第29話 八代将軍徳川吉宗

享保元年六月。

七代将軍・徳川家継公が崩御された。享年わずか八歳――。


「殿、支度は整っております」


「うむ、すぐに出立しよう」


江戸に向かう駕籠の中、吉宗はぽつりと呟いた。


「八歳か……早すぎるのう。そう思わんか、久通」


「本当に。家継公の治世は、まさにこれからという時でした」


「それに月光院様のお心を思うと……胸が痛むのう」


しんと沈む空気の中、ふと吉宗は口を開いた。


「ところで、次の将軍は……尾張殿かのう?」


――私のところには、何も言ってきてないし。

もしかして、どこかで歴史、変わっちゃったのかしら。


「まあ、紀州藩主として、しっかりお支えせねばな」


そんな言葉で自分を納得させつつ、江戸へと向かった。



葬儀当日。


「紀州公・徳川吉宗様、ご到着でございます!」


案内された吉宗は、一歩ごとに深まる違和感を覚えながら、広間へと進んだ。


「吉宗様、ささ、こちらへ」


通されたのは――上座。


「……え?」


目を瞬く。何かの間違いではないか。


「私がここに座るのは、どうにも……御三家筆頭の尾張殿が座るべきであろう?」


「いやいや、そこは紀州殿の席で間違いない。のう、水戸殿?」


「そうでござる。ささっと座りなさい」


――え、いや、ちょっと待って。

ここ、どう考えても尾張殿の席でしょ?何これ、なにが起きてるの……?


戸惑いながらも、勧められるままに腰を下ろす吉宗。

周囲の空気は、すでに何かを決めた者たちのそれで――


その意味を、吉宗だけがまだ知らなかった。


葬儀の場に流れる、静かで重たい空気の中で、

ひとり、未来の将軍はそっと息を呑んだ。


(もしかして……本当に……私なの?)



その夜、紀州藩江戸上屋敷は、ふだんとは違う緊張に包まれていた。

日もすっかり暮れた頃、玄関に一台の駕籠が静かに入ってくる。


「殿、幕府より使者がまいりました」


「こんな時間に……? ただごとではなさそうじゃな」


やがて、裃を着た使者が部屋に通される。吉宗は正座し、使者の口を待った。


「夜分に、突然の非礼をお詫び申し上げます。

 しかしながら、どうしても本日中にお伝えせねばならぬことがございます」


使者は深く頭を下げ、そして重々しく顔を上げた。


「紀州藩主、徳川吉宗殿。

 御公儀より、貴殿に――

 第八代 征夷大将軍にお就きいただきたい、とのお達しにございます」


その言葉を聞いた瞬間、吉宗は息を呑んだ。


(来た……ついに来たのね……)


部屋の空気が凍りついたように静まり返る。


やがて吉宗は、一拍おいて、ゆっくりと口を開いた。


「……ありがたき幸せにございます。

 御一門の者として、その務め――お引き受け仕りまする」


使者は、深々と頭を下げた。


「ご快諾、誠にありがとうございます。

 明日早朝、朝廷へと奏上いたします。勅許が下り次第、改めてご連絡申し上げます」



翌朝、江戸城。


黒書院にて、吉宗は将軍としての装束を身にまとっていた。


それは、絢爛な束帯。


漆黒の袍に金糸の文様、頭には冠を頂き、手には笏を持つ。


そして、吉宗は静かに白書院へと歩を進め、そこで御三家や諸大名の祝賀を受けた。

まずは御三家筆頭・尾張藩主、徳川継友が一歩前へと進み出る。


「このたびは御台命を仰がれ、まことにおめでたきことにございます。

将軍家の御繁栄、ならびに天下泰平のため、尾張家一同、微力ながら尽力いたす所存にございまする」


続いて、水戸藩主、徳川綱條が進み出て、厳かに頭を下げる。


「八代将軍ご就任、まことに慶賀に堪えませぬ。

徳川の名を戴くものとして、全力をもってお支え申し上げまする」


そして、最後に紀州藩から、吉宗を長らく補佐してきた家老・加納久通が前に出て、深々と頭を下げた。


「殿の御登極、紀州家中一同、これほどの喜びはござりませぬ。

今後は将軍家の一角として、これまで以上に忠節を尽くす所存にございます」


そう述べた久通が一歩下がったところで、吉宗は静かに大広間へと足を踏み入れた。


厳かな空気が広がる中、その姿に重臣たちが一斉に頭を垂れる。


すでに勅使は下座に控えており、厳かな空気が漂っている。


吉宗は一礼すると、静かに上座へと進み、正座した。

やがて勅使が口を開き、天皇からの宣旨が読み上げられる――。


「右、天皇の仰せにより、徳川吉宗をして正二位・内大臣・征夷大将軍と為す。

国家の柱たるべく、天下の政を預かり、万民を安んじることを命ず――」


吉宗は深く拝礼し、静かに顔を上げた。

徳川の命運を背負う者として――八代将軍・徳川吉宗が、いまここに誕生した。

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