
それらを避けながら、二人は並んで立ち上がった。
しばしの沈黙。
ふと、
「……助かったよ。君がいなかったら、被害が出てたかもしれない」
フィアは一度まばたきし、わずかに視線を逸らす。
目はどこか落ち着かない。だが、否定はしなかった。
「ま、互いにね」
それだけを言って、くるりと背を向ける。
出口へと歩き出したその背中は、今までよりもほんの少し、近くに感じられた。
*
外に出ると、風が頬を撫でた。
陽は傾きかけていたが、空は青く澄んでいる。
「外の空気って、こういう匂いだったんだ……」
フィアが言う。
「……今日の件、報告は俺がやる。君は休んでくれ」
「それ、命令?」
「お願い、だ」
フィアは鼻で笑った。が、それ以上は言わなかった。
二人は、並んで歩き出す。
ほんの数歩の距離。だがその歩調は、どこか合っていた。
《小さな信頼、並んで歩く距離》
夜の署内は静かだった。
照明の落ちた廊下を、
報告書を提出し、上司からの簡単な質疑を受けた後、彼は応接スペースの隅に腰を下ろしていた。
手元には自販機で買った微糖の缶コーヒー。けれど、一口も飲んでいない。
「制圧、保護、魔力の安定化……記録は完璧だったそうだな」
書類の束を片手に、巡査部長が通りがかりに声をかける。
「ありがとうございます」
「でも、表情が晴れてないな。何か引っかかるのか?」
「……はい。今回は、制圧対象が完全に理性を失っていました」
「うん」
「でも、手が止まった瞬間があったんです。ほんの一瞬だけ、迷いのような……」
巡査部長は、ふっと表情を曇らせた。
「そういう瞬間に気づけるうちは、まだお前は“人間”なんだよ」
そして言いかけて、黙った。
まるで、その“人間らしさ”がこれから削られていくことを知っているかのように。
*
帰宅すると、部屋は薄暗かった。
フィアは机に向かい、何枚もの符に淡く光を灯している。
「帰った」
声をかけると、フィアは振り向かずに答えた。
「遅かったね。何か言われた?」
「問題ない。手続きは完了。君の登録も、保護者の名義も通った」
「保護、ね……」
皮肉の混じった声に、
だが、反論する気にはなれなかった。
「君の符術、記録には“高精度・準戦闘用”と書かれていた。そんな技術、どこで……」
「独学。模倣から、解析、再構築。……他に道がなかったから」
答える声に、感情はほとんどなかった。
だがその無表情こそが、過去を物語っていた。
「君が今日、俺に協力してくれたこと。あれは……なぜ?」
フィアは手を止め、静かに振り返った。
暗がりの中、銀髪がほのかに光を反射して揺れる。
「人間なのに、“まだまとも”に見えたから」
「……まとも?」
「異世界と接触した人間は、すぐに変わる。怖がるか、無視するか、利用しようとする。けど、今日のあなたは——」
少しだけ、言葉が止まった。
「ちゃんと“止めよう”としてた」
その言葉に、
過剰な正義感とも、職務意識とも違う。
——それは、“誰かを救いたい”という、衝動に近かった。
「……明日は休みだから、少し寝ろ。お互いに」
それだけ言って、
だが部屋を出る直前、背後からぽつりと声が届いた。
「……でもね、カザマ。そういう“まとも”って、いちばん最初に壊れるんだよ」
静かな夜に、符の光がかすかに脈打っていた。
《輪郭が残る夜、託された符》
午前零時を回った頃、ようやく風が吹いた。
フィアは窓際に立ち、街の灯りを遠く見つめていた。
結界はすでに解かれているが、部屋にはまだ薄く魔力の残響が漂っている。
「……さっきの奴」
ソファで毛布にくるまっていた
「目を覚ましたとき、一瞬だけ——泣いてたように見えた」
フィアは視線を動かさなかった。
けれど、声だけがそっと返る。
「“見えてしまった”だけ。自分の形が崩れていく瞬間に」
「……符で、そういうのが分かるのか?」
「いいえ。人の輪郭は、本人が崩すものだから」
部屋の空気が、また静かになる。
冷房も切れ、虫の声だけが壁の向こうからかすかに届いていた。
「——これ」
言葉少なに、それを差し出す。
薄紙に、銀の文様が細かく刻まれている。見る者によって形が違って見えるという、不思議な符だった。
「護身用。発動は、ここの中心を押すだけ」
その声は、どこまでも平坦だった。けれど、その指先には、いつものような冷たさはない。
「……くれるのか?」
フィアが人に道具を託すなど、今日の朝までは想像もしなかった。
「借りただけってことにしておいて」
言いながら、彼女は口元にわずかに陰るような動きを見せた。
笑顔にはなりきらない。
けれど、それは確かに「微笑の前兆」だった。
——信じてはいない。でも、託してみようとは思っている。
その仕草に、
指先で、受け取った符の端をなぞる。
そこには魔術の緊張ではなく、誰かが作り、誰かに渡したという、温度のようなものが残っていた。
「……ありがとな」
それに対して、フィアは何も言わなかった。
彼女の背中は、拒絶ではなく、たった今言葉を使った誰かのように、どこか言い終えたあとの静けさをまとって、いつものように部屋へ戻っていく。
ドアが閉まる。
眠気はまだ来ない。けれど、どこか肩の力が抜けていた。
手のひらの上、銀の符がかすかに光を灯した。
託されたそれは、まだ不器用な形のまま、
それでも確かに「信頼」と呼べるものだった。
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