第29話 八代将軍徳川吉宗
享保元年六月。
七代将軍・徳川家継公が崩御された。享年わずか八歳――。
「殿、支度は整っております」
「うむ、すぐに出立しよう」
江戸に向かう駕籠の中、吉宗はぽつりと呟いた。
「八歳か……早すぎるのう。そう思わんか、久通」
「本当に。家継公の治世は、まさにこれからという時でした」
「それに月光院様のお心を思うと……胸が痛むのう」
しんと沈む空気の中、ふと吉宗は口を開いた。
「ところで、次の将軍は……尾張殿かのう?」
――私のところには、何も言ってきてないし。
もしかして、どこかで歴史、変わっちゃったのかしら。
「まあ、紀州藩主として、しっかりお支えせねばな」
そんな言葉で自分を納得させつつ、江戸へと向かった。
*
葬儀当日。
「紀州公・徳川吉宗様、ご到着でございます!」
案内された吉宗は、一歩ごとに深まる違和感を覚えながら、広間へと進んだ。
「吉宗様、ささ、こちらへ」
通されたのは――上座。
「……え?」
目を瞬く。何かの間違いではないか。
「私がここに座るのは、どうにも……御三家筆頭の尾張殿が座るべきであろう?」
「いやいや、そこは紀州殿の席で間違いない。のう、水戸殿?」
「そうでござる。ささっと座りなさい」
――え、いや、ちょっと待って。
ここ、どう考えても尾張殿の席でしょ?何これ、なにが起きてるの……?
戸惑いながらも、勧められるままに腰を下ろす吉宗。
周囲の空気は、すでに何かを決めた者たちのそれで――
その意味を、吉宗だけがまだ知らなかった。
葬儀の場に流れる、静かで重たい空気の中で、
ひとり、未来の将軍はそっと息を呑んだ。
(もしかして……本当に……私なの?)
*
その夜、紀州藩江戸上屋敷は、ふだんとは違う緊張に包まれていた。
日もすっかり暮れた頃、玄関に一台の駕籠が静かに入ってくる。
「殿、幕府より使者がまいりました」
「こんな時間に……? ただごとではなさそうじゃな」
やがて、裃を着た使者が部屋に通される。吉宗は正座し、使者の口を待った。
「夜分に、突然の非礼をお詫び申し上げます。
しかしながら、どうしても本日中にお伝えせねばならぬことがございます」
使者は深く頭を下げ、そして重々しく顔を上げた。
「紀州藩主、徳川吉宗殿。
御公儀より、貴殿に――
第八代 征夷大将軍にお就きいただきたい、とのお達しにございます」
その言葉を聞いた瞬間、吉宗は息を呑んだ。
(来た……ついに来たのね……)
部屋の空気が凍りついたように静まり返る。
やがて吉宗は、一拍おいて、ゆっくりと口を開いた。
「……ありがたき幸せにございます。
御一門の者として、その務め――お引き受け仕りまする」
使者は、深々と頭を下げた。
「ご快諾、誠にありがとうございます。
明日早朝、朝廷へと奏上いたします。勅許が下り次第、改めてご連絡申し上げます」
*
翌朝、江戸城。
黒書院にて、吉宗は将軍としての装束を身にまとっていた。
それは、絢爛な束帯。
漆黒の袍に金糸の文様、頭には冠を頂き、手には笏を持つ。
そして、吉宗は静かに白書院へと歩を進め、そこで御三家や諸大名の祝賀を受けた。
まずは御三家筆頭・尾張藩主、徳川継友が一歩前へと進み出る。
「このたびは御台命を仰がれ、まことにおめでたきことにございます。
将軍家の御繁栄、ならびに天下泰平のため、尾張家一同、微力ながら尽力いたす所存にございまする」
続いて、水戸藩主、徳川綱條が進み出て、厳かに頭を下げる。
「八代将軍ご就任、まことに慶賀に堪えませぬ。
徳川の名を戴くものとして、全力をもってお支え申し上げまする」
そして、最後に紀州藩から、吉宗を長らく補佐してきた家老・加納久通が前に出て、深々と頭を下げた。
「殿の御登極、紀州家中一同、これほどの喜びはござりませぬ。
今後は将軍家の一角として、これまで以上に忠節を尽くす所存にございます」
そう述べた久通が一歩下がったところで、吉宗は静かに大広間へと足を踏み入れた。
厳かな空気が広がる中、その姿に重臣たちが一斉に頭を垂れる。
すでに勅使は下座に控えており、厳かな空気が漂っている。
吉宗は一礼すると、静かに上座へと進み、正座した。
やがて勅使が口を開き、天皇からの宣旨が読み上げられる――。
「右、天皇の仰せにより、徳川吉宗をして正二位・内大臣・征夷大将軍と為す。
国家の柱たるべく、天下の政を預かり、万民を安んじることを命ず――」
吉宗は深く拝礼し、静かに顔を上げた。
徳川の命運を背負う者として――八代将軍・徳川吉宗が、いまここに誕生した。
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