第19話 生き抜くための訓練
その日、レイヴンは馬を二頭用意して、アドリアーナを森に連れてきた。
アドリアーナは馬に乗れないので、一頭の馬に同乗させ、もう一頭の馬には荷物を積んだのである。
アドリアーナにすっかり甘くなった大家一家には、帰宅が遅くなっても心配しないように、あらかじめ森にキャンプに行くと言ってある。
ここ数日のアドリアーナの努力はめざましい。
アドリアーナは男装にも挑戦したし、全力疾走で走ることも学んだ。
剣術に体術、まだまだ何もできないが、基本の型を学んだ。
武器がない時に、どんなものを代用できるかも、学んだ。
正直、すべてをうまくこなしているわけではないのだが、文句を言わない。弱音を吐かない。できるまであきらめない。
まさかの根性を見せる王女の姿に、レイヴンは内心、驚愕していた。
もっとも、そんなことはアドリアーナには一言も言わないのだが。
しかし。
レイヴンは珍しく少々ナーバスだった。
何も知らないアドリアーナはのんびりと馬から見える景色を楽しんでいるが、今日の訓練はなかなかハードなものになるだろう。
今日予定しているのは、水泳の訓練。
実際に水場で行う、待ったなしの実地訓練だったからだ。
漁師でもなければ泳げる人間はほとんどいない。
ましてや、貴族、しかも王族の人間だ。
アドリアーナは泳ごうなどと思ったことは一度もないだろう。
しかし、レイヴンはアドリアーナに教えたいと思った理由があった。
最初の目的地は森の中にある自然の泉だ。
泉は小さく、深さはあるものの、水の流れもなく、最初の訓練にはちょうどいいだろう。
「いいか、アドリアーナ。水にはそれぞれ性格がある。川や湖、泉の水は淡水だ。海はわかるか? 海の水は塩辛い。海では体が浮きやすいんだ」
泉に着くと、レイヴンはアドリアーナに基本的な知識を教え始めた。
「川や海には水の流れがある。流れを読むのが大切だ。見た目よりも実際の流れが早いことも多いし、水の流れは急に変わる。油断するな」
「はい」
「なぜ水泳を学ぶのか、わかるか?」
レイヴンの問いに、アドリアーナは頭を振った。
たしかに、想像もできないのだろう。
「……生き抜くためだ」
レイヴンは断言する。
「暗殺者は、生きて帰ってきて、初めて価値がある。無駄死にはするな。水の中でも生きられれば、それだけ生きる可能性が広がるんだ」
しかし、とレイヴンは続ける。
「水は、怖いものだ。それを最初に教える。しかし、おまえは俺を信じなければならない。もし信じられないなら、それはかまわない。この訓練は中止しよう」
アドリアーナはメガネの奥で、目を見開いた。
「これから俺はおまえを泉の中に突き落とす」
「!!」
アドリアーナは思わず両手で口を押さえた。
「あらかじめ説明する」
レイヴンは淡々と言葉を続けた。
「おまえの腰回りにロープを付けておいて、引っ張り上げるが、それまでに全身水に浸かって、ドレスは相当重くなるだろう」
さすがのアドリアーナの顔色も、どんどん青くなる。
「おまえが水に落ちた時の感覚を得たら、引き上げる。俺を信頼するなら、行う。しかし言っておく。普通、ドレスで水に落ちたら、まず助からない。貴婦人を殺すなら、水に突き落とすだけで十分なんだ。動きにくいコルセット、水を吸ってますます重くなるドレス、おまけに自分一人では着られないドレスだ。濡れているから、水の中で脱ぐこともできないだろう。助かることはまずない」
「では、どうしたら———」
「生き残りたいなら、そんな状況を避けるしかない。水場に行かないことだ。何が起こるかわからないからな。池でのボート遊びもだめだ。事故を装うのは簡単だから。もし、水に落ちてしまったら、助かることはできない。誰かに助けてもらうしかない。大声を上げろ。運が良ければ———助かるかもしれない」
「わ、わかりました。それでも、あなたが必要だと思うのですね。それならば」
アドリアーナは深々と頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
「いい覚悟だ」
レイヴンは手早くアドリアーナの腰にロープを巻きつけると、泉のふちにアドリアーナを立たせた。
「泉は深い。足はつかないぞ。焦って体を動かすな。力を抜け。横を向くな。上を向け、仰向けになるんだ———いいか、一、二、三———」
「!!!」
ばっしゃ———ん!!
激しい水音がした。
一瞬、アドリアーナの姿が見えなくなる。
しかしすぐにアドリアーナの頭が見えると、彼女はごほごほと咳き込み始めた。
なんとか顔を仰向けようとして、苦しげに両手が水を叩く。
レイヴンは間髪を入れずにロープを強く引っ張った。
「———もう大丈夫だ」
レイヴンはびしょ濡れになったアドリアーナの体をしっかりと抱きとめた。
アドリアーナは衝撃のあまり、声も出ない。
レイヴンはアドリアーナの腰からロープを外し、タオルで彼女の体を巻くと、木に寄り掛かるようにして座らせた。
すぐに焚き火の準備を始める。
思いついて、レイヴンがワインの入った水筒をアドリアーナに持っていくと、アドリアーナはつぶやいた。
「び、びっくりしました……」
レイヴンがアドリアーナの顔を覗き込むと、顔色も悪くない。
レイヴンはこっそりと安堵のため息をついた。
「ワインだ。体が温まるから飲め」
「ありがとうございます」
アドリアーナがワインを飲んでいる間に、レイヴンは馬から下ろした荷物の中から、ヴィヴィアンに用意させた服を一着取り出す。
男性の服のような、チュニックに膝丈の短いパンツ。
水泳の訓練のために、ヴィヴィアンに頼んでいたものだ。
「落ち着いたら、着替えろ。泳ぎ方を教える」
***
レイヴンがまず最初に教えたのは、水の中での呼吸の仕方だった。
「いいか、水の中では呼吸はできない。水の中では吸い込むな。水が鼻や口から入ってきて、パニックになるぞ。水の中では、息を吐け。苦しくなったら、顔を水から出して、息継ぎをする。こんな風にだ」
レイヴンは持参してきた洗面器に泉の水を汲み、実際に顔を水に浸けて実践して見せた。
「顔が水に濡れる感覚に慣れろ。慣れれば問題なくできるようになる」
アドリアーナはメガネが外れないように、二重にひもで固定すると、思いきって、顔を水に浸けた。
その次には流れの穏やかな川へ移動して、川での訓練が続いた。
水の中を歩く。
顔を水につける。
水の中に潜る。
体を浮かせる。
その日の最後に、レイヴンは水泳の型を教えて、訓練を終わりにした。
実際に泳げるようになるには、練習も必要だ。
たった一日でできるようになるとは、レイヴンも思っていなかった。
午後になって、日が陰ってきた時、レイヴンは言った。
「よし。今日の訓練は終わりだ」
レイヴンは再び火を起こすと、器用に鍋を火にかけ、アドリアーナのために紅茶を入れた。
さらに、いつのまに捕まえていたのか、魚を五匹、くしに刺して焚き火の周りにかざした。
アドリアーナはタオルにくるまり、大きな木の背後に行くと、レイヴンが用意してくれていた乾いたドレスに着替えた。
ふたたび火の近くに戻ってきたアドリアーナに、レイヴンは黙って紅茶を差し出した。
「……ありがとうございます」
アドリアーナは心から礼を述べる。
何枚もの着替えや、紅茶やワインの用意。
段階を追った訓練の仕方など、レイヴンがアドリアーナのことを考えながら準備してくれていたことが、伝わってくる。
暖かな火に手をかざしながら、水に浸かった後の妙にぼんやりとした感覚に、アドリアーナは体を任せた。
ふと、眠気が襲ってきて、アドリアーナはかくん、と頭を倒した。
「さすがに、疲れたか?」
思わずレイヴンはアドリアーナを抱き寄せて、自分の体にもたせかけた。
すると、薄目を開けたアドリアーナは言ったのだ。
「今日は、ありがとうございました。本気で教えてくださって……嬉しかった」
「!!」
レイヴンが驚いてアドリアーナの顔を見ると、彼女はすでに眠りに落ちていた。
パチパチ、と焚き火の火がはぜる音だけがあたりに響く。
「本気で教えてくださって、か。それを言うなら、本気で学んでくれてありがとう、だな」
レイヴンも独り言をつぶやいた。
「なんだろう……。最初は、こいつを追い出す口実に、半ば意地悪で教えてやろうと思ったんだった」
ところが、どんな課題を出されても、レイヴンを信じて食いついてくるアドリアーナの姿に、レイヴンは次第にほだされていたのかもしれない。
いつしか、本気で、レイヴンがアドリアーナの今後に役立つと思われる技術を教え込もうと思うほどに。
「アドリアーナ、おまえも気がついているかもしれないが、おまえを亡き者にしようという追手は、遅かれ早かれやって来るだろう。俺が守ってやれればいいが———」
レイヴンは言葉を呑み込んだ。
「俺は守れない約束はしたくない。守ってやれればいいが、俺は闇の世界で生きる人間だ。そうできない時に、少しでもおまえ自身が自分の身を守れるように———生き抜くための技術を、教えてやるよ」
空がかげってきた。
夕暮れが近い。
森の中は暗くなるのが早い。
そろそろ出発した方がいいだろう。
そう思っても、レイヴンはなかなか立ち上がることができなかった。
自分の胸にもたれる、アドリアーナの頭の温かな感触。
もう少し。
もう少しだけ、こうしていようか。
レイヴンはずり下がってきた毛布を引き上げ、アドリアーナの肩をすっかりと包んでやったのだった。
さすがに、そろそろ出発しないと危ない。
レイヴンがそう思った時に、意外な助けが現れた。
蛍である。
川べりから森の奥に向かって、無数の小さな光が瞬き、ふわふわと浮遊している。
「アドリアーナ、起きろ。蛍だ。おまえ、蛍を見たことはあるか———?」
アドリアーナは目を開けると、目の前に広がる幻想的な光景に息を呑んだ。
感動のあまり声も出ないアドリアーナを馬に乗せて、レイヴンは蛍の光がちかちかと瞬く夕暮れの森を抜け、アビーウェルの町へと向かったのだった。
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