閑話9 ララグート公女の暗躍
◆《銀嵐の舞踏会 ― チューリップ伯爵令嬢の記憶》◆
それは、まさに嵐だった。
音もなく、気配だけで全てを攫っていく、静かな嵐。
――ジュアンド=フィレンツェ。
名誉伯爵。英雄。ヒドラ討伐の剣士。
その名が館に響いた瞬間、大広間の空気が変わったのを、私は確かに感じた。
私は王都東部、アムフェルンの領主であるチューリップ伯爵家の令嬢、ユリーシャ=フォン=チューリップ。
幼少から王宮で教育を受け、舞踏、音楽、魔導礼法まで一通り習い、将来は有望な貴族と結ばれるだろうと誰もが思っていた――少なくとも、あの夜までは。
祝賀会の喧騒の中、私はひとり控えめに立っていた。
銀のグラスを手に、赤ワインの揺らぎを眺めながら、群れる令嬢たちの嬌声には加わらず。彼女たちは軽薄だ。噂話と見栄と虚飾に塗れた令嬢劇場。私は違う。そう信じていた。
だが。
扉が開いた瞬間、思考はすべて霧散した。
その男が、静かに入ってきたのだ。
ジュアンド。
――ひどい。
神は、どうしてあれほどの容姿を、ひとりの人間に与えてしまったのだろう?
長身。広く引き締まった肩。
礼装の緋と黒が、逆光の中で絵画のように浮かび上がっていた。
その髪は銀に近く、しかしただの老いとは違う光沢を持っていた。淡く、冷たく、研ぎ澄まされた刃のように鋭くも美しい。
何より、あの瞳――深海のような青。
覗き込めば底なしで、意識を奪われそうになる。見つめられたわけではないのに、私は思わず一歩、後ずさった。
「……っ」
私だけではなかった。彼が姿を見せた途端、空気が震えた。
正確に言えば、空気の“密度”が変わったように感じた。女性たちの吐息が漏れる。さっきまで無遠慮に騒いでいた令嬢たちが、口に手を当て、目を見開き、呆然と立ち尽くしていた。
「こ、これが……」
「神話……?」
誰かが呟いた。まるで舞踏会に、剣と月を携えた精霊が降臨したようだった。
ジュアンドが歩けば、床が吸い寄せられるように彼に従う。
彼がただ通り過ぎるだけで、香水や音楽が後れを取った。
そして彼の隣に立つ女性――銀髪のエルフ、ソウフリー。凛とした美しさは確かにあった。だが、彼の隣にいることでむしろ「彼が選んだ存在」という印象だけが増幅され、女たちは一層の嫉妬と熱狂に駆られた。
ある令嬢は、彼の視線が「一瞬」自分の方へ向いたと言って倒れ、侍女に抱えられて退場した。
また別の年配の貴婦人は、彼に話しかけようとして口がもつれ、「ああ、神よ……」とつぶやいたままその場でしゃがみこんだ。
もう、異常としか言いようがない。
それほどまでに、ジュアンドという男の“フェロモン”は、会場に満ち満ちていた。私自身、まるで熱を持ったかのように体が火照り、手のひらがうっすらと汗ばんでいるのを感じていた。
あれほど、冷静だったのに。
近づけば、確実に私は破滅する――
そう理性が警告するのに、心は近づきたくて仕方がなかった。
「……ユリーシャ様、危険です」
侍女のフラウが小声で警告してくれたとき、私はようやく気づいた。
無意識のうちに、私は数歩前へ出ていたのだ。あの“銀嵐”へ引き寄せられるように。
「ご安心を、フラウ。私は……少し、呼吸を整えるだけ」
そう言って微笑むのが精一杯だった。心はすでに攫われていたのだから。
その後、ジュアンドとソウフリーの舞踏が始まった。
完璧なワルツだった。ふたりはまるで一対の翼のように、空を舞っていた。
そのとき私は、確信したのだ。
あれはもう、“貴族”とか“名誉伯爵”とか、そういう枠に収まる存在ではない。
“選ばれしもの”――いや、“選ばせるもの”。
ジュアンドは、自ら何かを求めるようには見えなかった。
ただ在るだけで、人々が彼の周囲に惹き寄せられていく。まるで太陽のように。けれどその光に近づきすぎれば、灼かれてしまうだろう。彼の隣に立つ資格がある者など、この場に果たして何人いるだろうか――。
そのとき、視線を感じて振り向いた。少し離れた柱陰に、美しい女が立っていた。
ララグート公女。かつてオストマルク帝国に嫁ぎ、戻ってきた“お戻り姫”。
その瞳が、鋭くジュアンドを射抜いていた。
……あの人もまた、彼を“獲物”と見ている。
私は、ふと自分の胸元に触れた。
心臓が、痛いほどに鳴っている。ジュアンドのことを「危険」だと思いながら、でも、だからこそ惹かれてしまう。この感情は、恋なのか、それとも……崇拝なのか?
その夜、私は舞踏には出なかった。
ただ、遠くから彼を見ていた。手を伸ばせば消えてしまいそうな幻影のように、美しく、冷たい背中を。ソウフリーの銀髪とともに、夜空の光に包まれて、彼は誰にも触れさせなかった。
――これは始まりなのだと、私は理解していた。
この夜から、何かが大きく動き出す。ジュアンドがいる限り。
私は祈るようにワインを飲み干し、静かにグラスを置いた。
この胸に芽生えた衝動を、恐れながらも、決して忘れはしないと誓いながら。
次に彼を見たとき――私は、同じ距離で立っていられるのだろうか?
あるいは、もう二度と、視線を交わせないほど遠くに行ってしまうのか。
月が、ゆっくりと昇っていた。
◆《美貌と野心の公女 ― 運命を見定める夜》◆
祝賀の夜、ペルン城の大広間は黄金に輝いていた。高天井から吊るされた水晶のシャンデリアは、無数の燭光を反射し、貴族たちの笑声と酒杯の音が波のように広がっている。
ララグート=ケズッターは、白と金で縁取られたドレスに身を包み、ゆっくりと大広間へと足を踏み入れた。その姿は華やかでありながら過剰ではなく、全体に洗練された品格を漂わせていた。あくまで“偶然を装って”この場に居合わせたという演出である。
彼女は、一歩ごとに周囲の視線を確かめた。年老いた貴族が眼鏡越しにじっと見つめ、若い男爵夫人が軽く舌打ちするのが耳に届く。それでいい。嫉妬も羨望も、すべては自分の美しさを証明する証。
だが、そのすべての喧噪が、ある一点で凍りついた。
――彼が、いた。
ジュアンド=フィレンツェ。
部屋の奥、装飾された円柱の脇。談笑する数名の貴族に囲まれ、淡い銀の礼装に身を包んだ男が、ひときわ輝いていた。
彼がこちらを見たわけではない。だが、それでもララグートは感じた。視線ではなく、存在そのものが、まるで磁場のように空間を歪ませる。
長身、よく鍛えられた体躯、雪を溶かすような滑らかな銀髪、そして何より、氷と炎をあわせ持つような、深く、研ぎ澄まされた青い瞳。
――これは、もう「イケメン」なんて言葉では足りない。
美という暴力。ララグートの胸に、抑えようのない感情が湧き上がる。
彼は笑っていた。控えめで、礼儀正しい微笑だったが、それがかえって心をくすぐる。言葉を発せずとも、彼の目の動き一つ、首を傾ける仕草一つが、周囲を支配している。
「……っ」
まさか、ここまでとは。
噂は誇張だと思っていた。だが、これは違う。ララグートの戦略家としての冷静な視点が告げていた――この男は危険だ。感情を持ち込めば、すべてを誤る。
しかし。
彼の隣に、いた。
背筋がすっと伸びた女性。絹のような銀髪が背に流れ、淡い光沢を放つドレスに身を包んだ、美しいエルフの女。ソウフリー=エルミナール。
その立ち姿のなんと自然で、なんと気高いことか。傍らにいるのが当然というように、ジュアンドと共に立ち、時折、二人の視線が交わる。
――そう、ただの同行者ではない。あれは、もう絆だ。
ララグートは一瞬、喉の奥がつまるのを感じた。嫉妬か、焦りか、あるいは屈辱か。自分が狙おうとした男が、すでに別の女の心を宿している。その現実を、目の前で突きつけられたのだ。
それでも、引くつもりはなかった。
この程度のことで動揺していては、戦場には立てない。恋もまた、ひとつの戦である。
「姫様」
後ろから小声で呼ばれて振り向くと、侍女のサリナがそっと寄ってきた。赤みがかった栗毛を三つ編みにしてまとめた、用心深い娘である。
「戻りました。宰相付きの従者と、厨房係、書記官からそれぞれ聞き出しました」
「そう。……で?」
「ジュアンド様は、数日後、マエインフェルト伯領へ向かうとのこと。ワイバーン討伐の任務で」
「……馬車で?」
「ええ。明朝には旅装が整えられるそうです。従者は二人、兵士は三名。小規模な護衛隊です」
ララグートは唇に指をあてた。
マエインフェルト――山岳地帯の伯領で、鉱山と古代遺跡の多い土地。そこへワイバーンが出没しているとなれば、相応の危険が伴うだろう。だが同時に、監視の目が少ないということでもある。
「……なるほど。神様はまだ、舞台を用意してくれているのね」
サリナが不安げな顔をする。
「姫様、もしお考えがあるのなら……どうか、お一人では行かれませんように。あのエルフ、ただ者ではないと評判です」
「もちろんよ。私は慎重で現実的な女。無駄な戦いはしないわ。……でもね」
ララグートは、扇を開いてゆっくりと仰いだ。
「男を奪うには、ただ誘惑するだけじゃだめなの。運命を『共有』するの。危機のなかで、心がふれあえば……それは誰にも崩せない絆になる」
サリナは、何も言わずに頭を下げた。
ララグートはゆっくりと歩き出した。
すでに計画は頭の中に浮かんでいる。偶然を装って、同じ道を辿る。理由ならいくらでも作れる。ワイバーン被害の確認、古文書調査、辺境領視察――名目は貴族ならいくらでも立てられる。
彼の目に、再び「ただの貴族の令嬢」ではなく、対等な存在として映る瞬間を作るのだ。
ジュアンド=フィレンツェ。
彼を見た瞬間、ララグートの中の「戦略家」と「女」が同時に目覚めた。
この男こそが、私の未来を変える鍵――そして、もう一度「世界の舞台」へ立ち返るための運命。
扇の陰から彼の背を盗み見ながら、ララグートは微笑んだ。
「あなたの隣に立つのは、果たして誰か……この旅で決めましょう」
夜は、まだ始まったばかりだった。
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