第17話 名もなき石



 声が戻った朝、僕は真っ先に「ありがとう」と言った。


 母さんは驚いた顔をして、それから泣きそうな顔で僕を抱きしめた。たった一日声が出なかっただけなのに、こんなにも言葉が愛おしく感じる。


 その夜、星屑ギャラリーに着くと、ユーリが地下への階段の前に立っていた。


「今日は、特別な展示品に会ってもらう」


 地下収蔵庫。普段は入れない場所だ。階段を下りていくと、ひんやりとした空気が肌を包んだ。


 薄暗い通路の奥に、小さな部屋があった。


 そこには、ただ一つ。


 手のひらサイズの、ごつごつした石が置かれていた。


「これは……ただの石?」


「ただの石じゃないよ」


 ユーリが静かに言った。


「これは、世界で最初に『想い』が込められた石なんだ」


 僕は石に近づいた。見た目は本当に普通の石だ。川原に転がっているような、何の変哲もない石。


 でも——


『…………』


 かすかに、本当にかすかに、何かが聞こえる。いや、聞こえるというより、感じる。


「この石はね、名前がないんだ」


 ユーリが説明した。


「誰が、いつ、どこで拾ったのかもわからない。ただ、ここにある」


 僕は石の前に座り込んだ。目を閉じて、耳を澄ます。心を開いて、石の声を待った。


 長い、長い沈黙。


 そして——


『…………あ…………』


 声とも呼べない、かすかな震え。でも確かに、そこには何かがあった。


『…………た…………』


 断片的な音。言葉になる前の、想いの欠片。


「聞こえる?」


 ユーリが囁いた。僕は頷いた。


『…………たい…………』


 少しずつ、音が形を成していく。でも、まだ言葉にはならない。


「この石はね、言葉を知らないんだ」


 ユーリが続けた。


「言葉が生まれる前の、想いだけが込められている」


 僕は石に手を伸ばした。触れた瞬間——


 景色が、変わった。


   ★


 荒野が広がっていた。


 まだ名前のない大地。言葉のない世界。


 一人の人間が、石を拾い上げる。その人の顔は見えない。でも、震える手が、石を強く握りしめているのがわかる。


 大切な誰かを、失ったのだろうか。


 その人は石を胸に抱いて、空を見上げた。言葉はない。ただ、想いだけがあった。


 ——大切

 ——会いたい

 ——ごめん

 ——ありがとう

 ——愛してる


 全部が混ざった、名前のない感情。それが石に、染み込んでいく。


 世界で最初の、想いの記憶。


   ★


 気がつくと、僕は収蔵庫の床に座り込んでいた。頬が濡れている。


「見えた?」


 ユーリが優しく尋ねた。


「うん……でも、よくわからない。あの人は、何を伝えたかったの?」


「わからなくていいんだよ」


 ユーリが微笑んだ。


「言葉になる前の想いは、一つの意味には収まらない。『愛してる』かもしれないし、『ごめん』かもしれない。全部かもしれないし、そのどれでもないかもしれない」


 石は静かに、そこにあった。


『…………たい…………』


 まだ、かすかな震えを続けている。


「この石を見ると、思うんだ」


 ユーリが石を見つめた。


「語るって、何だろうって。言葉って、何だろうって」


 確かに、そうだ。


 この石には言葉がない。でも、想いは確かにある。何万年も前の、名もなき誰かの想いが。


「展示品たちは、言葉で語る。記憶を、物語を、願いを。でも本当に大切なのは、言葉じゃないのかもしれない」


 ユーリの姿が、少し透けて見えた。


「ユーリ?」


「大丈夫。まだ、消えないよ」


 でも、その笑顔は少し寂しそうだった。


 僕たちは階段を上った。収蔵庫を出ると、展示品たちが心配そうに待っていた。


『どうだった?』

『名もなき石に、会えた?』


 土器が尋ねる。


「うん。でも、言葉は聞こえなかった。ただ……想いだけが」


『それでいいんだよ』


 懐中時計が優しく言った。


『あの石は、私たちの始まりみたいなもの。想いを込めること、それを誰かに伝えたいと願うこと。全ての始まり』


 魔法書がページをめくった。


『言葉は後から生まれた。でも、想いはずっと前からあった』


 そうか。


 だから展示品たちは語るんだ。込められた想いを、言葉にして。記憶を、物語にして。


 でも、キオは——


「キオも、本当はわかってるんだよ」


 ユーリが言った。


「語ることの大切さも、語らないことの優しさも。両方」


 オルゴールが静かに鳴り始めた。言葉のない音楽。でも、そこには確かに想いがある。


「ねえ、かける」


 ユーリが振り返った。


「もうすぐ、選ばなきゃいけない時が来る」


「選ぶ?」


「うん。語り続けることと、語らないこと。どちらも間違いじゃない。でも、君は選ばなきゃいけない」


 急に、不安になった。


「僕は……みんなの声を聞き続けたい」


「知ってる」


 ユーリの笑顔が、月光の中で揺れた。


「でもね、聞き続けることには、代償があるんだ」


 代償。


 その言葉が、胸に刺さった。


 帰り道、僕は名もなき石のことを考えていた。


 言葉になる前の想い。

 名前のない感情。

 最初の「伝えたい」という願い。


 家に着くと、母さんがリビングで本を読んでいた。僕は母さんの隣に座った。


「母さん」


「なあに?」


 母さんが本から顔を上げる。


「愛してるって、言葉がなかった時代、人はどうやって伝えたのかな」


 母さんは少し考えて、それから僕の手を握った。


「きっと、こうやって」


 温かい手。優しい力。


 ああ、そうか。


 石を握りしめた、あの人も。

 きっと、誰かの手を握りたかったんだ。


 でも、もう握れなくなってしまった。

 だから、石に想いを込めた。


 いつか、誰かに伝わることを願って。


 そして何万年後、僕に伝わった。


 名もなき石の、名もなき想いが。

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