第18話 ユーリの最後の記憶
その夜、ユーリの姿がいつもより薄かった。
星屑ギャラリーの屋上。僕たちは並んで座っていた。眼下に広がる町の明かりが、星のように瞬いている。
「もう、時間がないんだ」
ユーリが静かに言った。風が彼の髪を揺らすけれど、その髪は透けて、向こうの景色が見えた。
「ユーリ……」
「大丈夫。これでいいんだ」
でも、その横顔は寂しそうだった。
「ねえ、かける。僕の本当の記憶、聞いてくれる?」
僕は頷いた。ユーリは遠くを見つめたまま、話し始めた。
「僕には、弟がいたんだ」
★
百年前の、冬。
ユーリは十二歳。弟のレオは八歳だった。
貧しい家庭だった。両親は朝から晩まで働いていて、ユーリがレオの面倒を見ていた。
「お兄ちゃん、お腹すいた」
「もうすぐご飯だよ。もう少し待って」
でも、食べるものはほとんどなかった。
ある日、ユーリは町で不思議な老人に出会った。
「君には、特別な力がある」
老人は言った。
「人の想いを聞く力。物の記憶を読む力」
最初は信じなかった。でも、試しに家にあった古い懐中時計に触れると——
祖父の記憶が流れ込んできた。
驚いたけれど、ユーリは思った。この力があれば、何か仕事ができるかもしれない。お金を稼げるかもしれない。
レオに、お腹いっぱい食べさせてあげられるかもしれない。
「すごいね、お兄ちゃん!」
レオは目を輝かせた。
「魔法使いみたい!」
ユーリは町の人たちの依頼を受けるようになった。失くした物の記憶を読んで探したり、亡くなった人の遺品から最期の想いを聞き取ったり。
少しずつ、お金が入るようになった。
レオは嬉しそうに笑った。温かいスープを飲んで、「おいしい」って。
でも——
力を使うたびに、ユーリの体は透けていった。
最初は指先だけ。次は手のひら。そして腕へと。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
レオが心配そうに尋ねる。
「大丈夫だよ」
ユーリは笑ってみせた。でも、本当はわかっていた。
この力を使うたびに、自分の存在が薄れていくことを。
それでも、やめられなかった。
レオの笑顔が見たかった。
「お腹いっぱい」って言ってほしかった。
幸せにしてあげたかった。
冬が深まったある日。
レオが倒れた。高熱で、意識がもうろうとしている。
医者を呼ぶお金はあった。ユーリが稼いだお金で。
でも、医者は首を振った。
「栄養失調が長く続いた影響です。もう……」
ユーリは泣いた。
こんなに頑張ったのに。
力を使って、存在を削ってまで稼いだのに。
間に合わなかった。
レオは最期に言った。
「お兄ちゃん……ありがとう……」
小さな手が、ユーリの透けかけた手を握った。
「また……会えるよね……?」
「うん。絶対に」
ユーリは嘘をついた。
レオが眠るように息を引き取った時、ユーリの体はもうほとんど透けていた。
でも、消えなかった。
レオとの約束があったから。
「また会える」という嘘を、本当にしたかったから。
★
「それから僕は、ずっとこの博物館にいる」
ユーリが話し終えた。
「展示品たちの声を聞いて、記憶を守って。いつかレオに会えた時、たくさんの物語を聞かせてあげたいから」
僕は言葉が出なかった。
ユーリは、ずっと待っていたんだ。
百年も。
会えるかわからない弟に、物語を届けるために。
「でもね、かける」
ユーリが僕を見た。その瞳は、不思議と穏やかだった。
「君に会えて、よかった」
「え?」
「君は僕と同じ力を持っている。いや、僕以上かもしれない。そして何より、優しい」
ユーリが立ち上がった。夜風が、透けた体を通り抜けていく。
「僕の役目は、もうすぐ終わる。でも、君がいる。展示品たちの声を聞いて、想いを受け止めて、記憶をつないでくれる君が」
「待って、ユーリ」
僕も立ち上がった。
「消えちゃうの?」
「消えるんじゃないよ」
ユーリが微笑んだ。
「やっと、レオに会いに行けるんだ」
そうか。
ユーリはずっと、ここに留まっていた。
弟との約束のために。
展示品たちを守るために。
でも、もう——
「君なら、大丈夫」
ユーリが僕の肩に手を置いた。もう、ほとんど感触がない。
「展示品たちを、よろしく。そして……」
「そして?」
「キオのことも、よろしく」
意外な言葉だった。
「キオは、僕の力を継いだもう一人の子。でも、使い方を間違えた。いや、間違えざるを得なかった」
ユーリの姿が、さらに薄くなる。
「彼にも、大切な人がいた。でも、語ることで失った。だから彼は、語ることを否定する。でも本当は——」
風が強くなった。
ユーリの姿が、光の粒子になって散り始める。
「本当は?」
「誰よりも、語りたがっている」
最後の言葉と共に、ユーリは光になった。
無数の光の粒が、夜空に舞い上がる。まるで、星になるみたいに。
「ユーリ!」
僕は手を伸ばした。でも、つかめない。
光の粒子が集まって、一瞬だけ文字を作った。
『ありがとう』
そして、消えた。
屋上に、僕一人が残された。
でも——
『大丈夫だよ、かける』
どこからか、ユーリの声が聞こえた気がした。
『君なら、きっと——』
涙が止まらなかった。
悲しいけれど、不思議と温かい涙だった。
ユーリは、やっと弟に会えるんだ。
百年分の物語を抱えて。
僕は空を見上げた。
星が、いつもより明るく輝いている気がした。
その中の一つが、ユーリなのかもしれない。
レオと一緒に、物語を語り合っているのかもしれない。
階段を降りると、展示品たちが静かに待っていた。
みんな、知っていたんだ。
ユーリが消えることを。
『寂しい?』
土器が優しく尋ねた。
「うん。でも……」
僕は涙を拭いた。
「ユーリは、幸せだと思う」
展示品たちが、静かに頷いた。
そして僕は、決意した。
ユーリから受け継いだもの。
展示品たちの声を聞き続けること。
想いを、記憶を、物語を、守り続けること。
たとえ、どんな代償があっても。
窓の外で、流れ星が一つ、流れた。
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