第15話 噂
事件発生から三日が経過した。
にもかかわらず、英明学園には、いつものざわめきも、誰もが慣れ親しんだ昼休みの光景も戻ってこなかった。
むしろ沈黙は、ますます色濃く、湿度の高い噂話とともに校内を覆い尽くしていた。
「ねえ……聞いた?吉本、薬やってたんだって」
「は?ただの自殺じゃなかったの?」
「違うよ、ほら、あいつちょっと挙動不審だったじゃん。前からなんか変だったし」
「薬物中毒で飛び降りたとか?マジでやばくない?」
「しかも未指定薬物って、ニュースで見たことあるやつじゃない?」
「合法ドラッグ……ってやつ?」
――その内容に真実などない。だが、情報源を問う者はいなかった。
生徒たちの間では、「薬物中毒」や「自殺」、「突発性の精神錯乱」といった言葉が、日常会話に混じるように語られていた。
「つーかさ、笹本って合田にガチだったらしいじゃん?」
「え、マジで?」
「だって、去年の文化祭のラストシーン、わざわざ合田に合わせて脚本変更したんだぞ」
「えぐ……。そこに吉本が割り込んできたってこと?」
「そういうこと。で、部内でくっそ気まずくなって、最終的に……あれだよ」
「でもさ、主役とるくらいってことは、吉本、演技上手かったんじゃね?」
「それが逆にムカつかれてた説もある」
「笹本、プライド高そうだしな……」
昼休みの教室では、手にしたパンを口に運ぶ女子が、LINEの画面を見ながら眉をひそめる。
「“名門校の生徒、薬物中毒で転落死”……これって、ウチじゃない?」
「間違いなくそうだよ。名前は出てないけど」
「ねえ、聞いた?吉本先輩ってさ、笹本先輩が好きだった合田先輩と付き合い始めたんだって」
「え、それって三角関係ってやつじゃん……えぐ……」
「だから最近、演劇部の空気ギスってたのかも」
「しかも、あの週に主役のオーディションあったんでしょ?」
「そうそう。で、吉本先輩が主役に選ばれたって話じゃん?」
「笹本先輩、悔しそうだったって……見た人が言ってた」
「“あんな地味なのが?”って言ってたとか言ってないとか……」
「え、それ本当に言ったの?」
「さあね。でも、そういうのって、火のないところに――でしょ?」
「だよね……笹本先輩が殺したんじゃないの?吉本先輩は突き落とされたって噂あるし」
「怖……。笹本先輩、理事長の娘だよ?」
誰が言ったかも分からない言葉は、いつの間にかクラス中を、そして学年を超えて校内中を駆け巡っていた。
沈黙する教師たち。対応を避ける職員室。
唯一掲示されたのは、「生徒の不慮の事故について」という曖昧な文書だけだった。公式な発表があいまいであるほど、人々の“想像”は過熱する。
「笹本先輩……何か隠してるって、絶対」
「だって、合鍵持ってたんでしょ?屋上の」
「事件当日の夜、鍵が開いてたってことは――」
放課後、図書室。
誰も声を出さない空間に、ぱらりとページをめくる音だけが響いていた。
斎藤竜馬は、目の前の辞書を閉じると、静かに視線を上げた。
その向かいには、鈴木彩。手に持った参考書に目を落としながらも、思考は明らかに別の場所をさまよっていた。
「……聞いたろ?笹本先輩が“やった”って話」
「聞いた。どこでも話してる」
彩の声は静かだったが、その響きには確かな怒りと疲労が滲んでいた。
「流れ方が不自然なんだよな。誰が最初に言ったのかも分からないのに、噂だけが一気に校内を飲み込んでる」
「何か、意図的に流してる人がいるってこと?」
竜馬は肯定も否定もせず、しばらく沈黙を置いてから、ぽつりと答えた。
「父さん――警察が、薬物の成分調べてる。未指定薬物が血中から出たって」
「そんな……まさか……」
「でも、吉本先輩がそんなものに手を出すようには見えなかった。だろ?」
彩は小さく頷いた。
吉本は、無口ではあったが誰にでも礼儀正しく、何より演技に対する熱意は演劇部内でも有名だった。
「彼女が、自分で薬を使って……って、どうしても思えない」
「俺も。だから、もし誰かが“使わせた”んだとしたら……」
竜馬の言葉は、途中で切れた。
声にするには、あまりにも重すぎる仮説だった。
同じ頃、理事長室では、静かな緊急会議が行われていた。
「屋上の鍵は、生徒の手には渡らないはずだったのです」
笹本圭介理事長の声には、感情がなかった。
その傍らに立つ教頭が、重ねるように話す。
「笹本花恋さんには、理事長の許可のもと、演劇部活動のため合鍵を貸与していたと聞いております」
「はい。それは私の責任です。しかし、事件と娘が関係していると断定される筋合いはない」
「現に、生徒たちの間では“笹本花恋が突き落とした”という噂が……」
「それが事実だという証拠はない。生徒の無責任な言葉に、我々が揺らいではならないのでは?」
その言葉の裏には、“うちの娘を疑うな”という、父親としての強硬な意志が透けて見えた。
会議室の空気が、言い知れぬ圧で凍りついていた。
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