第39話 上様、ただ今牢番中。〜将軍のお忍びアルバイト〜
この日、吉宗はお忍びで城下町に出ていた。
目的はもちろん――アルバイトをすることである。
天下の将軍、まさかの副業。
……しかしこの先、想定外の“勤め”が待ち受けていようとは、
この時の吉宗はまだ知らない――。
*
「あなたができそうな仕事は……そうですね、今は町役人の手伝いくらいしかありませんね」
「町役人……」
(うーん、大丈夫かしら。でも仕方ないわね、ほかに選べる余地はなさそうだし)
「それを受けさせてくれ」
「はい、それじゃあ、南のお奉行所に行ってください。そちらで指示があるはずです」
(……南町奉行所、ね)
(なんだか……嫌な予感がするわね)
*
「ごめん、口入れ屋から参りました。吉川 徳宗と申します」
「ああ、はいはい。聞いてるよ」
(妙に馴れ馴れしい……いや、今の私は日雇い。立場が違うのよ)
「とりあえず今日は、牢の見張りを頼む。静かなもんだから、座ってるだけでいいさ」
「はい、分かりました」
(……ほんとに、静かなままで終わるのかしら?)
*
牢の中は、湿り気を帯びた空気と、人いきれのこもるにおいに包まれていた。
窓らしい窓もなく、光は天井近くの小さな明かり取りからぼんやりと射すだけ。
床には藁が敷かれているが、すでに踏み固められていて、どこかしらじっとりと湿っている。
格子の奥から、かすれた声が聞こえた。
「……そこの人足さんよ。あんた、どこかの浪人かい?」
吉宗――いや、“吉川徳宗”は、話しかけてきた囚人に目を向けた。
「あぁ、口入れ屋から参ったのだ。牢の見張りは今日が初めてだよ」
「へぇ、そうか」
吉宗は格子に近づき、静かに問いかけた。
「そなたは、なぜここに?」
囚人はしばらく黙っていたが、やがて肩をすくめるようにして答えた。
「……暮らしに困ってさ。店の金に、つい……手を出しちまったんだよ。子どもに飯を食わせたかっただけなんだがな」
吉宗の目がわずかに細められた。
「それでも、法は法……か」
「そうさ。どんなに腹が減ってようと、盗めば罪。わかっちゃいるが、腹が減っちゃ、正義もなんもあったもんじゃねぇ」
囚人の言葉に、吉宗はしばし無言で立ち尽くした。
(民の苦しみは、こうして闇に沈んでいる……)
そのとき、後ろから声がかかった。
「おい、そこの牢番! そいつを白州まで連れてこい。これから取り調べだ」
吉宗はびくりと肩を震わせた。
*
取り調べの場、白州には緊張感が漂っていた。
板張りの床に正座させられた囚人の前に、裁きを下す奉行が座る。
その背後には、手控えを取る町役人と、罪人を見張る牢番――つまり吉宗が控えていた。
(出た……やっぱり忠相じゃない)
吉宗は顔を上げぬよう、うつむき加減にしていたが、その声の響きだけで確信していた。
忠相は、帳簿をぱらりとめくり、静かに口を開いた。
「おぬし、○月○日、店の帳場に手を入れ、五両を懐に収めたとのこと。間違いはないか」
「……へい。間違いありやせん」
「なぜ、そんなことをした」
「暮らしが、どうにも……。子どもも女房も腹をすかせて……つい、魔が差したんで……」
忠相はしばし目を閉じた。
やがて、ゆっくりと目を開け、まっすぐに男を見据える。
「苦しみはわかる。だが、盗みは盗み。許されることではない」
囚人はがくりと頭を垂れた。
「……お奉行様のおっしゃる通りでございます」
「初犯であること、金額が少額であったこと、そして自首に近い形で捕まったことを鑑み、軽い処置にとどめる」
その言葉に、囚人の肩が小さく震えた。
「……ありがとうございます……」
忠相は続けて、背後の吉宗を一瞥した。
「そこの牢番、そやつを牢へ戻しておけ」
「はっ……」
囚人を連れ出そうとしたところで、忠相がふと振り返った。
「ところで、そこの牢番――少し顔を見せてみよ」
吉宗の背筋に冷たいものが走る。
「……え?」
忠相は一歩、近づいてきた。
「やはり……上様、でございますね」
吉宗は慌てて顔をそむけた。
「お、お奉行所様、人違いでございます。私は吉川徳宗、ただの浪人でございます……!」
「はー、まさか私が見間違えるとでも?」
忠相はこめかみを押さえて深く息をつくと、やや低めの声で言った。
「……まったく、また妙な真似を……」
彼はすっと背を向け、囚人の方を顎でしゃくった。
「そやつは、別の者に牢へ戻させよ。――そこの役人、頼む」
「はっ」
町役人が囚人を連れて退出していく。
忠相はしばし無言のまま、吉宗をじっと見つめたあと、静かに口を開いた。
「上様、こちらへ。人目のないところでお話を伺います」
「……はぁ」
吉宗は覚悟を決めて立ち上がると、忠相の後に続いて奉行所の奥――人払いされた一室へと向かった。
障子を閉めたその部屋には、先ほどの喧騒とは打って変わって静寂が漂っていた。
忠相は背筋を正して正座すると、じとっとした視線を吉宗に向ける。
「……さて。どういうご事情で“牢番”などなさっておられたのか、詳しくお聞かせ願いましょうか」
「えっと……その……ですね、団子が買えなかったのが発端で……」
吉宗が口ごもるのを見て、忠相のため息が一層深くなった。
「お戯れはこの辺りにしていただきましょうか。さ、お城にお戻りを」
「そ、それはダメだ!」
「は?」
「まだ……給金をもらっておらぬのだ!!」
「給金……?」
「お忍びの際のお小遣いが、まるでないではないか!」
忠相はしばし沈黙し――やがて、肩を落としてぽつり。
「……それは勘定奉行に願い出てください」
「お忍びで使う小遣いくれなどと言えるか。一瞬で却下されるのがオチではないか!」
吉宗がぷいと顔を背けると、忠相は疲れたように額を押さえた。
「……上様。お願いですから、牢番だけはもうおやめくださいませ」
「むぅ、では他の仕事はないのか。他の……」
「ありません」
即答され、吉宗はしょんぼりとうなだれた。
――こうして、“将軍のアルバイト生活”は、わずか一日で終了したのだった。
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