第11話 ユーリの秘密ノート
「かける君、今夜はここに来て」
ユーリが三階の隠し扉を開けた瞬間、僕の心臓がドクンと鳴った。これまで何度も通った星屑ギャラリーの最上階に、まだ知らない部屋があったなんて。
狭い階段を上がると、そこは屋根裏のような小さな部屋だった。壁一面に古いノートがびっしりと並んでいる。月明かりが小窓から差し込んで、まるで秘密基地みたいだ。
「ここは、僕だけの場所なんだ」
ユーリが振り返る。いつもの優しい笑顔が、今夜はどこか寂しそうに見えた。
「君に話しておかなきゃいけないことがある」
僕は息を呑んだ。ユーリの表情が、これまで見たことのないほど真剣だったから。
彼が手に取ったノートは、表紙がボロボロで、ページの端が黄ばんでいた。開くと、びっしりと文字が書き込まれている。日付を見ると、五十年以上も前のものだった。
「これは、歴代の『聞き手』たちの記録だよ」
「聞き手?」
「君みたいに、展示品の声を聞ける人たちのこと。この博物館には、昔から何人もいたんだ」
ページをめくるユーリの手が、かすかに震えているのに気づいた。そこには、いろんな人の名前と、彼らが聞いた展示品の語りが記録されていた。
でも、読み進めるうちに、僕は奇妙なことに気づいた。
「ねえ、ユーリ。この人たちの記録、だんだん文字が薄くなってる」
「そう。それが今夜、君に伝えたかったことなんだ」
ユーリは深く息を吸い込んだ。
「展示品の語りを聞くたびに、聞き手は少しずつ自分の記憶を失っていく」
え?
頭の中が真っ白になった。記憶を、失う?
「どういうこと?」
「展示品たちの記憶は、とても強い想いでできている。それを受け止めるために、聞き手は自分の記憶の一部を差し出すんだ。等価交換みたいなものかな」
僕は自分の手を見つめた。この手で、いくつもの展示品に触れてきた。土器の涙を感じ、恐竜と一緒に走り、懐中時計の想いを届けた。
そのたびに、僕の記憶が……?
「でも、僕、何も忘れてないよ」
「最初はね。でも、少しずつ進行する。最初は小さなこと。昨日の夕飯とか、友達との約束とか。でも、やがて……」
ユーリがページをめくる。そこには、ある聞き手の最後の記録があった。
『私は誰? ここはどこ? でも、展示品たちの声は聞こえる。それだけは忘れない』
背筋がゾクッとした。
「その人は、どうなったの?」
「記憶を全て失って、博物館を去った。自分の名前も、家族も、何もかも忘れて」
部屋の空気が重くなった。窓の外で風が吹いて、木の葉がカサカサと音を立てる。
「じゃあ、僕も……」
「かける君」
ユーリが僕の肩に手を置いた。その手は、思ったより冷たかった。
「君には選択肢がある。今ならまだ間に合う。展示品の声を聞くのをやめれば、これ以上記憶を失うことはない」
でも、それって……。
僕は階下を見下ろした。そこには、たくさんの展示品たちがいる。みんな、誰かに自分の想いを聞いてもらいたがっている。語りたがっている。
魔法書はまだ語れないままだし、カラクリ人形の弁丸は新しい笑い話を聞かせたがっているし、望遠鏡は今夜の星空について話したがっているはずだ。
「僕が聞かなかったら、展示品たちは?」
「ずっと、語れないまま」
ユーリの声が震えた。
「実は、僕も聞き手なんだ。もう六十年以上も」
え? 六十年?
「でも、ユーリは二十歳くらいにしか見えない」
「そう見えるでしょ? でも、僕はもうたくさんの記憶を失った。家族の顔も、故郷の景色も、自分の本当の名前さえも」
月明かりに照らされたユーリの横顔が、急に年老いて見えた。
「覚えているのは、弟がいたことだけ。でも、顔も名前も思い出せない。ただ、とても大切な存在だったことだけは分かる」
胸が締め付けられた。ユーリは、そんな犠牲を払ってまで、展示品たちの声を聞き続けてきたんだ。
「どうして続けるの?」
「誰かが聞かなければ、彼らの想いは永遠に閉じ込められたままだから」
ユーリは窓の外を見つめた。
「それに、不思議なことに、自分の記憶を失っても、展示品たちの記憶は鮮明に覚えているんだ。まるで、僕の失った記憶の代わりに、彼らの記憶が僕の一部になっていくみたい」
僕は考え込んだ。記憶を失うのは怖い。でも……。
「ねえ、ユーリ」
「なに?」
「展示品たちの記憶って、悲しいものばかりじゃないよね」
ユーリが振り返った。
「土器は確かに涙を流してたけど、最後は安心したような顔してた。恐竜は思いっきり走れて嬉しそうだった。懐中時計も、想いを届けられて満足そうだった」
「そうだね」
「だったら、それって素敵なことじゃない? 僕の記憶と引き換えに、彼らが救われるなら」
ユーリの目が大きく見開かれた。
「かける君……」
「でも、一つだけ約束して」
僕は真っ直ぐユーリを見つめた。
「僕が自分を忘れそうになったら、教えて。僕が誰で、どうしてここにいるのか。母さんのことも」
ユーリがゆっくりと頷いた。その目に、涙が光っているような気がした。
「約束する。君が君でいられるように、僕が覚えている限り」
僕たちは握手を交わした。ユーリの手は、さっきより温かくなっていた。
「あ、そうだ」
ユーリが思い出したように言った。
「記憶を失う速度は、人によって違うんだ。強い意志を持つ人ほど、ゆっくりになる」
「強い意志?」
「誰かのために聞く人は、自分のために聞く人より、ずっと長く記憶を保てる」
僕は母さんのことを思い出した。声を失った母さん。でも、手話で僕に愛情を伝えてくれる母さん。
もしかしたら、展示品たちの声を聞くことで、僕は母さんの気持ちをもっと理解できるようになるかもしれない。声がなくても伝わる想いがあることを、もっと深く知れるかもしれない。
「僕、続ける」
迷いはなかった。
「でも、無理はしないよ。展示品たちも、僕が全部忘れちゃったら悲しむと思うから」
ユーリが微笑んだ。今度は、本当に嬉しそうな笑顔だった。
「君は、歴代の聞き手の中でも特別かもしれない」
「どうして?」
「みんな、最初は怖がるんだ。でも君は、展示品たちのことを一番に考えた」
階下から、かすかに展示品たちの気配が伝わってきた。まるで、僕たちの会話を聞いているみたいに。
「さあ、今夜も彼らが待ってる」
ユーリが階段に向かう。僕も後に続いた。
でも、階段を降りる前に、もう一度部屋を振り返った。壁一面のノート。歴代の聞き手たちの記録。いつか、僕の記録もここに加わるのかな。
その時、小窓から差し込む月光が、一冊のノートを照らし出した。表紙に書かれた名前が、かすかに読めた。
『ユーリ』
でも、苗字の部分は完全に消えていた。
ユーリは、自分の本当の名前さえ忘れてしまったんだ。
胸が痛んだ。でも同時に、決意も固まった。
僕は、最後まで僕でいよう。母さんのことを忘れないように。そして、展示品たちの想いを、一つでも多く解放してあげよう。
階段を降りると、第一展示室から声が聞こえてきた。
『やっと戻ってきたね、かける』
魔法書だ。今夜も、まだ語れないでいる。
「うん、戻ってきたよ」
僕は優しく答えた。
「君の記憶の欠片、もっと探すから。きっと語れるようにしてあげる」
『ありがとう。でも、無理しないで』
魔法書も、僕の決意を感じ取ったみたいだった。
ユーリが僕の隣に立った。
「準備はいい?」
「うん」
僕たちは、夜の博物館の探索を始めた。今夜は、どんな語りが聞けるだろう。どんな想いが解放されるだろう。
そして、僕は今夜、どれだけの記憶を差し出すことになるだろう。
でも、怖くはなかった。
だって、失うものより、得るものの方がずっと大きいと信じているから。
展示品たちの想いを受け止めることで、僕はもっと優しくなれる。もっと強くなれる。そして、いつか母さんに、本当の意味で寄り添えるようになれる。
そう信じて、僕は一歩を踏み出した。
月明かりが、僕たちの影を長く伸ばしていた。
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