第6話

 テレビ局の、コンクリートの匂いが充満する地下駐車場。愛車のキーを操作すると、少し奥まった場所で眠っていた、深く艶やかな紺色のボディが、ヘッドライトを点滅させて応える。流れるようなティアドロップ型のクーペ。クラシックな曲線美を持つ、私の唯一の相棒だ。


 凛羽さんは、その姿を見て、今度はため息のような、感嘆の息を漏らす。「昨夜は暗くてよく見えませんでしたが……タルボ・ラーゴですね。美しい」


「はは、そう見えますかね。まあ、このガワだけ借りた、なんちゃって仕様ですけどね」


 昨夜の雨の中では気づかなかった細部を、じっくりと目で追っているのがわかる。


 助手席のドアを開けて促すと、彼女は昨夜のようなためらいは見せず、どこか神聖なものに触れるかのように、静かにシートに収まる。


 都心の喧騒を抜け、湾岸道路に出ると、私はアクセルをぐっと踏み込む。

 昨夜、雨に濡れたアスファルトを慎重に走ったときとは違い、雲ひとつない空の下、見通しの良い道路が果てしなく伸びている。

風が開けた窓から勢いよく流れ込んできて、体を包み込むようだ。



「うわっ!」
最初の鋭いカーブで、凛羽さんの隣から小さな悲鳴が上がる。


 視線を送ると、彼女は窓の外を向き、平静を装っている。けれど、その指先は血の気を失うほど白くなるまで、ドアのアシストグリップを固く、固く握りしめている。


「大丈夫ですか?」


「……ええ」


「ははっ、ごめんなさい! 今回はサービスで、スリル多めにしてみました!」悪戯っぽく笑いかけると、彼女は少しだけ私を睨む。


 会議室で見たあの鉄壁の表情とは違い、わずかに感情が揺れているのが分かる。その小さな変化で、先ほどの会議よりずっと人間らしさが増す。



 私はさらにアクセルを踏み込む。エンジンが、心地よい咆哮を上げる。風景が、色を失って後ろへ飛び去っていく。
車体が軽く弾かれ、横滑りを起こし、タイヤは路面を掴み損ねる。



 張りつめた空気の中、息を呑む音が、はっきりと耳に届く。



「ちょっ、高月さん!」


「大丈夫ですよ、ちゃんと制御してますから!」


 口ではそう言いながらも、わざと少しだけテールを滑らせる。彼女の声が、とどろくエンジンの唸りと風の音にかき消されていく。
 


 やがて、何かを諦めたように彼女がぐったりとシートに背を預けるのを確認し、私は軽くアクセルを緩め、ほんの少しスピードを落とす。


 連続する急カーブを抜けると、街の灯りが遠ざかり、海沿いの直線道路が闇の中に延びる。エンジン音は落ち着いた低音に変わり、窓から流れ込む夜風が車内の熱気を優しくそらっていく。



 彼女はようやく呼吸を整え、助手席から車内へと視線を巡らせる。鋭い眼差しが、ダッシュボードの質感からシートのステッチに至るまで、細部を探るように丹念に追っていく。


「高月さん」


「うん?」


「この車……内装は往年のデザインに忠実ですね。それなのに、どうしてでしょう……高月さんに吸い付くような感覚がする。古い車特有の、あの扱いにくさが全くない」


 昨夜、「中身は現代仕様だ」とは伝えた。けれど、彼女は奥に隠された意味を理解している。この車の秘密を、いともたやすく、彼女は見抜いてしまった。
ステアリングを握る指先に、微かな熱が宿っていくのがわかる。


「ふふっ……嬉しいですね、そこまで分かってもらえると」
笑いかけると、彼女はわずかに興味を示すように目を細める。


「この車は、どこで手に入れられたんですか?」


「これはね、とあるメーカーの一部門が、昔の名車に現代技術で復刻させた、特注モデルなんです。幸運にも、そのプロジェクトに少しだけ関わらせてもらう機会があって。見た目はどこまでもクラシックですけど、心臓部や乗り心地は全くの別物。昨夜、言った通りですよ」


「特注……なるほど……」納得したように頷き、再び車内をゆっくりと見渡す。

「ええ、まあ。でも、面白いでしょ?この絶妙なバランス感覚をデザインしてくれたのは、プロのエンジニアやデザイナーじゃなかったんですよ」

「……どういうことです?」

「メーカーの担当者から聞いた話なんですけどね」
 


 そう前置きして、メーカーの担当者から聞いた話を思い出す。


「このプロジェクトにね、アドバイザーとしてちょっと変わった子が一人関わっていたそうなんです。本業は全然違うらしいんですけど、物の本質を見抜く目が桁違いで、人がどう感じるかっていうのを全然違う角度から見てるんですよね。その子の『これは、こうあるべき』っていう一言が、この車の乗り心地を決定づけたと言ってもいいくらいで」


「そうなんですか」横顔を見ると、新たな好奇心とわずかな違和感が入り混じった、複雑な影が落ちているのがわかる。


 そんなことを考えているうちに、車は再び速度を上げていく。



 夕陽が水平線を茜色に染め渡る頃、私は車を海沿いの休憩スポットに滑り込ませる。エンジンを止めると、嘘のような静寂が車内を包む。


「……着きましたよ」


 

 彼女はゆっくりと顔を上げる。激しいドライブのせいで、瞳はいつもより水分を多く含んで、わずかに潤んで見える。血の気の引いていた頬には、逆に熱が戻り、ほんのりと上気している。


 二人で車を降り、自動販売機で買ったミネラルウォーターを飲む。潮風が、火照った肌に心地いい。


「どうです? 楽しかったでしょ?」
ニヤリと笑いかけると、彼女は深いため息をつく。


「楽しかった、というより……命の危険を感じました」

「あはは、ごめんって。次は酔い止め飲んでくれば、もっと楽しめますよ」

「……次が、あるんですか」


「え? あ、いや……その、嫌じゃなければ、ですけど」
しどろもどろになる私を見て、本当にわずかに、口元を緩める。

「運転、ずいぶん慣れているんですね」


「まあ、趣味というか……ストレス発散……ううん、なんでもないです」
「けど、少しだけ……わかった気がします。あなたが、なぜこれを好きなのか」



 何気ない一言に、心臓の鼓動まで早まる気がする。「凛羽さんにも、あります? ストレス発散したい、って思うこと」


 彼女は夕陽に染まる海をじっと見つめ、しばらく考えて「……ある、かもしれません」


 その答えだけで十分だ。
私たちは、きっと似ている。違う世界で、違う鎧を着て、でも同じように何かと戦っている。


「ねえ、凛羽さん」


「はい」


「次は、ちゃんと連絡先、もらってもいいですか?」
つい笑みがこぼれ、夕暮れの凪いだ空気に溶けていく。

 
彼女は、何も言わない。
いつもは静かな光をたたえている瞳の奥で、小さな波紋が広がったのが見える。


 視線が、私の顔と自分の足元、そして遠い水平線の間を行き来している。固く結ばれた唇が、一度だけ何かを言いかけるものの、音にはならずにすぐ閉じられる。


 
しばらくして、彼女は息を長く漏らし、肩ごと力を抜く。観念したように小さく頷き、スーツのポケットからスマートフォンを取り出して、私に差し出す。画面に表示されたQRコードを、私は自分のスマホで読み取る。


 ピッ、と軽い電子音が鳴り、彼女の名前と番号が私の連絡先リストに加わる。小さな画面越しに、熱を帯びた繋がりが伝わってくる。まだ輪郭も定まらない何かが、胸の奥で静かに広がり、ゆっくりと動き出している。


 凛羽さんを駅のロータリーで降ろし、走り去る車窓から、小さくなっていく彼女の後ろ姿を見送る。車内にはまだ、彼女が残していった微かな香りがする。心地よい疲労感が、それを上回るほど満ちている。



 家に帰り着き、熱いシャワーで今日の出来事を一度洗い流す。それでも、肌に残った潮風の匂いが、あの夕暮れの光景を何度も呼び覚ます。


 バスルームから出て、クローゼットを開ける。奥に鎮座する、小さなスーツケースが、ふと目に留まった。


 
そうだ、北海道へ行くんだ――

 

 今日の会議で、唐突に言い渡された指令。北海道、と聞こえた気がする。新しい特集企画の、最初のロケハンと打ち合わせ。


 
スーツケースをベッドの上に広げ、慣れた手つきで荷物を詰めていく。アイロンのかかったシャツを数枚、畳んで重ねる。数日分の着替え、そして分厚い企画資料を詰め込んだパソコンと、今回の特集企画のタイトルが背表紙に印字された、一冊のバインダー。


 窓の外、街の灯りが遠くでまたたいている。潮風の匂いと、車内に残る風の香りが、肌にまだ残って心地よい。肩の力を抜き、軽く息を吐く。


 彼女も、こういう仕事で世界中を飛び回っているのだろうか。

全く違う場所で、全く違う目的で。けれど、同じ空の下で。


 

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