第18話 暗殺者見習い(2)
朝食の後、アドリアーナはレイヴンとヴィヴィアンから、アビーウェルの町の簡単な地理を教わった。
レイヴンがなぜか、アドリアーナに硬貨を何枚か渡す。
「よし行くぞ」
レイヴンはどこかから借りてきた小型の馬車にアドリアーナを乗せた。
ヴィヴィアンが、どこか心配そうにアドリアーナを見つめる。
そしてきゅっと唇を噛みしめると、レイヴンに気づかれないようにして、そっと馬車の窓に近づき、アドリアーナにささやいた。
「リアーナ、いいかい。どんな町でも、町の中心には教会があるのを覚えていて。教会は高い塔があって、そこに鐘が吊るされているんだ。そして塔の上には、十字架が立てられている」
「?」
「教会の前には広場があって、近くには市場もあるはずだよ」
アドリアーナがよくわからずに頭をかしげた。
レイヴンが振り返る。
「何を話している。リアーナ、窓を閉めろ」
「はい」
馬車が動き出した。
アドリアーナは馬車の窓から周囲の景色を眺める。
馬車はなぜか小刻みに曲がったり、小道に入ったりと目まぐるしく走った。
アビーウェルは、小さな町だ。
馬車で四十分も走れば、もう町外れに出る。
大きな森を前に、レイヴンは突然、馬車を止めた。
ドアを開き、アドリアーナを助け下ろすと、言った。
「一人で家まで戻って来い」
「!!」
アドリアーナは声を失った。
「見習いになると言ったな。これが訓練だ。もっとも簡単な訓練のひとつ。見知らぬ土地で、自分で道を見つけ、帰って来い。正体は知られるな。暗くなるまでには帰って来い。夜になるとオオカミも出る。人さらいも出る。ましてや、若い娘だ。もっと危険な目にも遭うかもしれないな?」
「!!」
レイヴンはそれだけ言うと、素早く御者台に乗り込み、馬車を出発させた。
後に残されたのは、平民のドレスを着て、エプロンを付け、ボンネットを被ったアドリアーナが一人。
「一人で、帰る」
アドリアーナが呆然としてつぶやいた。
今、自分がどこにいるかもわからない。
レイヴンの長屋が正確にどこにあるかもわからない。
馬車も、馬もない。
「……距離としては、それほど遠くないはず。町の中心から、町外れに来ただけよ」
アドリアーナは自分自身に言い聞かせた。
しかしその声は震えている。
「あ、歩けるわ。馬車がないなら、歩くのよ。皆、町の人は歩いて移動しているわ」
アドリアーナはすでに遠くなってしまった馬車の後を追うようにして、歩き出した。
たしかに、頑張って歩けば、歩ける距離かもしれない。
しかし、アドリアーナは子どもの頃から忌みの塔に幽閉されていて、自分の足で遠距離を歩いたことなどまったくない。
アドリアーナは足が震えて、思わず地面にしゃがみ込んだ。
「わ、わたくし自身が、レイヴンさんに頼んだんじゃないの! 弟子にしてくださいって。だから、レイヴンさんはわたくしを鍛えようとしているんだわ。……わたくしに教えようと———助手になるなんて、そんな簡単なことじゃないんだぞ、って」
アドリアーナは思わず泣き出し、両手で顔をおおった。
「エリーズ先生のように、優しく教えてくださると、期待していたの? アドリアーナ、あなたは大バカ者よ。レイヴンさんはきっと呆れていたの違いないわ。助手になりたいだなんて、笑わせるな、って」
その時だった。
アドリアーナは、クゥルクゥルクゥル……という不思議な声を聞いた。
バサバサと大きな音がして、何か大型の鳥が勢いよく滑空してきて、アドリアーナの頭上をかすめた。
「きゃあ!?」
アドリアーナは両手で頭を抱えて、地面に伏せた。
ゆっくりと目を開けると、真っ黒な大型の鳥が、大きく翼を広げて、すごい勢いで森の上を上昇している。
「
アドリアーナが風に乗って自由自在に飛翔する姿を目で追っていくと、
塔のてっぺんには、何か十字の形をしたものが載っている。
「教会……!」
アドリアーナはあわてて立ち上がった。
ようやく、別れ際にヴィヴィアンが何を言おうとしていたのかに気づいたのだ。
「教会は町の中心にある。教会の近くには、市場がある。アンダーソン夫妻の長屋は、市場の裏にあるわ」
アドリアーナはつぶやいた。
「レイヴンさんは、何て言っていた? 思い出すのよ、アドリアーナ」
アドリアーナは目を閉じた。
「……紛れる。観察する。自分の姿を変化させ、周囲に馴染ませて、姿を消す。自分がどう見えるのか、意識して、自分が見える姿をコントロールする」
アドリアーナは目を開けた。
その表情に、落ち着きが戻っている。
アドリアーナは買ってもらったばかりの、新しい靴を眺めた。
ポケットの中には、レイヴンから渡された硬貨が数枚。
お腹が空いたらパンを買うこともできるし、足が疲れたら、乗合馬車に乗ることもできるかもしれない。
「よし」
アドリアーナはうなづいた。
心は決まった。
「歩こう」
***
こうして、アドリアーナの最初の『訓練』は終わった。
夕暮れが広がり始めた頃、アドリアーナは、レイヴンの部屋のドアを小さくノックした。
そのまま、黙ってドアが開くのを待つ。
ドアはすぐ開いた。
上着のフードを被り、長い黒髪がさらりとフードからこぼれ落ちる。
黒に近い、宵闇のような藍色の瞳がアドリアーナを見つめた。
レイヴンは表情ひとつ変えず、左右を確認すると、アドリアーナを抱き込むようにして部屋の中に入れ、静かにドアを閉めた。
「レイヴンさん……?」
暗い部屋の中で、恐る恐るアドリアーナが声を出すと、レイヴンは深い深いため息をついた。
そのまま無言で奥にあるキッチンに行ってしまう。
「レイヴンさんっ……」
アドリアーナは泣きそうになってレイヴンの後を追った。
怖かった。
心細かった。
足も痛かった。
それでも、レイヴンはけして、自分ができないことはやらせないだろう、という確信があった。
できると判断したからこそ、レイヴンは実行したのだ、そう思えた。
アドリアーナが小さなキッチンに入ると、明るいランプが灯されており、テーブルの上には、二人分の夕食がきちんと並べられていた。
「……疲れているだろうが、メシは食ってから休め。入浴は明日にしろ。俺がお湯を沸かしてやる。食って、今日は寝ろ」
「レイヴンさん」
「よくやった」
レイヴンはぽつりと呟き、スプーンを取り上げた。
「はい……っ」
レイヴンのたった一言に、アドリアーナの涙腺は崩壊しそうだ。
アドリアーナもレイヴンにならってスプーンを取り上げ、そして言った。
「いただきます!」
アドリアーナの言葉を聞いたレイヴンは、驚いたように片方の眉を上げ、そして言ってくれたのだ。
「……いただきます」
ヴィヴィアンの言ったように、誰かと一緒に食べる食事は、とてもおいしかった———。
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