境界に咲いたのは、帰れない僕らの居場所だった

如月ユウ

第1話 日常はすでに、裂けていた

《静かに始まる、異界の揺れ》



 空が曇っていた。夏にしては妙に重たい空気。

 だがハルは、その曇天よりも、胸の内にひたひたと湧く違和感を強く感じていた。


 午前九時二十三分。城南署・交通部白バイ隊、出動待機所。


 風間 遥暎カザマ ハルアキは白バイの横でじっと耳を澄ませていた。


 ヘルメット越しに、無線が割り込む。


「——確認されたのは、第三工業団地裏手の路地。熱源の反応なし。ただし……魔力感知反応、微弱ながら継続中」


 その瞬間、体がひときわ強く反応した。

 肌の表面が、目に見えぬ何かにざらつく。


 過去に数度、いや、もっと深く染みついている“感じ”だった。


(またか……)


「城南三号、現場急行を要請。繰り返す、現場急行を——」


「了解。遥暎ハルアキ、出動します」


 応答しながら、ハルはグローブを強く握った。

 白バイのスタンドを蹴り上げる。スロットルを開けると、エンジンがうなりを上げた。

 出発前、振り返ると後輩が眉をひそめていた。


「また異世界系っすか? 当たりだったら、無線優先で戻ってくださいね」


「ああ。……行ってくる」


 遥暎ハルアキはそれだけ返して、白バイを発進させた。





 工業地帯へと続く裏道は、やけに静かだった。

 通勤ラッシュの時間を過ぎたとはいえ、人も車も見えない。


 白バイのスピードを落とす。


 周囲の建物が、まるでこちらを見ているような圧を放っている。

 風の音がない。蝉の声すら、遠ざかっていた。


 ——ここは、現実と異世界の“”だ。


 遥暎ハルアキの感覚が

 空間の密度が変わった。肌の下に冷たい膜のようなものがまとわりつく。

 わずかに——焦げたような、それでいて甘ったるいにおいが鼻をつく。


(境界のにおい、か)


 異世界と現代が重なる場所では、なぜか決まってこのにおいがする。

 腐敗でもない、香料でもない、正体不明の空気。


 バイザー越しに視界を鋭く細め、ハルは白バイのハンドルをきる。


 路地に入ったその刹那、頭皮がぞわりと逆立った。


 ——ここだ。





 無線が再び鳴る。だが音質が微妙に歪んでいる。


「……到着位置確認。魔力反応、微増。視覚的異常の有無、確認を——」


 音の向こうにある焦りを、ハルは感じ取っていた。

 現場本部も、この異常を“異常”として把握しきれていない。


(深入りするな、ってことだな)


 けれど。

 その匂いを、あの空気を、見過ごすわけにはいかなかった。


 誰かがそこにいるなら、保護しなければならない。

 例え、異世界の存在だったとしても。


 白バイのエンジンを切り、ハルはゆっくりとバイクから降りた。


 背筋に汗が伝う。

 だがその手には、確かな力が込められていた。

 その路地の先で、何が待っているのかはまだ知らない。


 ただ一つ言えるのは——ここは、ということだ。



《その目は、境界の内側》



 路地の奥。空間の密度が、そこだけ異様に濃かった。


 風が止まり、外の音が遠のく。まるで、ここだけが別の世界に切り離されたような——そんな静寂。


 遥暎ハルアキは白バイを遠くに置き、警棒を手に静かに歩を進めた。

 音を立てれば、何かが崩れる。そう思わせるほど、場の空気は張り詰めていた。


 空間の中央には、淡く光る円形の結界が展開していた。


 アスファルトの上に、術式のような文様が刻まれている。

 魔力の線がじわりと生き物のように脈打ち、浮かび上がる符がほんのわずかに揺れている。


 中に、誰かがいた。

 フードを被った小柄な影。


 銀色の髪が結界の光を受けて鈍く光り、指先が符に触れている。

 その仕草は迷いがなく、むしろ慣れている。緊急処置ではない。——、だ。


 遥暎ハルアキが無言のまま一歩近づいた、その瞬間。


「それ以上、入らないで」


 背を向けたまま、少女が言った。


「外周は警告用。次の層は攻撃符に切り替わってる」


 声音は静か。だが明確にをはらんでいた。


 予告ではない。警告だ。踏み込めば——焼かれる。


 遥暎ハルアキは即座に足を止めた。


 体の重心をやや引き、視線だけを滑らせて状況を確認する。

 構えるべきか。否、今はまだ“判断”の時間だ。


 「君が、これを張ったのか?」


「ほかに誰がいるっていうの?」


 少女はようやく振り返った。

 フードの陰からのぞく顔は幼く見えたが、目だけは鋭かった。

 冷たい、測るようなまなざし。——こちらを


「名乗れ」


「……風間遥暎カザマ ハルアキ。所属は——」


 言いかけて、口を閉じる。

 “警察”の二文字は、今の相手にどう響くか計れなかった。


「君の無事を確認しに来ただけだ。攻撃の意図はない」


「へえ。だったらずいぶん武装してるんだね、その格好」


 視線がハルの腰元に向く。制服の装備。警棒、手錠、無線。

 相手は既に「こちらが組織人間である」ことを察している。


「人間の保護って、警戒と同義なんだ?」


「身元が不明で、異常空間に居て、結界を展開している君が相手なら、当然だろう」


「なるほど、正直」


 彼女は一歩、結界の中心から外へ踏み出した。

 結界がわずかに揺れ、周囲の空気が変化する。


 ほんの数秒の動き。それだけで、緊張がさらに深まった。

 彼女の手は、腰のポーチにかかっていた。——のかもしれない。


 遥暎ハルアキもまた、警棒に指をかけていた。互いに動けば、一瞬で爆ぜる。そんな距離。


「君は誰だ」


「名乗っても、どうせ記録にされるんでしょ。人間の制度、信じてないの」


「俺は君を“記録”したいんじゃない。“保護”できるか判断したいだけだ」


「それが信じられないって、言ってるの」


 ピリ……と結界の外縁が音を立てた。


 魔力の膜が緩み始めている。彼女が解除の動作を始めたのだ。


 それは一方で、“殺す気は今はない”という意思表示でもあった。

 そのとき、彼女の目がわずかに細まった。


「……あんたの目、まだ引き金には触れてない。でも、触れる覚悟はある目をしてる」


 その言葉に、遥暎ハルアキは眉をひそめた。


 少女は、経験から人の「」を読んでいる。


 何度もこういう場をくぐってきたのだろう。


「——フィア。エルフ。符術士。敵意は今のところ、相手次第」


「俺も同じだ。今のところ、な」


 沈黙。


 風も吹かない空間に、わずかに肩の力が抜ける音だけがあった。

 フィアはそっと結界の構造を解いた。


 その動きは、崩すのではなく、仕舞うという所作だった。

 空気がゆっくりとほどけ、光が消えていく。


 ——だが、


 そんな緊張が、ふたりの間に残っていた。




《この子を、迎えるという選択》




 結界が完全に消えたあとも、路地の空気はどこか濁っていた。

 けれどさっきまで肌を這っていたような重苦しさは、すでにない。


 風間遥暎カザマハルアキは警棒を収め、そっと息を吐いた。

 数歩前に立つフィアは、肩をひとつも動かさずに、淡々と作業の続きをしていた。


 符を一枚ずつ回収しながら、なにごともなかったように口を開く。


「これで、しばらくは混線しない。たぶんね」


「たぶん、か……」


「確率は十分に下がるってこと。魔力濃度も下がってきてる」


 言葉の端々にある「当然」と「説明不要」が混じった態度に、遥暎ハルアキは少しだけ口元を引きつらせた。


 が、それを咎めるような立場でもなかった。


「本部へ報告する。移動できるか?」


「構わない。護送されるつもりはないけどね」


 警告とも拒絶ともつかない返し。だが、ついてくる意思があるだけでも十分だった。


 遥暎ハルアキは無線を取り出し、現場の処理完了と、対象人物の保護を報告した。



 昼近く、署内の応接室。

 仮設の仕切りと簡易机、金属の椅子。決して歓迎されている空間ではない。


「……つまり、保護者も所属先も不明。記録も登録もなし。だが、異常発生地点に単身で対応していた、と」


 上司の一人が資料をめくりながら、気の抜けた声を出す。


 隣の係官は無言で腕を組んでいた。明らかに、厄介ごと扱いだ。


「こちらとしては、対応に感謝すべきではありますが……今後どうしましょうか、風間巡査」


 その言い回しに、遥暎ハルアキは目を瞬かせた。


「俺に、ですか?」


「君が最初に接触した以上、判断は現場の裁量で構わない。ね?」


 ね? と振られた係官は無言のまま、わずかにうなずいた。


 ——…、と思った。


 確かに、職権での一時保護は認められている。

 だが、それは保護対象が“人間”である場合だ。


 異世界種の場合、対応マニュアルは灰色だらけ。

 しかも今回の対象は、保護が必要かどうかも不明確。むしろ——


(……自分の足で立ってる、というより、誰も近づけないでいる)


 沈黙が落ちた。


 フィアは、そんなやりとりを横目に見ていた。


 ふてぶてしさすら感じさせる視線だったが、どこかもにじんでいた。


「……わかりました。自宅で一時的に保護します。身元確認の手続きと並行で」


「おっ、そうか。それなら助かる。必要なら生活費の一部も申請できるからね」


 言い終わるより早く、書類が回されてきた。


 事務的な手続きだけは妙に早い。


、って……誰が?)


 手の中の書類を見つめながら、遥暎は複雑な気分になっていた。





 その日の夕暮れ、ハルの自宅。


 築年数の古い木造アパート。二階建ての角部屋。


 玄関のドアを開けると、フィアはしばらく足を踏み入れなかった。


 まるで、見えない結界が張られているかのように。


「入っても?」


「どうぞ。好きな場所に」


 そう言ってから、言葉のまずさに気づく。


 “好きな場所”なんてあるはずがない。今はどこも仮の居場所だ。


 フィアは靴を脱ぎながら、家の四隅を見回していた。


「結界、張っていい?」


「……張る理由を聞いても?」


「この世界、何が起きるか分からない。から」


 まっすぐな目だった。言葉は棘だらけでも、嘘は混じっていない。


「……必要なら、どうぞ」


 それだけ返すと、ハルは奥の部屋に引っ込んだ。


 玄関越しに響く紙の音。符を貼る微かな気配。


 仮住まいの音が、静かに部屋に広がっていった。




《同居一日目、塩と水と無防備》




 紙の擦れる音。魔力の気配をわずかに帯びた符が、部屋の四隅に貼られていく。


 フィアは何も言わず、淡々と結界を築いていた。


 遥暎ハルアキはキッチンに立ち、炊飯器の蓋を開ける。


「こっちは、だいたい一日三食って決まってる。とりあえず今夜は焼き魚と味噌汁。食べられそう?」


 フィアは振り返らなかった。


「……火が通ってれば、たぶん」


 その返しに、ハルはわずかに眉を動かした。


 警戒しているのではない。完全に“信用していない”のだ。

 相手の意図ではなく、“食べ物”そのものを警戒する目つきだった。


 やがて食卓。


 フィアは一口、焼き魚を口に運ぶと、ゆっくりと噛みしめた。


 が、次の瞬間、箸を止めた。


「……


「えっ、ああ、ごめん。こっちの味付け、慣れてないよな……」


 慌ててお茶を差し出すが、フィアはそれに手を伸ばさず、水を一口飲んだだけで黙りこんだ。


 遥暎ハルアキは魚の身を箸でほぐしながら、そっと話題を変える。


「風呂、沸かしてある。順番はどっちでもいいけど、先に入る?」


「……水でいい」


 短く、硬い。


「水、って……シャワーだけとか?」


「違う。風のない場所で服を脱ぐのは、無防備すぎるって話」


 そこには感情が混じっていなかった。


 誰かを責めるでも、からかうでもなく、ただ当然の理屈として。

 遥暎ハルアキは言葉を詰まらせ、少し考えてから問い直す。


「湯船が怖い、ってことか?」


「“湯船”って何?」


 問いが返ってくるとは思っていなかった。

 彼女の世界には、そもそもそんな概念が存在しないのだろう。

 衛生、入浴、裸。すべてに“安全”という前提が欠けている。


(自衛が、習慣なんだ)


 それが妙に、胸に刺さった。





 夜。ハルはリビングのソファで毛布をかぶっていた。


 フィアにはベッドを譲った。何も言わずに差し出すと、彼女は無言のまま部屋に入っていった。

 暗がりの中、遥暎ハルアキは天井を見つめていた。


「……正直、わかんねえよな」


 何が正しいとか、どこまで踏み込んでいいのかとか。

 相手の立場を尊重するって、つまり全部距離を置くってことか。


 けど——それでいいのか?


 そのとき、ドアの隙間からかすかな音が聞こえた。


 窓に触れる風の音とは違う、符が反応するような小さな揺れ。


「……張り直してるのか」


 眠る前にも、結界を確認しているのだろう。

 誰にも頼らずに、自分の身は自分で守る。


 そうやって今日まで生きてきた。その当たり前を、崩せる日は来るのか——


 遥暎ハルアキは、目を閉じた。


 夜の静けさは深く、それはまるで結界の内側にいるような、触れがたい孤独をまとっていた。




《起きて、もう戻れないから》




 薄闇の中、フィアは窓辺に立っていた。

 空はまだ夜の色だったが、肌に触れる空気がわずかに違っていた。


 風もないのに、壁が軋んだような感覚。


 空間の一層が、別の膜にすり替わるような、わずかな違和。


 ——きざし。何かが、また、起きようとしている。


 そのとき、部屋の片隅から「ビーッ」という甲高い電子音が鳴った。

 人間の無線機。小さな機械だが、異世界のものとは明らかに“違う”。


 フィアは一歩、慎重に下がった。

 警戒の色をそのまま残したまま、ソファで眠るハルのもとへ歩み寄る。


 「……風間。起きて」


 反応はない。彼は毛布をかぶったまま、のびた髪をわずかに揺らしていた。


 「風間、何かが鳴ってる。空気の層が、また動いてる」


 ようやく、うめくような声が返ってくる。


 「……は? ……何時……」


 枕元でごそごそと動いた後、ハルは寝ぼけた目で上体を起こした。

 髪は跳ね、片目だけがかろうじて開いている。


 「……何かって、お前……無線?」


 「あの音、うるさい。慣れないし、鼓膜に刺さる」


 フィアはわずかに眉をひそめたまま、まだ鳴り続けている機械を見た。

 人間の文明の象徴。光と音で危機を知らせる、それがこの世界のやり方だ。


 「まだ、揺れてる。昨日とは違う……もっと下の層」


 「……層、って……ああ、境界のことか……」


 言いながら、ハルはようやく手を伸ばし、無線を取る。

 寝起きの手つきでスイッチを入れると、すぐに微かな音声が走った。


 「……こちら城南本部。第四管理区、早朝警報。異常反応……継続中。詳細不明。出動は待機、要警戒……」


 語尾がノイズに呑まれた。機械越しでも、混線しているのがわかる。


 “”が、まだこの空間を不安定にしている。


 「……寝かせてくれよ……朝までくらい……」


 ハルは額を押さえ、ぼそりと呟いた。

 それでも、すでに身体は起き上がり、制服のジャケットに手をかけている。


 「昨日の“揺れ”は、一時的な表層。今回は違う。深い場所が、軋んでる」


 フィアの言葉に、ハルはふと視線をやった。


 「……それ、感覚で言ってるのか?」


 「私は符術士。境界の脈は、私にとっての空気のようなもの」


 答える声に、余計な感情はなかった。

 単なる事実。それを告げる声音だった。


 窓の外を見やると、街はまだ眠っていた。

 ビルの輪郭は夜に沈み、車の音も、灯りもない。


 それなのに、なぜだか静けさが騒がしい。


 フィアが低く言った。


 「始まってるよ。昨日は序章。今日から、もう“”」


 その言葉に、遥暎ハルアキの目が完全に覚めた。

 寝癖のまま、無線機を握る手にだけ、警察官の硬さが戻っていた。

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