第13話 葦津/禍津
神猪相撲まで、残り一刻。
羽鳴山の滝壺では、冷たい水音だけが鋭く響いていた。葦津は白装束の裾を絞り、濡れた髪を払う。
「よし、やるか……」
丹田へ意識を沈め、神気を腹の底へと凝縮させる――はずだった。
だが、ぬるりと逃げ出すような感覚。神気が指の間の水のように散り、どうしても掴めない。
「……何だ?」
滝の轟きが遠のき、葉擦れのざわめきが渦を巻く。
いつもなら夜の訪れを告げるように鳴き出す鳥や虫たちも、今宵は沈黙を守り、重たく張りつめた静寂だけが重く沈んでいる。
(妙な胸騒ぎがするな……)
なにか、とても大事なことを忘れているような感覚。音のない内の世界で、誰かが必死に叫んでいるような。
ふと、脳裏に麓の笑顔が浮かぶ。――そうだ、今日はあいつの晴れ舞台なのだ。失敗は許されない。
「……集中、集中!」
腹にかき集めた神気を四肢へ送り、骨格を獣へと組み替えていく。肩甲が軋み、爪が伸び――
――その瞬間。
『――葦津!! 神気を外すな!!』
脳裏に、自分の声が炸裂した。
同時に、黒紫の瘴気が肉を裂くように噴き出す。ごう、と空気が震え、瘴気は赤黒い閃光を撒きながら上空へ伸び、反転して葦津の体内へと逆流した。
「ぐっ……はッ!」
膝が砕ける。制御を失った神気が暴れ、葦津の姿はホログラムのように猪と人とのあいだを断続的に切り替える。骨が軋み、視界が白黒に明滅した。
(抑えろ――外へ漏らすな……!)
しかし、指一本動かせない。
羽鳴山の木立は息を呑み、遠くの祭囃子だけが間延びして届く。
地を掴む葦津は、迫る時と暴走する神気の気配に、焦燥と怒気をまじえた荒い息を吐いた
そこへ――背をそっと撫でられる感触。ぞっと肌が逆立ち、ぎこちなく首を回す。
滝しぶきの向こうに、見覚えのない“若い男”が立っていた。白衣でも羽織でもない、時代も目的も測れぬ黒衣の軽装。
それなのに男は、旧友に再会したかのように頬をゆるめ、葦津の顔を覗き込む。
『葦津ノ神。三百六十年ぶりの対面になるねぇ。
――今回は“封印”を更新しなくて、よかったのかい?』
耳に届いた瞬間、記憶が決壊した。
狭間に沈めていた過去が、洪水のように逆流する。
なぜだ。おれは――なぜ、こいつの存在を、忘れて……
「……禍津!」
葦津が吠えるように名を呼び、獣のごとく腕を振り抜く。
胸倉を掴む寸前――禍津は楽しげに平手を鳴らし、身をひるがえして宙へ跳んだ。
だが次の瞬間、鋼線を巻き戻すような力が働き、
禍津の身体はビュン、と音を立てて葦津の足許へ引き戻される。
踵で砂利をきしらせながら、彼は首を傾げた。
「……あれっ? まだ鎖がついてたんだね」
指先で頬をとんとん、と叩き、遠い記憶を探る仕草。
そして夜空を見上げ、月光を浴びた瞳に無邪気な火を宿す。
「なるほど。このあと“相撲”で僕が勝てば――
鎖は外れて、晴れて自由の身ってわけか!」
言い終えるやいなや、禍津は金属音を伴う鎖を軽く持ち上げ、カラン、と一度だけ鳴らしてみせた。
挑発とも歓喜ともつかぬ笑みが、滝壺の飛沫に揺らめく。
葦津の胸中で、神気が蠢き、牙をむく。
鎖の先――解かれれば、何が解き放たれるのか。
滝の轟音が一層低く唸り、羽鳴山は不吉な鼓動を打った。
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