桑都もののけ裁縫帖

タハノア

第1話「孤独の糸、再生の針」

 もう、あの家にはいられない。優しすぎる思い出は、時に牢獄になる。

 私は、逃げ出した。両親との記憶がほとんどない、この場所へ。


 夏草が生い茂る森の小径。世界中の音を吸い込むような蟬時雨の中、月影つきかげ つむぎ、十七歳は、古びたスーツケースの車輪を土にめり込ませながら、その家の前に立っていた。

 八王子市内の森に抱かれるように佇む、祖父が遺した古民家。手入れのされなくなった庭は少し荒れているが、不思議と不快感はない。まるで世界の喧騒から忘れ去られたかのように、その家はひっそりと時を止めている。

 実家での息が詰まるような苦しさが嘘のように、紡は深く、深く、肺の底まで満たすように息を吸うことができた。

(……静か。ここでなら、息ができるかもしれない)


 錆びた古い鍵で引き戸を開ける。カビと埃、そして懐かしい陽だまりのような木の匂いが、混じり合って鼻をついた。家の中は薄暗く、降り積もった埃のせいで、まるで時間の流れまでが止まっているかのようだ。

 荷物を土間に置くと、紡は靴を脱ぎ、ゆっくりと家の中を見て回った。居間、台所、陽当たりの良い縁側。どこも埃を被ってはいるが、乱雑なわけではない。そこには、祖父がこの家を大切に使い、丁寧に生きていた跡が確かに息づいていた。胸を締め付けるような悲しい思い出がないだけで、鋼のように張り詰めていた心が、ほんの少しだけ解けていくのを感じた。


 家の最も奥。紡は、一枚の古びた札に目が留まる。掠れた墨で書かれた、『工房』の二文字。その札のかかった襖に、紡は吸い寄せられるように、そっと手をかけた。心の奥で、忘れていた何かが小さく高鳴るのを感じる。

 ゆっくりと襖を開いた瞬間、紡は思わず息をのんだ。


「わ……」


 そこは、息を呑むほど美しい、色彩の宝物庫だった。

 壁一面に作り付けられた棚には、空の青、森の緑、夕焼けの茜、夜の闇……世界中の色を溶かし込んだかのような膨大な糸玉や反物が、まるで生きているかのように並んでいる。整然と、しかし圧倒的な物量で。

 部屋の中央には、無数の傷や染みが刻まれた大きな作業台。主を失って久しいはずなのに、その場所だけは、今も誰かの創作の熱が冷めやらぬかのような、不思議な空気を宿していた。

 紡は、その光景にただ心を奪われ、立ち尽くしていた。ふらふらと棚に近づき、並んだ布や糸を指でなぞっていく。指先に伝わる柔らかな感触。その一つ一つに、作り手の温もりが宿っているかのようだ。


 ふと、棚の一番高い場所、埃を被った桐の木箱に気づく。脚立を運び、軋む音に構わずよじ登る。古びた木箱をそっと下ろし、乾いた布で表面の埃を丁寧に拭うと、紡は息をのんでゆっくりと蓋を開けた。


(きれい……)


 箱の中に横たわっていたのは、一枚の布だった。

 ビロードのように滑らかでありながら、どこか冷たい手触り。それは、澄み切った冬の夜空をそのまま切り取って溶かし込んだような、深く、静謐な藍色をしていた。まるで布自体が星屑の光を吸い込んで、微かに発光しているかのようだ。他のどの布とも違う、吸い込まれるような質感と、清浄でありながらも何か異質なオーラ。

 紡は、その布から目が離せなくなった。


(この布で、何かを作りたい)


 それは、衝動というにはあまりに静かで、しかし心の奥底から湧き上がる、抗いがたい欲求だった。誰かに見せるためでも、何かに使うためでもない。ただ、この布に形を与えたい。魂の奥底からの純粋な欲求が、凍てついていた紡の心を突き動かした。


 それから数日間、工房にはミシンの軽快な音と、針が布を規則正しく打つ音だけが響いていた。紡は、あの藍色の布を使い、何かに取り憑かれたように、一心不乱に「執事服を着たぬいぐるみ」を縫っていた。

 彼女の脳裏に無意識のうちに浮かんでいたのは、一つの鮮明なイメージ。

 孤独な自分に、ただ静かに寄り添ってくれる存在。穏やかで、知的で、決して自分を否定しない、絶対的な味方――。

 その漠然とした、しかし切実な願いを、紡は一針一針、布に託していく。仕立ての良い、精巧な執事服のパーツ。刺繍糸で縫い上げる、涼やかで端正な目鼻。


ちく、ちく……


 針が布を貫く微かな音だけが、工房に響き渡る。その緻密で規則的な繰り返しに没頭するうち、ささくれ立っていた心は静かな湖面のように凪いでいき、浅く荒れていた呼吸はいつしか深く穏やかなものへと変わっていた。


 そして、ついにその時が来た。

 夕日が差し込む工房。紡は、完成した執事服のぬいぐるみを手に取り、最後の一針を縫い終えた。そして、よく研がれた裁ちばさみを、緊張とともに握りしめる。

 余った糸を、「パチン」と、小気味よい音を立てて切る。


 その、瞬間だった。


 刺繍で固く閉じられていたぬいぐるみが――その両目が、カッと微かな音を立てて見開かれた。

 琥珀色のガラス玉であるはずの瞳が、確かな意志の光を宿して、まっすぐに紡を捉えている。


「え……」


 驚きに、紡の息が止まる。手のひらの上で、ぬいぐるみが「もぞり」と微かに動いた。布と綿でできたはずの体が、まるで呼吸をするかのように僅かに膨らみ、そして、自らの力でゆっくりと立ち上がったのだ。

 身長三十センチほどの、完璧な執事姿のぬいぐるみ。その動きは滑らかで、関節がないとは思えないほど自然だった。

 声も出せない。紡はただ、目の前で起きている非現実的な光景を、信じられないものを見る目で見つめていた。


「……ようやく目覚めたか、紡」


 威厳のある、しかし心の奥底に眠る記憶を揺さぶるような、懐かしい声が響いた。


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