第2話


 甄宓しんふつの笛の音を初めて聞いた。


 周瑜しゅうゆも楽奏の名手であり、時折酒宴の席でも孫策そんさくに所望されると彼は笛などを聞かせてくれて、その見事な笛の音を陸議りくぎは覚えていたけれど、初めて周瑜の音に遜色ない音色を聞いたと思った。

 本当は、貴重なこの機会にぼうっとしててはいけないのだけど聞き入ってしまう。


 長安ちょうあんの宮殿である。

 

 甄宓は次期皇帝になる曹丕そうひの正妻であるため、いかに許都きょとの同じ居城では親しく声をかけてもらってるといえども新参の自分が目についてはいけないと思い陸議は隅の方で気配を消していたのだが、何度か甄宓は通り縋りに少し陸議の肩に触れて、言葉はなかったが顔を上げると、優しい瞳で「何もかも、よく見ておきなさい」と語って来ているのが分かった。


 甄宓しんふつの対面に腰を下ろしているのが曹操そうそうである。


 孫呉そんごがずっと相対してきた男。

 黄巾こうきんの乱の時代より董卓とうたく呂布りょふ袁紹えんしょうといった巨大な存在と戦い、

 生き残り、勝ち残ってきた男だ。

 特に袁紹を【官渡かんと】で破った戦いでは、まだえん家の勢力は強大で、袁紹軍と曹操軍とは大きな戦力差があった。

 

 ――丁度、赤壁せきへきで戦った軍と呉軍のように。


 歴史には時折そういった、大きな戦力差を持ちながら大軍を打り破り、飛躍の機会を得る者が現れる。


 甄宓しんふつは伝えられて来た曲を吹いても、聞く者を決して退屈させない技術を持っていたが、この宴の最後に曹操が所望したのは『一度も聞いたことのない曲を聞いてみたい』ということだった。

 つまり即興である。

 曹孟徳そうもうとくと歴戦の武将達が揃ったこの場で、普通の楽師の娘ならば震え上がって泣き出すような要求だったが、甄宓は穏やかな表情でこれを受け、


「では僭越ながら、陛下を想って奏でさせていただきます」


と前置きし、すぐ奏で始めた。

 

 何の焦りも迷いもなく静かな、美しい、芯の籠った一音の響きから始まる。


 余韻が揺れ、やがてそこから小さな音でありながら、非常に技巧的な細かい旋律が始まり、針のように細い息が続く限り、彼女は笛穴を塞ぐ指を躍るように動かし続けた。

 小さな音を揺らさずに、長く吹き続けることは最も難しく技量が必要なことだったが、甄宓は一音も外さず、普段優雅な彼女からは想像出来ないほど厳しい気配で、力の限り、旋律を猛然と追っていく。


 まるで命の最後に一度だけ吹くことを許された楽師のように、

 優雅さを失わないながらも、真剣であることが伝わって来る。

 曹操は武人だが、楽や詩も大いに嗜む。

 だからその前で奏でる時は少しも油断が出来ない相手なのだと、これは甄宓が言っていた。


 やがてとうとう、息の限りがやってきて、


 最後の一音が波のように揺れ、

 激しい旋律が掻き消えた。


 新しく息を吹き込まれ、美しい音が宴席にゆっくりと、響き渡る。


 一音、二音。


 戦いの描写だろうか、激しい旋律の部分を越えて――やがて再び穏やかな、優しい旋律が流れ出せば、それまではっきりと息を詰め、甄宓の演奏に聞き入っていたその場の緊張感が和んだのが分かった。

 

 優れた演奏者はたった一人でその場の空気を支配してしまうものなのだと周瑜は言っていたが、本当にその通りだった。


 穏やかな曲調になった時それまで身動き一つなかった宴席の場で、何人かの武将の手が杯に伸びたのが分かった。


 そっと身動きせず、視線だけでそれを追った。


 長安ちょうあんに駐留中の武将の情報は頭に入れたが陸議は武将の顔は分からず、一致させられなかったので、自分の中で推察するしかなかった。


 曹操の側に座っている一人の武将がいる。


 曹操の右腕であり、最も信頼を受ける武将と言えば夏侯惇かこうとんだが、彼は分かった。

 隻眼せきがんの武将だと聞いていたし、いかにも悠然とした雰囲気を持っていた。

 何より、彼の席は元々諸将と同じように曹操の一段下にあったのだが、宴が進むうちに曹操が隣に来いと呼びつけたのだ。

 夏侯惇は「子供のように俺を世話役に呼び付けるな。お前の母親ではないのだぞ」と文句を言いながらも、やれやれと立ち上がり側に行ってやった。

 噂通り曹操とは兄弟のようで、曹操自ら夏侯惇の杯に酒を注いでやっていたし、その逆も何度も見た。


 呉では孫策そんさく周瑜しゅうゆがそういう関係だった。


 周瑜も孫策と絆はまさに兄弟のようなものだったが、こういった諸将が集う場では孫策の隣に座るようなことはなく、皆と同じ立場なのだとそういう風に振る舞った。

 公の軍議や会議では決してこれを崩すようなことはなく、ただ宴席では、孫策が「そんな遠くじゃ話しにくい」と膨れるのでわかったわかったと隣に周瑜が側に行き、お互い杯を注ぎ合って笑い合っていた。


 その、夏侯惇が曹操との会話の合間に時折相槌や助言を求める人物が二人いた。


 一人はえん、と親しげに呼んでいた為、間違いなく夏侯惇の従弟である夏侯淵かこうえんだった。

 呉軍でも警戒される猛将の一人であり、泰然とした纏う空気は夏侯惇にさすがに似ていたが、重厚感のある夏侯惇よりは明るく場の空気を和ませる所があるらしく、従兄いとこと曹操の様子を微笑ましげに見ながらも一歩引いたところにあり、しかし二人の会話にはきちんと耳を傾けているらしく、同意や意見を求められれば聞き返すこともなくすぐに答えた。そして時折、


元譲げんじょうの兄貴、そういう役ばっかりこっちに投げて寄越すな」

「今のは大将が悪い」

「あんまり笑わせるな。腹の傷が開いて死ぬ。痛い痛い」

 などと言って宴席全体を笑わせるようなところがあった。


 夏侯淵の率いる軍はどこに現れても士気が常に高いと言われていたが、それは魏において重用される重鎮の軍だからというだけではなく、彼のこの明るい気質から来るものなのだろうということが分かる。


 もう一人が『荀彧じゅんいく』と呼ばれていたため、曹操に仕える軍師の荀文若じゅんぶんじゃくだということが分かった。


 この名が呼ばれた時、陸議りくぎは思わず視線で追っていた。


 荀彧は呉軍でも頻繁に軍議で名が上がる人物だったからだ。

 宴席のような砕けた場所でも話されることがあり、孫策が「魏の荀彧には一度会ってみたい」と話していたのが陸遜には印象的だった。


「あいつはもしかして曹操にとって――俺にとってのお前のようなものなのかな」


 尋ねられた周瑜は穏やかな顔で目を閉じ、微笑んでおり、彼も少なからずそのように思っていることを感じさせた。


 軍面でも、政治面でも曹操に助言を行っているというのは本当のようだ。

 落ち着きがあり、話に聞いていたらもっと老獪な印象があったのだが、実際は意外なほど若く見えた。

 陸議の目には三十代という感じに見え、時折笑うと二十代の気配すらした。

 印象が瑞々しいのだ。

 曹操を孟徳もうとく殿と呼び、時折笑い時折穏やかに窘めることもあった。


 しかし穏やかな人物像とただ言い表すには、返す言葉は短くてもどれも的確であり、歴戦の武将でさえ彼を軽んじることの出来ない、凜とした気品のようなものを感じた。

 名門の血だろうか。温和だが、覇気がある。



 確かに、彼は周瑜の気配に少し似ている……。



 そう思った時に、陸議には荀彧じゅんいくの姿は太陽のように眩しく感じられ、見ていられなくなった。


 視線を下げ視界を遮ると、方々から見知らぬ武将たちの会話と、楽師達の演奏が折り混ざって、甄宓しんふつの引き連れてきた楽師の演奏は素晴らしいはずなのに聞いておれず、耳を塞ぎたくなった。


 ざわざわとした空気の中に、ただ、荀彧の声だけが浮かび上がって聞こえる。

 

 ……ふと、耐え難かったその中に『叔父上おじうえ』という呼び掛けが時折あることに気付いた。


 陸議にとって同族を呼ぶそれはどこか懐かしい呼び掛けで、に連れて来られ灰色の心境になった毎日でも、司馬孚しばふ司馬懿しばいを呼ぶ時、彼の意識を優しく引くことがある言葉だった。


 今もまた、穏やかだが迷いなく話す荀彧がその声の方にだけ、少しだけ優しく答えていることに気づき、伏せていた視線を少しだけ上げた。


 それは荀彧の隣に座った男に向けられた呼び掛けであり、穏やかそうな人物が、次の曲は何がいいかと曹操に尋ねられた荀彧に、助け船を求められて答えてやっていた。


 曹操は「私はお前に聞いたのだぞ」と不満げだったが、こういう場では、何の曲を所望したかなどという細かいことであろうともつまらぬ邪推を招いたりするものだから、文若ぶんじゃく殿は昔から家でも好きな奏楽については一切発言しない子供だったのですよと、男は笑いながら言っている。

 これにはすかさず曹操が荀攸じゅんゆうはさらりと答えてくれるではないか。いつからお前はそんな小さなことを言う男になったのだ文若と文句を言うと、荀彧が「子供の頃から私はこうだと今、公達こうたつ殿が説明して下さいました。それに彼だからそういうことを言っても角が立たないのです」とつんとして返した。


 なにい、と曹操そうそうが冗談めかして怒る素振りを見せれば、隣の夏侯惇かこうとんがすかさず曹操の膝をドンと叩いて注意する。

「おい、あまり荀彧じゅんいくに文句を言うな。あとで俺がチクチク文句を言われる」

 夏侯淵かこうえんが吹き出して、うんうんと頷いている。

「殿の開かれた宴席だぞ公達こうたつ。茶など飲むな」

 誰かが荀攸を注意すると、曹操は頬杖をついた。


「いや。茶を所望していいなら私にも茶をくれ。

 最近飲み過ぎてこの辺がちくちくする。

 私はもうすぐ死ぬかもしれん」


 腹のあたりをさする曹操に夏侯惇は呆れた。

「それなら毎晩お前の月見酒に付き合わされてる俺もこのあたりがちくちくするしもうすぐ死ぬぞ。俺にも素晴らしい茶を寄越せ荀攸」


「駄目だぞ惇。お前は私がいいと言うまで先に死ぬことは許さんからな」


「お前が俺より先に死んだら一体誰が俺に死んでいいと言ってくれるんだ。

 おかしいだろその理論は……順番守れよ。

 ああ、それと言っとくが子桓しかんに死んでいいと言われても俺は絶対素直に死なんからな。あいつは子供の頃から色々面倒を見てきた。絶対俺を口煩い奴だと恨んでるに違いない」


元譲げんじょうの兄貴、奥方の前だぞ!」


 笑いながらだが、夏侯淵かこうえんは注意した。


「ったく気付けば魏軍の首脳年寄りばかりではないか。ここらで盛大に世代交代をしてやればいいんだよ」


 夏侯惇の悪態に、曹操が楽し気に笑っている。


「盛大にか」

「おお。湿っぽいのは無しだからな。派手にやれ派手に」


 それから、では若手の中では誰が良いかという話を曹操が臣下達に語らせ、聞く流れになった。


曹操と曹丕そうひはあまり親しくない父子だと聞いたが、その正妻である甄宓しんふつがその場にいても、曹操は政治や軍の話を避ける様子は全くなかった。


 その若手の話になっても、陸議は顔を上げず武将達の会話を音のように聞いていたが、時折聞こえてくる荀攸の穏やかな声だけがちゃんと聞き取れた。


 ……自分も色々な経験はして来たけれど、今よりももっと何も出来ない無力な時、打算なく自分を慕い従兄上あにうえと呼んでくれた人がいた。

 荀攸じゅんゆうが『叔父上おじうえ』と優しく荀彧じゅんいくを呼ぶ声は、少し彼が自分を呼ぶ言い方に似ている。



 公紀こうき



 建業けんぎょうに居を移してからは、陸家よりも大切なものが出来て、建業で出会う、良くも悪くも鮮烈な印象を与える人々のことで頭はいっぱいになってしまったけれど。



 ……彼だけは、


 彼のことだけは忘れてはいけなかったのだと陸議りくぎは思った。


 建業。

 

 陸家。


 孫呉。


 今どうなっているのだろう。

 呉には自分などより優れた人材は山ほどいる。

 これだけ長く姿を消していれば仔細がどうであろうと関わりなく、軍や政治は穴を埋めて歩み出していく。

 歩み出していかなくてはならないからだ。


 軍も政治も、自分の穴などとっくに補填されて、違う誰かが立派にその役を担っているだろうが、気懸かりなのは陸家だった。


 自分がいなくなったことで、陸績りくせきが何か厳しい立場に追いやられてはないだろうか?


 あの子はあまり、身体が強くはない。

 全て自分が代わりに背負ってやっているような気持ちになっていたが、結局全ての負担を負わせることになってしまった。

 陸績にだけは、申し訳ないという思いが吹き出してくる。


 その思いに押し潰されそうになっていた時、曹操が甄宓しんふつに「聞いたことがない曲を聞きたい」と願ったのだ。


 悲しげな旋律も、優しげな旋律も、どんな抑揚も彼女は思いのままに操った。

 普段あまりこうした芸事の鑑賞には興味がないというような感じの無骨な武人さえ、じっと彼女の演奏に聞き入っている。


 陸議りくぎもそうだった。


 今こんな心境と状況にあって、自分の中に音楽などに心惹かれる余白が残っているとは思いもしなかった。

 美しい演奏が終わり甄宓が深く伏して一礼すると、誰よりも早く満足げに頷きながら曹操が手を叩き、一斉にその場の者たちが同じように手を叩いて彼女の楽師としての才を讃えた。


「やはり、そなたの演奏は胸を突く。

 いつも典雅であるが、今宵のような激しい演奏も出来るのだな。

 まことに楽の天下ではそなたの右に出る者はおらん。甄宓。素晴らしい才だ」


「俺は世辞は言わん。俺が聞いて眠らんのはお前の演奏だけだぞ」


 夏侯惇もさすがに少しだけ優しげに目を細め、笑いながら彼女を誉め称えている。


「ううむ。そなたが長安におれば、退屈せぬのにな」


 甄宓も曹操の前では決して気の抜いた演奏など出来ない為、彼女と言えども全力だった。

 しかしこういった場では自分が曹丕そうひの為に出来ることはこれだけだったので、力を尽くした。


 密かに息が上がり額にうっすらと汗の玉が浮かんでいたが、甄宓はあくまで優雅に息を整える。

 その様子を曹操は眺めていた。


 甄宓は長安にやってきた頃、夫の曹丕とは不仲だったと言われている。

 そのことを、前の夫であった袁熙えんきを殺し自分を略奪した男だから信用出来なかったのだろうと言う者もいたが、曹操の見立ては違う。


 甄宓は慎み深くたおやかだったが、曹家の庇護がなくとも自分は生きていけるなどと思う馬鹿ではないと思ったのだ。

 初めて見た時彼女は心底怯えきっていて、それは自分の死さえすぐそこにあるのだと、信じた表情をしていた。

 殺される袁家の者達を見ていたからだ。


 あの、自分の情熱を外に出したがらない曹丕が、死さえ覚悟して怯えきっていた甄宓をどのように抱いて従順にさせたかなどさすがの曹操でも想像が出来なかったが、自分ならばと考えると何年経ってもあの時甄宓を曹丕に奪われたのは痛恨だったと思っている。


 それほど、当時の彼女の持つ拠り所を失った表情には色香があった。


 甄宓はほどなく懐妊したが彼女が子を身籠もってから、曹丕はまるでこれで一応の任は果たしたといわんばかりに甄宓のいる長安ちょうあんには姿を見せなくなって、夫婦の不仲の理由が甄宓ではなく、曹丕の方にあるのは明らかだった。


 曹操が曹丕をあまり気に入ってないのも、曹丕の持つこういった人間的な『くらさ』を好きになれないからなのだ。


 当時、仕方なく曹操の妻が甄宓を側で支えてやっていたが、彼自身『貴方が女を軽んじるから子桓しかんもそうしてもいいのだと思うようになったのだ』と随分説教された。


 子が生まれても曹丕は会いに来るどころか手紙一つ寄越さず、甄宓を労いよくやったと誉めることもなかった為、もしや子を側に置けば曹丕はその子を殺めるかもしれないとさえ思われて、養育は曹操の妻が任され今も息子の曹叡そうえいは長安にいる。


 その後夫婦には子はなく、仲が改善したとは到底思えなかったのに、いつしか甄宓しんふつは曹丕の居城で共に暮らすようになり、悲しみに萎れて行きそうだった表情に明るさが戻り、この大輪の花のような気配を纏うようになった。


 間違いなく、それは女が自分は愛されているのだと自身に満ち溢れている時に現れている変化であり、果たして曹丕が一度心が絶望した女に、心開かせるような才覚があっただろうかと疑問に思った。


 あったのだろう、そうあっさり答えたのは夏侯惇かこうとんである。


「甄宓がそうなったのならあったのだろうよ。

 いずれにせよお前は最初からあいつを気に入っていたが、俺は以前のしおしおした甄宓は気に食わなかった。折角大きな花なのにいつも萎れていて、つらを見るとこっちが落ち込んで来た。

 最近は明るく笑うようになっただろ。

 女はそれでいいんだ。

 俺は今のあいつの方が気に入ってる」


 曹丕ではなく甄宓が全てを諦めて尚、大輪の花を咲かせるような才ある女なのではないかと曹操は考え、一度宮廷の占術師に彼女を占わせてみたのだ。



【皇后になる宿星を持つ】



 甄宓はそう、占われた。

 非常に高貴な星の生まれらしく、複数に占わせたが全ての占術師が同じことを言った。


 やはり曹丕には惜しい女なのだ。

 今宵の演奏を見てもやはりそう思った。

 

 自分はもう時代の寵児ではないがもしこの女を今、身籠もらせることが出来、生まれてくる子供が男だったら。


 きっと曹叡そうえいなどよりも才覚のある者になるのではないか……曹操が、隣にいる夏侯惇に聞かせたら「悪い夢から俺が覚ましてやる」と言って殴りかかって来そうな悪いことを考えていた時だった。


 ――ふと気付いたのは曹操と、奇しくも賞賛の声に礼を言いながらも華やかな笑みを浮かべていた甄宓だった。

 彼女は肩越しに少し振り返る。

 その仕草で、他の武将達も気づいたようだった。


「そこの娘、いかがしたのだ」


 後ろの方に控えて顔はふせていたため、身動きさえしなければ指摘などされないと思っていたが、目敏く曹操から声が掛かり、陸議りくぎは正座のまま深く頭を下げた。

 床に涙の粒が落ちる。

 甄宓は一瞬誤魔化そうとしたが、それよりも曹操が続けた。


「そなたを咎めたわけではない」


 素晴らしい場を白けさせてはならぬため、甄宓は場合によっては他の楽師の娘に連れて行かせるところだったのだが、曹操は本当に気にしていないようだった。

 こういう場合この男相手には変に取り繕う方が機嫌を損ねるだろうと、一瞬で甄宓は判断し、成り行きを見守ることにした。


「陛下……この娘は最近私の側仕えになった佳珠かじゅと申します」


「そうか。そなたの側仕えはみな優秀だが、確かにまだ若いように見えるな。どんな理由でそなたが引き取ったのだ?」

「はい。実は……」

「構わん、今日はこの宴の主はそなたなのだからな」


 曹操が穏やかに笑いかけてくる。

 この男にとって女の涙の理由を気にかけるなど、気紛れ以外の何もない。


「はい。では……畏れながら……。

 佳珠は私がえん家にいた頃に仕えてくれた娘です。

 最近所在が分かり、貧しい暮らしをしており天涯孤独になっていましたので、私のもとで引き取りました」


 袁家、の名を出した途端曹操ではなくその隣にいた夏侯惇かこうとんの纏う空気がたちまち不穏なものに変わり、隻眼で顔を伏せたままの娘をぎろりと睨んだ。


「袁家の息が掛かったものではあるまいな」


 隠すこともなく、彼は斬りつけるように低い声で言ったが、甄宓は穏やかな表情を崩さずに、首を振る。


「最近では女の暗殺者も珍しくはない。お前は次期皇帝となる曹丕の妻だ。

 素性の分からん者を側に置くな。

 お前は無論、曹叡そうえいに何かあったらばどうする」


「はい。私の身の回りの人間は皆、曹娟そうけんに吟味させております。

 この娘もそうさせました。素性怪しきところはございませんでした」


「袁家に関わっているというのが良くないのだ」


 夏侯惇を籠絡するのは甄宓であっても容易くない。

 この男は女の愛嬌を死んでも認めないのだ。


 助け船を出したのは夏侯淵かこうえんだった。


「まあまあ元譲げんじょうの兄貴、何も泣いてる女をそんなに厳しく詰問しなくてもいいだろう。

 あの曹娟の人を見る目はなかなかだと兄貴もこの前言ってたじゃないか。

 曹娟は子桓しかん従妹いとこだ。曹家に害を与えそうなやつを近付けるはずない。

 それに、それを言ったら甄宓殿だって袁家に関わっているだろ」


「ふん、甄宓は子桓の妻で、曹叡の母ではないか。

 その娘は。縁者はいるのか。夫や家族は」


「まだ結婚はいたしておりません。弟が一人おりますがその者を守るために働く必要がありました。私がいずれ良き相手を縁付けてやるつもりでございます。弟以外の家族はおりません。皆死にました」


「そうか……では、そなたの家族を皆殺しにしたのは私達ということなのだな」


 甄宓は小さく息を飲んだ。


「それはさぞや、我々を恨みに思って当然であろうな」


 これは罠にかける問いだ。

 優しい曹操そうそうの声に答えてはいけないと甄宓はなんとか陸議を止めようとした。



「……いえ。

 袁家が滅んだ日、

 私は仕えるべき方が残っているのに、誰よりも早く館から逃げ出したのです。

 ですから、そのあとに私に降り懸かったことは全て私の行いへの報い。

 奥方様は私のような身分の低い侍女を覚えていて下さいました。

 そして良き衣を纏わせ、以前と変わらず側に来て良いと仰って下さったのです。

 私はその言葉に甘えてしまいましたが、

 慈悲を下さった奥方様のご迷惑になるならば今すぐこの場を去り、二度と奥方様の前に姿を現わさないと誓わせていただきます」



 泣いていた娘だったが明確にそう答えたので、頬杖をついてた曹操は、ほう、という顔になった。


「構わぬ。しかしその代わりその涙の理由を応えよ。

 失われた者に対しての悲しみか?

 それとも家族を根絶やしにした男が祝宴を開き、楽を聞き、

 笑っていることが許せぬ、悔し涙か?」


【乱世の奸雄かんゆう】と呼ばれる男の直視。


 で言えば、彼は孫策や周瑜のような存在だ。

 その前において不敬や偽りを言うことは、決して許されない。


 ……周瑜にもし、自分が陸家の人間であるから信用出来ないと言われたら今の自分はなかった。


 しかし自分が孫呉の中枢にいなければ龐統ほうとうはまだ生きていて、人生に絶望などせず生きて、生きているうちに何かが変わったかもしれない。

 

 諸葛亮しょかつりょうの穏やかな顔が浮かんだ。

 

 彼はずっと側にいればきっと、そういう変化を龐統に与えられた人間だったのはないかとそう思ってしまう。自分にその力は無くとも諸葛亮ならばそう出来たに違いない。


 そのことを思うと大粒の涙が零れたが、陸議りくぎの表情は静かなままだった。

 もはや龐統は死んだ。

 どれだけ彼を想って嘆こうと、生き返ってくれることは無い。

 彼を燃やして空に見送った時の光景が脳裏に蘇る。


 ただ涙だけが次々と零れていく。



「……ただひたすら申し訳なくて」



「申し訳ない?」


「……私は多くの人の支えがあったから、今この時まで生きて来れたのです。

 多くの優しい人や、その許しを受けて。

 何かひとつ足りなくてもきっと生きて来れなかった」


 内心悪くなって来た流れを警戒していた甄宓しんふつの唇がそっと綻ぶ。

 情に訴える陸議の方法は、曹操がこちらを女だと思っている限り、

 今の状況では一番有効だった。

 しかも陸議の言葉には偽りではない真摯さが宿っている。

 彼もまた戦で大事な人を失ったことがあるからだ。

 正体を偽っても、言葉は偽りではない。

 賢い青年だ。話の流れを見事に甄宓の演奏に感動していた、元の宴席の空気に戻した。


「奥方様の美しい笛の音を聞かせていただいて、

 今、生きているだけで幸せなのだと思ったら、溢れて来ました」


 周瑜しゅうゆに恩を返したかった。

 

 ……龐統ほうとうに、たった一度でもいいから笑ってほしかった。


 星の宿命のわだちの中で自由になれないまま、彼は死んだ。



(この世にはまだこれほど美しいものがあることを)



 周瑜が自分に教えてくれたように、

 自分も龐統に教えてやりたかった。


 この世の美しいもの。

 優しいもの。

 温かいもの。


 煌めく、全てのものを。



 例え自分がこの世からいなくなってもいい、

 ただひたすら自分は、彼には生きていて欲しかったのだと陸議は涙を零した。



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