第3話前編:旅立ちの俱生姫(ハートが帰らない)
――屋根のない家に雨が吹き込むように……――
それから千と数百年。
嵐に見舞われた廃寺。
――朽ちていた。
黒ずむ柱、きしむ床。
半ば苔むす壁と、隙間だらけの
生きてゆく。
それだけでも殊更に苦しい時代。
そんな、焼香の名残が、やけにむなしい建物に避難する
本堂に駆けこむや否や、外にあった草鞋の持ち主。
男の胸に、飛び込んだ。
「はぁ、はぁ、芯から冷えそうですわ……。
ごめんなさいませ、あなたは?」
「拙僧は旅の者だ、ある人物を探しておる」
「もし、旅の方……。
あなたさえよろしければ、温めてくださらない?」
「あ、あぁ、勿論だとも」
「ありがとう、優しいのね。あなた、お名前は?」
「拙僧は
物憂げな表情をいっぱいに、上目遣いで知詠を見つめる麗人。
「名前なんて……。
知詠様の、好きに呼んでくださいまし」
男は麗人の放つ、次元の違う色香に、この者こそ自分が探す人物だと直感した。
「そうか。
――もし救いを求めるのであれば、読経いたすが、いかがかな?」
「読経?
それもいいわね。
あなたの声、素敵だもの……」
見つめられて思わず、生唾を飲む知詠。
「でも、折角の二人きりの時間。
そんなつまらないことで、溶かしたくないじゃありませんか……」
「化生め……。
拙僧を誘惑するか。
貴様を探しに、大勢の者が差し向けられておるぞ」
「そうみたいね。
でも、あなただけは、私の心を救ってくださると思って、この胸に飛び込んでしまったの……」
ツツと、知詠の胸が指先でなぞられる。
「うっ、迷える者を救うことこそ、我が使命……」
「救い方にも、色々あるでしょう?
ねぇ~ん……」
「くぅっ……!」
「得体の知れないわらわに、怯えているのね。
でも大丈夫。
あなたに痛いことなんて、絶対にしないわ。
誓ってもいい」
「ふぅう、ふぅう……」
震える手で、必死に数珠を握りしめる知詠。
「怖がらないで、勇気ある人。
わらわを追って、ここまで至ったんだもの。
もうそれだけできっと、みんなあなたを尊敬しちゃう……」
「はぁあ、はぁあ……」
しかし先ほどから吐息の漏れる度、決意の<ruby>法衣<rt>ほうえ</rt></ruby>が一枚、また一枚と剝がれてゆく。
――――楽になってしまいたい。
「あなただって、みすみす命を落としたくはないでしょう、分かるわ。
わらわと同じ。
でも、わらわはそんなに簡単に死ぬこともできないの。
――溶け合いましょう。
二人きりの、快楽のるつぼへ……」
「無念……。
この身はしばし貴様にっ――。
おぉーーーー、うふぅ!
――預けようぞ……」
麗人は、知詠の中に容易く侵入する。
知詠を後ろから抱いた姿勢のまま、その鼻腔と耳穴に向けて、指先と髪の毛先から細線を這わせて。
「
楽しみ尽くしてくだ、さい、な?」
喘ぎと断末魔の、絶頂を経て、知詠は白髪になり、呆けるように果ててしまった。
「――――救いじゃ。
この坊主は、辛い役割から解放された。
やはり、わらわほどの女、どこを探してもおるまいよ……」
細い三日月のように鋭く裂ける口唇。
――雨は続いた。
――麗人が歩いていた。
親子とすれ違う。
母親が子供と手を繋ぎ歩いているが、子供はというと、宙ぶらりん。
足は地に着かず、むしろ接地する度に石で削られ、出血すらしていた。
そんな親子とすれ違う。
「あら、美しい貴人様がやってきたねぇ、ぼくぅ」
「ご機嫌麗しゅう、お子様ですか?」
「えぇ。
あたしゃこの子が可愛くてかわいくて、甘やかしすぎちゃうくらいで……」
言いながら、子供の髪の毛をつかみ、持ち上げ、抱っこする母親。
子供は泣き出しこそしないが、「うぐぅ」と痛そうに耐えている。
「そうなんですねぇ。
こんなに優しいお母さんで良かったね、ぼくぅ」
「――コイツだっ!!」
麗人に、矢の雨が襲い掛かる。
走って逃げ去ろうとするも、人の壁が立ちはだかる。
そう簡単には、抜けられない。
即座に強固になってゆく包囲網。
無数の足音が、押し寄せてくる。
ところで包囲している全員が、鬼の形相で麗人を睨みつけている。
中には、知詠の白髪束や、いろんな人間の遺品らしき物を持つ者らが混じっている。
見回し、後ずさる麗人。
読経の声色と鬼の形相に囲まれながら矢の雨に曝されているうち、麗人の表情が明らかに変わった。
『何なの、これぇ……』
「……逃がすな、殺せ!」
「……囲め、囲め!」
大きく飛翔し、包囲を抜けるも、足が言うことを利かないように、力が入らない。
『なんで?なんで?』
なおも憤怒の大軍が、麗人を追い詰める。
『許して!ゆるして!』
「……ゆるしてっっ!!!」
思わず、叫んでいた。
どれだけの矢に打たれようとも、身体は傷つかない。
しかし、震えが止まらないのだった。
自分の内から、得も知れぬ感情が沸いてくるのを、抑えられぬのだった。
「いや、いやあああああああああ!!」
怒り狂い、「許さん!」と叫びながらも、隣人とは手を取り合うようにしておいて、こちらへ向けては容赦もなく、練り上げた殺意を打ちつけてくる人の波。
見てきた。
これまでに、何度も、見てきた。
「化生の貴様が!
家族……、人間の持つ慈しみなど、知るはずもあるまいと思うてたわ!」
「慈しみ……」
ある男の姿が、嫌でも思い出される。
そのうち、駆け抜ける麗人には、いつやら火矢と油が放たれていた。火を纏いながら、姿を不定形にグニャグニャと変化させて、どことも知れずに逃げ込む。
足にもどこにも、力が入らない。
とにかく、人の影がない場所へ、人の気配がない場所へと逃げ込んでいるうち、硫化水素の溢れた、荒涼とした原にたどり着いた。
疲れ果て、地に伏した身体は、ついに変化をやめて、そこにあることをも拒絶したいかのように、硬く冷たく固まった。
少しずつ地に張りつく、バサバサの髪。
焼けてくすんで、ひび割れた肌。
考えることすら、やめたかった。
閉じこもりたかった。
「うあああああああああああああああああああああああああああ」
嗚咽の気配もない、乾いた絶叫。
鼻腔を刺すように、孤独を誘う硫黄臭にまみれて。
だからか誰にも届かない、乾いた絶叫。
望んだわけでもなしに。風が止んだ。
――人の求めに、応えようとした。
尽くした。
――だが、結末はいつも、同じだった。
生命からの拒絶――。
そして、取り残される。
「わからぬ。
わらわには、わからぬ……。
どうしてこうなるのじゃ?
もう、疲れた――」
誰に問うでもなく呟いた声が、溶けて消えた。
魂が失語する。
意志が内側に沈む。
そこに在るのは、もはやただの石ではなかった。
――愛や慈しみを解さぬままに人の欲を焼き尽くし、『ただあるだけで、世界に害をなす自分』という、痛恨の現実を喉元に突き付けられた、絶望の塊――
那須野のだだっ広い原を、静寂だけが、支配した。
第3話 続く
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