境界に咲いたのは、帰れない僕らの居場所だった
如月ユウ
第1話 日常はすでに、裂けていた
《静かに始まる、異界の揺れ》
空が曇っていた。夏にしては妙に重たい空気。
だがハルは、その曇天よりも、胸の内にひたひたと湧く違和感を強く感じていた。
午前九時二十三分。城南署・交通部白バイ隊、出動待機所。
ヘルメット越しに、無線が割り込む。
「——確認されたのは、第三工業団地裏手の路地。熱源の反応なし。ただし……魔力感知反応、微弱ながら継続中」
その瞬間、体がひときわ強く反応した。
肌の表面が、目に見えぬ何かにざらつく。
過去に数度、いや、もっと深く染みついている“感じ”だった。
(またか……)
「城南三号、現場急行を要請。繰り返す、現場急行を——」
「了解。
応答しながら、ハルはグローブを強く握った。
白バイのスタンドを蹴り上げる。スロットルを開けると、エンジンがうなりを上げた。
出発前、振り返ると後輩が眉をひそめていた。
「また異世界系っすか? 当たりだったら、無線優先で戻ってくださいね」
「ああ。……行ってくる」
*
工業地帯へと続く裏道は、やけに静かだった。
通勤ラッシュの時間を過ぎたとはいえ、人も車も見えない。
白バイのスピードを落とす。
周囲の建物が、まるでこちらを見ているような圧を放っている。
風の音がない。蝉の声すら、遠ざかっていた。
——ここは、現実と異世界の“継ぎ目”だ。
空間の密度が変わった。肌の下に冷たい膜のようなものがまとわりつく。
わずかに——焦げたような、それでいて甘ったるいにおいが鼻をつく。
(境界のにおい、か)
異世界と現代が重なる場所では、なぜか決まってこのにおいがする。
腐敗でもない、香料でもない、正体不明の空気。
バイザー越しに視界を鋭く細め、ハルは白バイのハンドルをきる。
路地に入ったその刹那、頭皮がぞわりと逆立った。
——ここだ。
*
無線が再び鳴る。だが音質が微妙に歪んでいる。
「……到着位置確認。魔力反応、微増。視覚的異常の有無、確認を——」
音の向こうにある焦りを、ハルは感じ取っていた。
現場本部も、この異常を“異常”として把握しきれていない。
(深入りするな、ってことだな)
けれど。
その匂いを、あの空気を、見過ごすわけにはいかなかった。
誰かがそこにいるなら、保護しなければならない。
例え、異世界の存在だったとしても。
白バイのエンジンを切り、ハルはゆっくりとバイクから降りた。
背筋に汗が伝う。
だがその手には、確かな力が込められていた。
その路地の先で、何が待っているのかはまだ知らない。
ただ一つ言えるのは——ここは、すでに境界を越えていたということだ。
《その目は、境界の内側》
路地の奥。空間の密度が、そこだけ異様に濃かった。
風が止まり、外の音が遠のく。まるで、ここだけが別の世界に切り離されたような——そんな静寂。
音を立てれば、何かが崩れる。そう思わせるほど、場の空気は張り詰めていた。
空間の中央には、淡く光る円形の結界が展開していた。
アスファルトの上に、術式のような文様が刻まれている。
魔力の線がじわりと生き物のように脈打ち、浮かび上がる符がほんのわずかに揺れている。
中に、誰かがいた。
フードを被った小柄な影。
銀色の髪が結界の光を受けて鈍く光り、指先が符に触れている。
その仕草は迷いがなく、むしろ慣れている。緊急処置ではない。——制御、だ。
「それ以上、入らないで」
背を向けたまま、少女が言った。
「外周は警告用。次の層は攻撃符に切り替わってる」
声音は静か。だが明確に敵意をはらんでいた。
予告ではない。警告だ。踏み込めば——焼かれる。
体の重心をやや引き、視線だけを滑らせて状況を確認する。
構えるべきか。否、今はまだ“判断”の時間だ。
「君が、これを張ったのか?」
「ほかに誰がいるっていうの?」
少女はようやく振り返った。
フードの陰からのぞく顔は幼く見えたが、目だけは鋭かった。
冷たい、測るようなまなざし。——こちらを値踏みしている。
「名乗れ」
「……
言いかけて、口を閉じる。
“警察”の二文字は、今の相手にどう響くか計れなかった。
「君の無事を確認しに来ただけだ。攻撃の意図はない」
「へえ。だったらずいぶん武装してるんだね、その格好」
視線がハルの腰元に向く。制服の装備。警棒、手錠、無線。
相手は既に「こちらが組織人間である」ことを察している。
「人間の保護って、警戒と同義なんだ?」
「身元が不明で、異常空間に居て、結界を展開している君が相手なら、当然だろう」
「なるほど、正直」
彼女は一歩、結界の中心から外へ踏み出した。
結界がわずかに揺れ、周囲の空気が変化する。
ほんの数秒の動き。それだけで、緊張がさらに深まった。
彼女の手は、腰のポーチにかかっていた。——何かを仕込んでいるのかもしれない。
「君は誰だ」
「名乗っても、どうせ記録にされるんでしょ。人間の制度、信じてないの」
「俺は君を“記録”したいんじゃない。“保護”できるか判断したいだけだ」
「それが信じられないって、言ってるの」
ピリ……と結界の外縁が音を立てた。
魔力の膜が緩み始めている。彼女が解除の動作を始めたのだ。
それは一方で、“殺す気は今はない”という意思表示でもあった。
そのとき、彼女の目がわずかに細まった。
「……あんたの目、まだ引き金には触れてない。でも、触れる覚悟はある目をしてる」
その言葉に、
少女は、経験から人の「目」を読んでいる。
何度もこういう場をくぐってきたのだろう。
「——フィア。エルフ。符術士。敵意は今のところ、相手次第」
「俺も同じだ。今のところ、な」
沈黙。
風も吹かない空間に、わずかに肩の力が抜ける音だけがあった。
フィアはそっと結界の構造を解いた。
その動きは、崩すのではなく、仕舞うという所作だった。
空気がゆっくりとほどけ、光が消えていく。
敵ではない——だが、味方でもない。
そんな緊張が、ふたりの間に残っていた。
《この子を、迎えるという選択》
結界が完全に消えたあとも、路地の空気はどこか濁っていた。
けれどさっきまで肌を這っていたような重苦しさは、すでにない。
数歩前に立つフィアは、肩をひとつも動かさずに、淡々と作業の続きをしていた。
符を一枚ずつ回収しながら、なにごともなかったように口を開く。
「これで、しばらくは混線しない。たぶんね」
「たぶん、か……」
「確率は十分に下がるってこと。魔力濃度も下がってきてる」
言葉の端々にある「当然」と「説明不要」が混じった態度に、
が、それを咎めるような立場でもなかった。
「本部へ報告する。移動できるか?」
「構わない。護送されるつもりはないけどね」
警告とも拒絶ともつかない返し。だが、ついてくる意思があるだけでも十分だった。
*
昼近く、署内の応接室。
仮設の仕切りと簡易机、金属の椅子。決して歓迎されている空間ではない。
「……つまり、保護者も所属先も不明。記録も登録もなし。だが、異常発生地点に単身で対応していた、と」
上司の一人が資料をめくりながら、気の抜けた声を出す。
隣の係官は無言で腕を組んでいた。明らかに、厄介ごと扱いだ。
「こちらとしては、対応に感謝すべきではありますが……今後どうしましょうか、風間巡査」
その言い回しに、
「俺に、ですか?」
「君が最初に接触した以上、判断は現場の裁量で構わない。ね?」
ね? と振られた係官は無言のまま、わずかにうなずいた。
——逃げんな…、と思った。
確かに、職権での一時保護は認められている。
だが、それは保護対象が“人間”である場合だ。
異世界種の場合、対応マニュアルは灰色だらけ。
しかも今回の対象は、保護が必要かどうかも不明確。むしろ——
(……自分の足で立ってる、というより、誰も近づけないでいる)
沈黙が落ちた。
フィアは、そんなやりとりを横目に見ていた。
ふてぶてしさすら感じさせる視線だったが、どこか居場所のなさもにじんでいた。
「……わかりました。自宅で一時的に保護します。身元確認の手続きと並行で」
「おっ、そうか。それなら助かる。必要なら生活費の一部も申請できるからね」
言い終わるより早く、書類が回されてきた。
事務的な手続きだけは妙に早い。
(助かる、って……誰が?)
手の中の書類を見つめながら、遥暎は複雑な気分になっていた。
*
その日の夕暮れ、ハルの自宅。
築年数の古い木造アパート。二階建ての角部屋。
玄関のドアを開けると、フィアはしばらく足を踏み入れなかった。
まるで、見えない結界が張られているかのように。
「入っても?」
「どうぞ。好きな場所に」
そう言ってから、言葉のまずさに気づく。
“好きな場所”なんてあるはずがない。今はどこも仮の居場所だ。
フィアは靴を脱ぎながら、家の四隅を見回していた。
「結界、張っていい?」
「……張る理由を聞いても?」
「この世界、何が起きるか分からない。寝てる間に命を取られたくはないから」
まっすぐな目だった。言葉は棘だらけでも、嘘は混じっていない。
「……必要なら、どうぞ」
それだけ返すと、ハルは奥の部屋に引っ込んだ。
玄関越しに響く紙の音。符を貼る微かな気配。
仮住まいの音が、静かに部屋に広がっていった。
《同居一日目、塩と水と無防備》
紙の擦れる音。魔力の気配をわずかに帯びた符が、部屋の四隅に貼られていく。
フィアは何も言わず、淡々と結界を築いていた。
「こっちは、だいたい一日三食って決まってる。とりあえず今夜は焼き魚と味噌汁。食べられそう?」
フィアは振り返らなかった。
「……火が通ってれば、たぶん」
その返しに、ハルはわずかに眉を動かした。
警戒しているのではない。完全に“信用していない”のだ。
相手の意図ではなく、“食べ物”そのものを警戒する目つきだった。
やがて食卓。
フィアは一口、焼き魚を口に運ぶと、ゆっくりと噛みしめた。
が、次の瞬間、箸を止めた。
「……塩、強い。舌が痛い」
「えっ、ああ、ごめん。こっちの味付け、慣れてないよな……」
慌ててお茶を差し出すが、フィアはそれに手を伸ばさず、水を一口飲んだだけで黙りこんだ。
「風呂、沸かしてある。順番はどっちでもいいけど、先に入る?」
「……水でいい」
短く、硬い。
「水、って……シャワーだけとか?」
「違う。風のない場所で服を脱ぐのは、無防備すぎるって話」
そこには感情が混じっていなかった。
誰かを責めるでも、からかうでもなく、ただ当然の理屈として。
「湯船が怖い、ってことか?」
「“湯船”って何?」
問いが返ってくるとは思っていなかった。
彼女の世界には、そもそもそんな概念が存在しないのだろう。
衛生、入浴、裸。すべてに“安全”という前提が欠けている。
(自衛が、習慣なんだ)
それが妙に、胸に刺さった。
*
夜。ハルはリビングのソファで毛布をかぶっていた。
フィアにはベッドを譲った。何も言わずに差し出すと、彼女は無言のまま部屋に入っていった。
暗がりの中、
「……正直、わかんねえよな」
何が正しいとか、どこまで踏み込んでいいのかとか。
相手の立場を尊重するって、つまり全部距離を置くってことか。
けど——それでいいのか?
そのとき、ドアの隙間からかすかな音が聞こえた。
窓に触れる風の音とは違う、符が反応するような小さな揺れ。
「……張り直してるのか」
眠る前にも、結界を確認しているのだろう。
誰にも頼らずに、自分の身は自分で守る。
そうやって今日まで生きてきた。その当たり前を、崩せる日は来るのか——
夜の静けさは深く、それはまるで結界の内側にいるような、触れがたい孤独をまとっていた。
《起きて、もう戻れないから》
薄闇の中、フィアは窓辺に立っていた。
空はまだ夜の色だったが、肌に触れる空気がわずかに違っていた。
風もないのに、壁が軋んだような感覚。
空間の一層が、別の膜にすり替わるような、わずかな違和。
——きざし。何かが、また、起きようとしている。
そのとき、部屋の片隅から「ビーッ」という甲高い電子音が鳴った。
人間の無線機。小さな機械だが、異世界のものとは明らかに“違う”。
フィアは一歩、慎重に下がった。
警戒の色をそのまま残したまま、ソファで眠るハルのもとへ歩み寄る。
「……風間。起きて」
反応はない。彼は毛布をかぶったまま、のびた髪をわずかに揺らしていた。
「風間、何かが鳴ってる。空気の層が、また動いてる」
ようやく、うめくような声が返ってくる。
「……は? ……何時……」
枕元でごそごそと動いた後、ハルは寝ぼけた目で上体を起こした。
髪は跳ね、片目だけがかろうじて開いている。
「……何かって、お前……無線?」
「あの音、うるさい。慣れないし、鼓膜に刺さる」
フィアはわずかに眉をひそめたまま、まだ鳴り続けている機械を見た。
人間の文明の象徴。光と音で危機を知らせる、それがこの世界のやり方だ。
「まだ、揺れてる。昨日とは違う……もっと下の層」
「……層、って……ああ、境界のことか……」
言いながら、ハルはようやく手を伸ばし、無線を取る。
寝起きの手つきでスイッチを入れると、すぐに微かな音声が走った。
「……こちら城南本部。第四管理区、早朝警報。異常反応……継続中。詳細不明。出動は待機、要警戒……」
語尾がノイズに呑まれた。機械越しでも、混線しているのがわかる。
“何か”が、まだこの空間を不安定にしている。
「……寝かせてくれよ……朝までくらい……」
ハルは額を押さえ、ぼそりと呟いた。
それでも、すでに身体は起き上がり、制服のジャケットに手をかけている。
「昨日の“揺れ”は、一時的な表層。今回は違う。深い場所が、軋んでる」
フィアの言葉に、ハルはふと視線をやった。
「……それ、感覚で言ってるのか?」
「私は符術士。境界の脈は、私にとっての空気のようなもの」
答える声に、余計な感情はなかった。
単なる事実。それを告げる声音だった。
窓の外を見やると、街はまだ眠っていた。
ビルの輪郭は夜に沈み、車の音も、灯りもない。
それなのに、なぜだか静けさが騒がしい。
フィアが低く言った。
「始まってるよ。昨日は序章。今日から、もう“戻らない”」
その言葉に、
寝癖のまま、無線機を握る手にだけ、警察官の硬さが戻っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます