第2話「語り出す執事、織紡師の目覚め」

「ひっ……!」


 パニックに陥った紡は、短い悲鳴と共に、思わずぬいぐるみを床に落としてしまった。ぬいぐるみは、しかし、床の上で猫のように軽やかに受け身を取り、何事もなかったかのように立ち上がる。そして、小さな手で燕尾服の埃を払うような、あまりに人間くさい仕草を見せた。


「やれやれ、手荒い挨拶じゃのう。だが、少し見ない間に、随分と腕を上げたようじゃな。見事な出来栄えじゃ」


「おじい……ちゃん…? まさか……だって、死んだはず…」


 恐怖で後ずさる紡に、ぬいぐるみ――祖父は、落ち着き払った口調で語りかけ始める。


「うむ。わしはお前の知る、月影つきかげ源三げんぞうじゃ。もっとも、今はこんな可愛らしいなりになってしまったがな」


「でも、どうして…? あの布は、一体…?」


「紡よ。お前は、ただの裁縫好きの娘ではない。我ら月影の家は、代々、この世ならざるものの力を布に変え、その力を操る『織紡師(おりつむぎし)』の血筋なのじゃ」


(織紡師…?)

 その言葉の意味が理解できず、紡はただ混乱するばかりだ。


「わしは、死ぬ間際に最後の力を振り絞り、自らの魂と知識の全てをあの布に封じ込めた。いずれお前が織紡師として目覚め、わしを見つけ出してくれると信じてな。あれは、わしの魂そのものじゃった」


 祖父の言葉に、紡の脳裏に「あの日」の記憶が、灼きつくようにフラッシュバックする。

 あの日――両親が不慮の事故でこの世を去ってから、紡の時間はぴたりと止まってしまった。

 実家にいた頃、深く沈み込んでいたソファは、三人で身を寄せ合って映画を見た場所。向かいの食卓の、あの椅子は、父がいつもの指定席にしていた場所。視界に入る全てのものが、失われた日々の幻影をちらつかせ、無人のはずの家に温かい幻聴を響かせる。

 あの家は、優しすぎる思い出でできた、牢獄だった。


 ……警察からは「居眠りか、ハンドル操作のミスだろう」と、ありふれた言葉で説明された。

 けれど、瞼の裏に焼き付いているのはそれだけではない。私の記憶の片隅には、どうしても消えない棘のように、あの異様な光景が突き刺さっているのだ。

 現場の地面に穿うがたれた、不自然なほど巨大な窪み。そんな常識では説明のつかない、ぞっとするような気配。


 あまりに非現実的な事態に、紡の頭はまだ追いつかない。けれど、孤独だったこの家に、たった一人の肉親の魂が再び現れた。その事実に、戸惑いと、そして確かな安堵が入り混じった、複雑な感情が胸を満たしていく。

 紡は、床に立つ小さな執事のぬいぐるみに、ゆっくりと近づいていった。そして、震える両手でそっと持ち上げる。ぬいぐるみは何も言わず、ただ琥珀色の瞳で、静かに紡を見つめ返していた。


「……おかえりなさい、おじいちゃん」


 その言葉は、か細く、しかしはっきりとしていた。

 こうして、心を閉ざした一人の女子高生と、喋る執事ぬいぐるみとの、奇妙で、そしてどこか温かい共同生活が、静かに幕を開けた。


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