第4話

◆記憶喪失で海外にいたら、それは異世界転生か?


「現代社会において“自分とは誰か”という問いは、記憶や履歴情報によって成立している。

それが失われたとき、人はアイデンティティの“初期化”を経験することになる。

だから記憶喪失は、“心理的な異世界転生”と呼べるかもしれません」


神経心理学の堀正敏(ほりまさとし)教授によれば、これは単なる比喩ではなく、医療・司法・社会学の現場でも現実的に観察される現象だという。


たとえば記憶喪失の患者が新たな名を名乗り、新しいコミュニティに適応して生き始めるケース。

「自分が誰か」を忘れても、「これから何者になりたいか」は選べるのだ。


だとすれば──私たちが異世界転生モノに惹かれるのは、「異世界に行きたい」からではなく、

「今とは違う自分になりたい」「やり直したい」という、根源的な欲望なのかもしれない。


それは遠い星の魔法世界でなくても、現実の隣にある。


失敗しても、忘れても、孤立しても、そこから“再構築”できる。


異世界転生とは、生き直しの物語であると同時に、現実でも我々が、時に必要とする“フィクションの力”なのだ。




文・構成:山田ソウタ(ライター/文化誌「リレキ」編集部)

撮影:斉藤明里




*   *   *   *   *   *   *   *   *   * 




第4話 デートと襲撃


 初めての休日。

 リラに誘われて、街を散策することになった。


 人通りの多い中央通りを歩きながら、普段通らない脇道や小路をのんびりと練り歩く。

 異国風の石造りの街並みに、どこかヨーロッパを思わせる店先やカフェのテラス。ここが異世界であることを、ふと忘れそうになる。



 途中、小さな文房具屋を見つけて立ち寄った。

 俺は手帳とペンを買い、その場で今日の道順や気になった店の名前を書き留めていく。


「見たり聞いたりしたことを、すぐにメモするのが好きなんだ」


「ノートもすごく綺麗に書いてますよね。字も上手だし」


 照れるような、でも少しうれしい気持ちになる。

 こんな風に何気ないやりとりができる相手がいるのは、思っていたより安心感があった。



 散策の途中で、学校や図書館、時計台、教会なんかも見つけた。

 ちょっとした観光気分だ。見るものすべてが新鮮で、どれも興味深い。

 


 露店の屋台でホットドッグを買い、公園のベンチに腰掛ける。

 噴水の音と、遠くで子どもたちが遊ぶ声が心地いい。


 リラはホットドッグの端を少しかじってから、ふと思い出したように尋ねた。


「ねえ、ハルトさんって……何歳か聞いてもいいですか?」


「うーん、わからないけど……たぶん、君と同じくらいじゃないかな」


 記憶がない以上、正確な年齢は不明だが、自分でもだいたい二十代前半だという感覚がある。


「私は22歳。ハルトさんはもっと年上かと思ってました。落ち着いてるから」


「俺もリラさんのほうが大人っぽいと思ってたよ。てっきり同い年か、年上かなって」


「よく言われます。年上っぽいって」

 リラは少し得意げに笑った。


「敬語、やめようか?」と俺が提案する。

 急に話し方を変えるのは照れくさいが、ずっとこのままだと距離も縮まらない気がして。


「そうですね……あ、うん。じゃあ、お互い同い年ってことにしよう」

 リラはほんの少し戸惑ったあと、言い直すように言葉を砕いた。

 その微妙な変化が、なんだかうれしい。


「それに、リラさんのほうが一か月くらい先に転生してて、俺より先輩だしな」


「“リラ”でいいよ」

 さらっとそう言われて、どきっとする。


「いきなり呼び捨てはちょっと照れるな……」


「苗字だと思えば、抵抗なくなるんじゃない?」


「リラって苗字なの?」


「さあ? “リラ”ってだけ申請したの。だから、この世界では私はリラ、それだけ」

 あっけらかんとした口調に、少し肩の力が抜けた。




 日が暮れはじめた頃、宿の前まで戻ってきた。

 夕焼けが石畳の道を照らし、建物の影が長く伸びている。


「じゃあ、また明日ね。ハルトくん」

 振り返ったリラの声は、少しだけ明るかった。


「……ああ。また明日、リラ」


 まだ少しぎこちない。

 でも、その距離が、これから変わっていく気がした。








 平日は授業、休日は街の散策か道場通い。

 龍馬さんの勧めで、護身術の稽古を始めたのだ。リラも付き合う形で一緒に通っている。


 そんな生活が、あっという間に二か月ほど続いた。


 今では、エスペラント語での日常会話にはほとんど困らなくなった。授業もエスペラントで行われている。

 歴史、地理、文化など、この世界の一般常識も一通り頭に入ってきたと思う。


 特に驚いたのは、世界の地形が“現実世界とほぼ同じ”であることだった。

 この街セントリアは、位置的に言えば東京の千代田区──つまり、日本の中枢と重なる場所にあるという。

 地図を見たときには、さすがに言葉を失った。


 魔法の訓練も順調だった。

 今では、離れた標的を火花で発火させるくらいのことはできる。

 魔法陣も呪文も必要ない。ただ、強くイメージするだけだ。


 ただし、魔法を使えるのは今のところ俺だけだった。

 リラも帰宅時間を合わせるために訓練に参加しているが、超能力も魔法も成功していない。

 そもそも、この世界では魔法が当たり前ではない。俺だけが特別なのか? それとも何か別の理由があるのか──疑問は尽きない。


 ある日の訓練後、ユーノさんがいつもの調子で話しかけてきた。


「今ね、科学ギルドと医療ギルドの共同研究で“コンドーム”を開発してるんだ。試作品がいっぱいあるんだけど……いくつか持っていくかい?」


 エスペラントでの会話に慣れてきた分、ユーノさんの“余計なひと言”はダイレクトに伝わってくるようになっていた。

 しかも、最近は明らかに加速している。


「要りません」


 きっぱりと断る俺の横で、リラが無言でユーノさんに冷たい視線を送る。

 ユーノさんは「あら怖い」と肩をすくめて笑った。


 ──俺の異世界生活のスタートは、それなりに順調で、穏やかな日々だった。


 ……その時までは。


 


 その夜、いつものように龍馬さんと三人で《池田屋》へ向かった。

 この街で唯一、日本語が通じる和食屋。看板は無いけれど、龍馬さんは《池田屋》と呼んでいた。


「今日のおすすめは鯖の味噌煮ぜよ。ほれ、食って食って」


 龍馬の豪快な笑い声を肴に、俺とリラは箸を進めた。和食の温かみが腹に染みる。こんな夜が、ずっと続く気さえしていた。


 


 ──その時だった。


 遠くで、「ドン……ドンッ……!」と、重い破裂音が響いた。


「……花火か?」


 俺が言うより早く、龍馬さんは立ち上がっていた。表情が一変している。


「おまんら、ここで待っちょれ。わしが見てくるき」


 そう言い残して、龍馬さんは階段を駆け下りていった。


 


 ──数十秒後。


 隣の部屋との仕切り襖が、「ドンッ!」と音を立てて蹴破られた。


「ッ!?」


 畳を踏みしめて入ってきたのは、顔を覆面で隠した数人の男たち。着流し姿に帯刀。まるで時代劇のテロリスト。目だけがぎらついている。


「な──」と声を上げる間もなく、俺たちは床に押し倒された。


 手足を押さえつけられ、口を塞がれ、背中で縄をきつく縛られる。

 動こうにも、相手の動きが早くて的確すぎる。まるで訓練された兵隊のようだった。


 隣から、リラの小さな呻き声が聞こえる。


 


 その時──


 一階から物音がした。

 龍馬さん……!?


 何かが割れる音……叫び声、誰かの悲鳴、そして……


 ──甲高い、女の子のような笑い声。


 テロリストたちが一瞬動きを止めたかと思うと、一斉に刀を抜き、続々と部屋の外へと消えていく。


 


 ──部屋には俺とリラだけが残された。


 すぐに集中し、両手の縄に意識を向ける。

 指先に熱を集中させ、火を点すイメージ。静かに、確実に。


「くそ……焦るな……焦るな……」


 ジリジリと火種が縄を焦がす。皮膚に熱が伝わるが、構わず続けた。

 ようやく縄が緩んだ。すぐさまリラのそばに身を寄せる。


「リラ、大丈夫か……? 今、解くから……!」


 リラの目が揺れている。だが、必死に堪えていた。


 その瞬間。


 ──襖が、開いた。


 


 反射的にリラの前に立つ。右腕を伸ばし、魔法を使える態勢に入る。


 だが、そこに立っていたのは──


 


 返り血に染まった青年だった。


 まだ幼さすら残る顔立ちに、爛々と輝く目。唇の端は吊り上がり、狂気をはらんだ笑みを浮かべている。


 その気配に中てられたように、俺の背筋が凍った。


 


 ──次の瞬間、二人の刺客が左右から襖越しに飛び込んでくる。


 抜き身の刃が、青年めがけて交差する。


 


「──っ!」


 思わず息を呑んだ刹那、青年は身体をわずかに傾け、手首を返すようにして斬り上げた。


 


 ひゅっ、と空気を裂く音。


 何が起きたのか理解する間もなく、二人の男は断末魔すら上げぬまま崩れ落ちた。


 


「ひゃはっ……!」


 青年は血の滴る刀をくるりと回し、ケタケタと楽しげに笑う。


 その様子は、まるで遊びに興じる子どものようだった。


 


 血に染まった浅葱色の羽織に、だんだら模様。


 背には──“誠”の一文字。


 


 青年は刀を鞘に納め、額の血を袖で拭い、ふとこちらに向き直る。


 そして、さっきまでとは別人のような穏やかな笑顔を浮かべて、静かに言った。


 


「もう、大丈夫ですよ」


 


 ──新選組、沖田総司だった。

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