第29話 ジュアンド、ソウフリーとワルツを踊る



◆《祝賀と新たな影》◆


 三日後の昼下がり、晴天。白金の光が王都ぺルンをやわらかく包み、城門にはすでに多くの衛兵と使節、そして祝賀の招待客が列をなしていた。


 王城――シュイス公国の中心にして、荘厳なるぺルン城。その大広間は天井が高く、壁一面に大理石の彫像と歴代公王の絵画が飾られていた。光を受けて煌めくシャンデリアの下、貴族や将軍、王室使者、ギルド関係者などが続々と集まり、音楽隊が静かに前奏を奏でる。


 「……さすがに、気が引けるな」


 緋色と黒の礼装を纏ったジュアンドは、背後からの視線に少しだけ肩をすくめながら、窓辺の一角に立っていた。


 「なら、逃げる?」


 横に立つソウフリーが、冗談めかして微笑む。深い群青のドレスに銀糸の刺繍が施され、風に揺れる銀髪には青いルリ石の髪飾り。気品と清らかさの宿ったその姿は、まるで月の巫女のようだった。


 「いや。……逃げるには、ちょっと遅すぎる」


 彼は小さく笑い返した。するとちょうどその時、号令が鳴る。


 「ジュアンド=フィレンツェ殿、進み出よ!」


 扉が重々しく開かれ、奥の謁見の間へと導かれる。


 そこには、玉座に座した一人の人物――シュイス公王、カリンタ=ケズッターがいた。灰銀の髪と切れ長の目、年齢に似合わぬ強い眼差しは、戦場を知る者の風格そのものだった。


 ジュアンドは騎士のように片膝をつき、頭を垂れた。


 「ジュアンド=フィレンツェ。汝はその剣にて公国を脅かす魔獣を討伐し、民を守る大きな貢献を果たした」


 王の声は低く、しかし遠くまで響いた。


 「この功により、我カリンタ=ケズッターは、汝に名誉伯爵の位を授ける。以後、ジュアンド・フォン・フィレンツェとして、貴族としての礼と責務を忘れず、己の信ずる道を歩むがよい」


 王が自ら立ち上がり、金の飾りの施された勲章をジュアンドの胸元にかける。その瞬間、大広間に再び拍手と喝采が広がった。


 「……光栄に存じます。決して、この名に恥じぬよう」


 ジュアンドは深く頭を下げた。


 すると傍に控えていた男――公国の宰相、ハンズ=グレイルが前に進み出た。理知的な印象のある鋭い目と、整えられた口髭。彼は王の許しを得て、ジュアンドに静かに声をかける。


 「名誉伯爵殿。お時間をいただけますか。祝賀会の前に、ひとつ極秘の依頼があります」


 ジュアンドはわずかに目を細めたが、頷いた。


 「内容によっては、受けましょう」


 「さすが。……では、後ほど控えの間で」


 それだけ告げると、ハンズは再び王の側へと戻っていった。


 その後、式典は無事に終わり、城内の別棟に設けられた祝賀会の会場へと移された。


 宴の時。


 音楽が流れ、食卓には豪華な料理と酒、果物や焼き菓子が並ぶ。貴族たちの談笑が絶えず響き、やがて舞踏の時間が訪れた。


 「どうするの? 名誉伯爵様」


 ソウフリーが、からかうような笑みを浮かべて彼に囁く。


 「……からかうなって言ったのに」


 ジュアンドはそう言いながらも、そっと手を差し出した。


 「踊れるかな?」


 「私がリードする?」


 「……勘弁してくれ」


 ふたりは笑い合い、フロアの中央へと歩み出る。


 音楽が変わり、ゆるやかな三拍子のワルツが流れ始めた。


 ジュアンドは、ソウフリーの手を軽く取り、もう一方の手を腰へ。少しぎこちないながらも、踏み出した一歩目はきれいに決まっていた。


 「……思ったより上手いじゃない」


 「やるときはやるさ。……誰かの前で踊るのは初めてだけどな」


 「光栄ね。その“誰か”に選ばれて」


 彼女の言葉に、ジュアンドの頬が少し赤くなる。


 音楽に合わせてくるくると回りながら、二人の周囲には灯りと笑顔が溢れていた。だがその中心にいる彼らだけは、まるで世界から切り離された静かな時間を生きているかのようだった。


 「ソウフリー」


 「なに?」


 「……帰ってきたら、もう一度、ここで踊ってくれないか?」


 「……いいわよ。でも、もっと上手になってからね」


 「修行してくるよ、剣のついでに」


 彼女が微笑む。その瞳には、さまざまな感情が交錯していた。寂しさも、不安も、でもそれを超えて信じる意志が、そこにはあった。


 音楽が終わる。二人は最後のステップを踏み、ぴたりと静止した。


 拍手が起こる。誰もが彼らの舞に魅了されていた。


 その後、控えの間にて、ジュアンドは宰相ハンズと対面する。テーブルには魔術防音の結界が張られ、話は公の祝賀の場とはまったく違う、現実の重さを伴うものだった。


 「ジュアンド伯爵がイタリー王国に渡ると聞いています。……実は、少し寄り道になるのですが、その途中にあるマエインフェルト領での依頼をお願いしたいのですが……」


 「ここから東のルートになりますね?」


 「そうです――申し上げにくいのですが、実はワイバーンの討伐を依頼できればと……」


 ジュアンドの目が鋭くなった。


 「ワイバーンですか……」


 「すでにマエインフェルト領に送った軍隊は壊滅しており……あなたにしか頼めない任務です」


 ハンズが差し出したのは、封印された任務書と簡単な地図だった。


 「今回は引き受けます……その後、そのままイタリー王国に向かいますので、ここには戻れません」


 「承知しております。明日の朝に、馬車を用意していますので、それで領地までお送りします」


 夜も更け、祝賀会は終盤を迎えていた。


 月明かりが庭園を照らす中、ジュアンドとソウフリーは、少しだけ離れた中庭に立っていた。


 「また、旅立つのね」


 「……ああ。今度は、少し長くなるかもしれない」


 「私は、塔の再建を終わらせるわ。あなたが帰る場所として、きちんと残しておきたいから」


 ジュアンドは、そっとソウフリーの手を取った。


 「ありがとう。……踊ってくれて、笑ってくれて。そして、俺を信じてくれて」


 ソウフリーは、柔らかく微笑んだ。


 「S級冒険者さん、どうか気をつけて。あなたの帰りを、ずっと待っているわ」


 「……次に帰ってきたら、“名誉伯爵”の呼び方、やっぱりやめさせてもらう」


 「ふふ、いいわ。じゃあ、その代わり――そのときは、あなたの踊りに期待してる」


 月明かりの下、ふたりの影が重なった。


 その夜が、安らぎの終わりであり、新たな戦いの始まりでもあると、ふたりともわかっていた。


 ――ジュアンドは、イタリー王国へと旅立つ。




◆《旅立ちの前夜》◆


 夜更け。


 祝賀の宴が終わり、ぺルン城の一角に用意された客室には、すでに静けさが満ちていた。遠くで楽士たちが片づける音がかすかに聞こえる以外、空には星が瞬き、風すら音を潜めている。


 その部屋の中、月明かりが窓から差し込み、石造りの床に淡い光の模様を描いていた。


 ジュアンドは、窓辺に立っていた。手にはまだ、昼間に渡された任務書の封筒が残っている。


 「……明日には、また剣を振るう日々に戻るんだな」


 つぶやいたその背後から、足音が近づいてくる。


 「戦いは、もうおしまいってわけにはいかないのね」


 ソウフリーの声だった。


 彼女はすでに舞踏のドレスから、柔らかな薄衣へと着替えていた。月明かりを受けて浮かび上がるその姿は、まるで夢の中の精霊のように静かで、幻想的だった。


 「……ごめん」


 ジュアンドが口にした言葉に、ソウフリーは小さく首を振った。


 「謝らないで。そんなあなたを、ずっと見てきたもの。どれほど傷ついても、誰かを守ろうとする姿を……私は、誰よりも知ってる」


 彼女はそっと近づき、ジュアンドの手から任務書を取り、机に置いた。


 「今夜くらいは、剣も使命も、全部置いて……ただのあなたでいて」


 その言葉に、ジュアンドは黙って頷いた。


 二人は自然に引き寄せられるように、唇を重ねた。


 はじめは戸惑いながらも、互いの温もりを確かめるような、静かな口づけ。けれどそれは次第に、心の底に秘めていた感情を解き放つように深まっていった。


 「……ずっと、こうしていたかったよ」


 ジュアンドが小さく呟く。


 「私も。……あなたがここにいてくれるだけで、もう何もいらなかった」


 言葉はもう必要ではなくなった。ソウフリーがジュアンドの胸に顔をうずめ、彼の鼓動を聴く。ジュアンドはその髪をゆっくりと撫で、そっと抱きしめ返す。


 部屋の灯りはすでに消え、月明かりだけが二人を照らしていた。


 その夜、ふたりは何度も言葉を交わし、互いの名を呼び合った。


 過去の痛みも、明日の不安も、そのときだけは何もなかった。ただ、ぬくもりと静かな安らぎ、そして確かな心の繋がりがそこにあった。


 指先がそっと頬をなぞるたび、吐息が触れ合うたびに、ふたりは今この瞬間を生きているのだと実感した。


 やがて、夜が深まる。


 ジュアンドはベッドの端に座り、背中越しにそっとソウフリーの手を握った。


 「もう、何も後悔しないように旅立ちたい。……だから、ありがとう」


 「ううん。ありがとうは、私の方。あなたと出会って、変われたのは私だから」


 重ねた手に力がこもる。


 やがて、静かな眠りが二人を包み込むまで、ふたりは言葉もなく寄り添い、ただその存在を感じていた。


 戦いの旅路は明日からまた始まる。だがこの夜だけは、すべてを置き去りにして、ひとりの男と、ひとりの女として結ばれた。


 夜明けまで、互いの鼓動を感じながら――。

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