第10話 博物館から消えた絵画



朝の星屑ギャラリーが大騒ぎになっていた。


「『月下の少女』が消えた!」


警備員の叫び声が響き渡る。職員たちが慌ただしく走り回り、警察への連絡、防犯カメラの確認と、館内は混乱の極みだった。


かけるは、人混みをかき分けて第5展示室へ急いだ。


確かに、壁にはぽっかりと四角い空白があった。19世紀の画家エミール・ローランの最高傑作『月下の少女』が、額縁ごと消失している。


「君!」


館長がかけるを見つけて駆け寄ってきた。


「君、最近よく来てるね。昨夜、何か見なかったか?」


かけるは首を振った。でも、心当たりはあった。


昨夜、寝る前に聞こえた声。


『いやだ! もう見られたくない! 消えたい、消えてしまいたい!』


絵画の、悲痛な叫び。


でも、駆けつけたときには、すでに遅かった。壁には、淡く光る四角い跡だけが残されていた。


「盗難かもしれない。警察が来るまで、現場保存だ」


館長は言ったが、かけるには分かっていた。


これは盗難じゃない。


絵画が、自分の意思で消えたのだ。


キオに語りを奪われる前に、最後の力を振り絞って。


午後になって、かけるは街へ出た。


絵画を探して。


公園、図書館、商店街、駅前広場。どこを探しても、絵画の気配はない。


日が傾きかけた頃、ふと思いついて河川敷へ向かった。


誰にも見られたくないなら、人気のない場所へ——


いた。


橋の下の暗がりに、『月下の少女』が立てかけられていた。額縁から抜け出した絵画が、まるで巨大なポスターのように、コンクリートの壁に寄りかかっている。


月光に照らされた少女が、本を読んでいる幻想的な絵。でも、よく見ると少女の頬には涙の跡があった。


『来ないで』


絵画の声は、拒絶に満ちていた。


『お願い、ほっといて。もう誰にも見られたくないの』


「でも、みんな心配してる」


『心配? 違うでしょう。高価な美術品が消えて困ってるだけ』


苦い声だった。


かけるは、ゆっくりと近づいた。


「なんで逃げたの?」


『逃げたくもなるわ』


絵画の声が震えた。


『みんな、勝手なことばかり言う。「美しい」「幻想的」「ローランの最高傑作」……でも、誰も真実を知らない』


「真実?」


長い沈黙の後、絵画が口を開いた。


『この少女は、エミールの娘。ソフィーという名前』


月下で本を読む少女。確かに、画家の愛情が感じられる構図だった。


『でも……ソフィーは、この絵が完成する前に亡くなった。結核で』


かけるの心臓が、どくんと跳ねた。


『最期の数ヶ月、ソフィーは苦しんでいた。血を吐いて、痩せ細って、本を読む力もなかった』


絵画の声に、怒りがにじむ。


『それなのに、エミールは何をした? 現実から目を背けて、健康だった頃の娘を描いた。まるで病気なんてなかったみたいに』


「でも——」


『これは嘘よ! 偽りの肖像! 本当のソフィーの苦しみを隠蔽した、父親の現実逃避!』


絵画が震えた。文字通り、キャンバスが波打つ。


『それなのに、人々は褒め称える。「なんて幸せそうな少女」「平和な光景」って。違う! これは死にゆく少女を美化した、残酷な嘘!』


かけるは、絵画をじっと見つめた。


確かに、少女は美しい。でも——


「ねえ、よく見てみて」


「何を?」


「少女の頬に、涙の跡がある」


絵画が、はっとした。


確かに、月光に照らされた頬に、かすかな涙の跡があった。注意深く見なければ気づかないほど、繊細に描かれている。


「それに、本のページ」


かけるは指差した。


「めくられてない。同じページをずっと見てる。読んでるんじゃなくて、ただ持ってるだけ」


『それは……』


「お父さんは、嘘を描いたんじゃない。願いを描いたんだ」


かけるは、絵画に近づいた。


「もし病気じゃなかったら、ソフィーちゃんはこうして本を読んでいただろう。でも、現実の悲しみも忘れてない。だから涙の跡を描いた」


絵画は、沈黙した。


「これは、嘘じゃない。愛なんだ。現実を知った上で、それでも娘に美しくあってほしいという、お父さんの愛」


夕日が、河川敷を照らした。


オレンジ色の光の中で、『月下の少女』が違って見えた。ただの美しい絵じゃない。深い悲しみと、それを超えた愛が込められた作品。


でも——


「素晴らしい解釈だね」


冷たい声が響いた。


キオだ。


橋の上から、見下ろしていた。


「でも、それがどうした? 結局、この絵は人々に消費される。真実も知らないまま、美しいものとして」


キオが飛び降りた。着地と同時に、鍵を取り出す。


「この絵画も、語りを奪ってあげよう。そうすれば、もう苦しまなくて済む」


「待って!」


でも、キオは容赦なく鍵を向けた。


絵画から、光が吸い上げられていく。


『いや……でも……いいのかも……』


絵画の声が、諦めに満ちていた。


『もう……疲れた……見られることに……誤解されることに……』


「違う!」


かけるは、絵画とキオの間に割って入った。


「この絵は、誤解なんかされてない! ちゃんと見れば、真実も愛も、全部描かれてる!」


「邪魔だ」


キオが、かけるを押しのけようとした。


そのとき——


絵画が、激しく震えた。


『待って……!』


光の吸収が、止まった。


『わたし……わたし、もう一度考えたい……』


「何を今さら」


キオが苛立った。


『この少年の言葉で……気づいたの……エミールは……本当のソフィーも描いていた……』


絵画の中の少女が、まるで生きているように見えた。


涙の跡を持ちながら、それでも本を手にする少女。病に侵されても、最後まで本を愛したソフィーの真実。


『わたし……博物館に戻りたい……』


「は?」


キオが、初めて動揺した。


『でも、条件がある』


絵画の声に、新しい決意がこもった。


『説明プレートを変えてほしい。真実も含めて。そうしたら、人々は本当の意味でこの絵を理解してくれる』


かけるは大きく頷いた。


「館長に話す! 絶対に!」


キオは、鍵を下ろした。


「……勝手にしろ」


吐き捨てるように言って、姿を消した。


その夜、不思議なことが起きた。


朝になると、『月下の少女』は元の場所に戻っていた。まるで最初から、どこにも行っていなかったかのように。


館長は首をひねったが、絵画が無事なことに安堵した。


そして、かけるの提案を聞いて、新しい説明プレートを作ることにした。


「画家エミール・ローランが、病で失った愛娘ソフィーを偲んで描いた作品。月下で本を読む姿は、画家が願った娘の理想の姿。しかし少女の頬の涙跡に、現実の悲しみも刻まれている。愛と悲しみが共存する、複雑な父性の表現」


来館者たちは、前より長く絵の前に立ち止まるようになった。


多くの人が、涙ぐんだ。


美しいだけじゃない。深い感情を呼び起こす、本物の芸術作品として。


夜、絵画がかけるに話しかけた。


『ありがとう……真実を見つけてくれて……』


「ううん。最初からそこにあったんだよ」


『それでも……君がいなければ……わたしは逃げ続けていた……』


絵画の声が、穏やかになった。


『これからは……堂々と見られる……ソフィーは……愛されていた……それが一番大切……』


月下の少女は、今夜も静かに本を読んでいる。


涙の跡を残したまま、それでも美しく。


真実と愛が共存する、永遠の肖像画として。

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