第29話 「すでにいない存在」

 校舎の地下を伸びるその廊下は冷たいほどに白かった。雪を固めてつくったような壁にはシミ1つなく、天井から降りそそぐ蛍光灯の光を反射させていた。


 上の惨状と比べると天国みたいだ。


「ここは……」


「迷宮だとは思いますが」


 高砂たかさごさんが歩きはじめる。そのたびに、コツコツコツと硬い足音が散乱する。


 廊下は不気味なほどの静寂に包まれていた。足音だけではなく呼吸音すらどこまでも響いていきそうだ。


 まっすぐ進んでいくと十字路に突きあたった。右にも左にも正面にも廊下は続いていて、どれもそこまで代わり映えしない。


 キョロキョロと見ていたら、人影がちらりと見えた。


 左の通路の角へと消えていく黒いスカート。


 それが、わたしには綺華あやかだと思えてならなかった。


 走り出そうとして、この前のことがフッと頭をよぎる。高砂さんだってさっき言ってたではないか。


 罠かもしれない。


 だけど、わたしの体はとうに走り出していた。背後から高砂さんの声がかかってきても、追いかけるのをやめられなかった。


 あれは偽物なんかじゃない。本物の綺華だ。


 通路を駆けるがなかなか追いつけない。一定の距離が保たれていて、わたしに見えるのはひるがえるスカートだけ。


「綺華!」


 逃走者が驚いたようにスピードを緩めたけれど、すぐに速度を上げ、扉の1つへと入っていく。


 その扉の前に立てば、壁に切り込みを入れたようなシンプルなものだった。ノブもなにもない。まさしくつかみどころがなかった。SFかなにかで見たような感じ。


 扉に触れてみれば、音もなくスライドしていく。


 目をぱちくりさせている間に、扉の向こうに広がっていた闇が、パチンと入った照明によって明るくなる。


 そこは研究室だった。


 本格的な機器が並ぶその部屋は理科室ほども広くはない。狭い中には本棚やらパソコンやらモニターやら、モルモットが入れられたケージやらがあった。


 でも、誰もいない。黒い制服を着た私の妹はどこにもいなかった。


 中へと入れば扉が閉まる。飛び込められたんじゃないかと思ったけれど、それよりも気になるものがあった。


 マグカップやら紙束やらお菓子やらで占拠せんきょされているテーブルの上には、1冊の手帳が置かれていた。


 黒革の表紙をめくる。そこには、四角四面な青い文字で高砂千尋ちひろとあった。


 なぜ、理事長の手帳が迷宮奥底に存在しているのか。


 手帳をめくる。カレンダーは予定でいっぱいだった。どこどこと会合、PTAとの会議、来客来客来客……。一生徒が知ってはいけないようなことまで書いてあるような気がする。とにかく予定がない日がなかった。


 ただ1日を除いては。


 千夜の13回忌。


 頭をかち割られたような衝撃が全身を駆けめぐった。13回忌ということは、千夜ちよという人が亡くなって12年が経過していることになる。


「高砂さんはとっくに亡くなってる……?」


 その時、後方で空気が動く気配がした。振り返れば、今まさに開いたばかりの扉から高砂さんが入ってきた。


 死んでいるはずの高砂さんが元気に手を上げる。


「やっと見つけた。いきなり走り出すからびっくりしましたよ。もしかしたら死んだのではないかと心配――」


 その目が、わたしの持っている手帳に向いた。


「それ、お母さんの手帳ではないですか」


「うん……」


「読みました? 私も読んだことがないので教えてほしいです」


 高砂さんはキラキラ目を輝かせている。本当に読んだことがないんだろうか。それとも、知らないふりをしているだけなのか。


 話すか話すまいか悩んでいる間も、高砂さんはわたしを見つめ続けていた。


「千夜の13回忌ってあったけど、ホントなの……」


 その瞬間、高砂さんの顔にサッと気味の悪いものが走っていった。葬式で、真っ白な服を着てきたヒトを見てしまったときみたいな、場違いな感情。


 それはたぶん、喜びなのかもしれなかった。


 一瞬のことで見間違いだったのかもしれない。その表情は現れたときのようにフッと消えて、そこに現れたのは驚きだった。


「手帳を見せてください」


「うん」


 わたしは確認してもらおうと、手帳を手渡す。


 ぺらりぺらりと紙がめくれていく音だけが狭い研究室にこだまする。想像よりもずっと長い間……。


 待っているから長く感じるんだろうか。そう思って、高砂さんを見れば、手帳の終わりの方までめくり終えていた。13回忌と書かれていたページは最初のカレンダーのところにあったはずなのにどうしてそんなところまで読んでるんだろう。


 不思議に思っていれば、ぱたんと高砂さんが手帳を閉じる。


「……書いていませんが」


「え!?」


 わたしは高砂さんから手帳を受け取り、ページを目で追っていく。日程がおしくらまんじゅうくらい詰め込まれていたカレンダーを見ても、13回忌も千夜の文字もない。


 消された? でもどうやって。高砂さんが読んでいる最中に消したのか。それとも、わたしが手帳を閉じたときに?


 手帳に書かれた青い文字をこすってみる。万年筆で書かれたらしいその文字は、刻み込まれたように滲みすらしない。修正液やテープの跡だってなかった。


 千夜の13回忌、という情報がこの世界からフッとデリートされたみたいだった。


 デリート。


 わたしの妹や七夕しちせきちゃんのように。


 高砂さんが心配そうに見てくる。


「……見間違えだったみたいです」


「そっか。そういうこともたまにはあるよ」


 なぐさめるような言葉がグサグサ突き刺さる。


 でも、確かに見たんだ。あの文字は幻覚でも妄想でもなかった。


 誰かに消された――でも誰に?


 わたしは高砂さんを見る。彼女はいつも通りに微笑んでいる。自分が死んでいると言われても、そんなことは知らないと言っているかのように。


「もしかしたら本当に死んでるのかもね?」


 縁起でもない、とわたしは辛うじて返すことができた。


 もしそうだとしたら、ここにいる高砂さんはいったい誰なんだ。

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