第50話 小川笙船を呼べ
忠相から、母子の無事を知らせる報告が届いた。
吉宗はほっと胸を撫で下ろす。
「よかった……。これで、ひとまずは……」
だが、すぐに表情を引き締めた。
「……でも、これで終わりじゃない。あの子のような訴えは、きっと他にもある」
手元の訴状を見下ろしながら、静かに言葉を続けた。
「誰もが訴えを書けるわけじゃない。文字を書けない者も、目安箱の存在すら知らぬ者もいる。……こっちから探すこともできやしない」
しばし沈黙のあと、ふっと息を吐く。
「それなら――いっそ、幕府が施療の場を作ればいい。誰でも来られて、診てもらえる場所を」
そう、幕府直営の病院を――。
だが。
「……病院って、どうやって作るのかしら?」
自問して、しばし沈黙。
「土地?建物?人手?予算? あーもう、何が必要なのかすらわからないわ……」
ぐるぐると思考を巡らせたあと、ぽんと手を打った。
「わからないなら、わかる人に聞けばいいのよ。餅は餅屋って言うじゃない!」
キリッと顔を上げる。
「病院のことは医者に聞くのが一番。……たしか、あの子を診てくれたのは――小川……小川なんちゃらって人だったわね。そうよ、その人に話を聞きに行こう!」
こうして、将軍は再び町へと向かうのだった。
*
奉行所の奥、静かな一室にて。
「忠相、このあいだの母子の件、無事だったそうだな」
「は。上様のご決断あってのことにございます」
「だが、あの子のような訴えは、ほんの一例にすぎぬ。困っていても声を上げられぬ者もおろう。ならば――いっそ、幕府で診る場所を作るべきだ」
忠相がわずかに目を見開く。
「御施療所のようなものを、お考えで?」
「うむ。だが、医のことは門外漢。わからぬことばかりじゃ。……まずは、町の実情を見てみたい」
吉宗はまっすぐ忠相を見据えた。
「先日の母親を診た医者――たしか、小川とか申したな? その者のもとへ案内せよ」
「……上様が、直に、でございますか?」
「うむ。餅は餅屋じゃろう。病のことは医者に聞くのが早い。案ずるな、いつものように目立たぬ格好で出る」
そう言って着物の裾を整えると、忠相が制した。
「それでは、小川笙船をこちらへお呼びしましょう。奉行所であれば、静かな場も用意できます」
だが、吉宗は軽く首を振った。
「いや、わしが行く。それでよい」
「しかし、上様。小川の施療所は病人で溢れております。万が一、病など……」
「それでもいけません! 上様が、病の場に足を運ばれるなど……!」
吉宗は少し面倒そうに手を振った。
「誰か、誰かおらぬか」
「はっ、お奉行様!」
呼ばれて駆け寄った奉行所の役人に、忠相が言いつける。
「小川笙船に、上様がお召しであると伝えてまいれ」
「かしこまりました!」
*
しばしののち、使いに出た役人が戻る。
「申し訳ございません、小川笙船殿より、『施療が立て込んでおり、どうしても出向く余裕がございません』との返答にございます」
吉宗は口元に笑みを浮かべた。
「ならば決まりじゃ。――わしが行こう」
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