第5話
部屋の奥、大きな窓から差し込む光を逆光に受け、普段は滅多に使われることのない、この重役用の会議室が、格別に濃密な空気に満ちているのを感じる。革張りのソファの匂い、高価そうな調度品の放つ鈍い光、それら全てを圧するような張り詰めた静寂。
編成局長とスポンサーはソファに深く腰を下ろしている。二人が作り出すビジネスライクな緊張感とは別に、もう一つ、光と影が交差する位置に凛羽さんはひっそりと座っている。
嘘でしょ……?
そう思った途端、意識は一気に真っ白になった。張り付けられた、ぎりぎりの平静を保った顔が、熱で蝋のように、音もなく剝がれ落ちていった。
「おお、高月さん、待っていたよ」編成局長の間の抜けた声が、張り詰めた空気に小さな波紋を広げ、凍りついていた私の体を解き放つ。
「さ、こちらへ」促されるまま、硬い足取りでテーブルにつく。
よりにもよって凛羽さんの片側、冷たい革の椅子に腰を下ろすと、彼女は軽く会釈するだけで、表情ひとつ変えない。磨き上げられたテーブルの上に置かれたノートパソコンに視線を落とすその横顔は、昨夜とは比べ物にならないほど近寄りがたいオーラを放っている。
「急に呼び出してすまないね。実は、来期から始める新しい地方特集の件で、少し大きな話が動いていてね。今日は、その資金調達のスキームについて、専門家のご意見を伺う場なんだ」
局長の説明が頭の上を滑っていくのを感じながら、私は全力に平静を装う。意識は、目の前の彼女が放つ、静かでありながら圧倒的な存在感に囚われている。
「こちらはGPJの紫倉さんだ。普段は出席しないところを、今回は代理で来てもらっている。今日は我々の子会社への出資と、今後の事業提携について助言をいただけることになっている。しっかり話を聞いておけ」
会社名を聞いて、頭の中の霧がすっと晴れていく。なるほど、そういうことか。たしか外資系の、業界でも有名な金融機関。昨夜、あの雨降りの中で見た姿と、今目の前にある現実が、ようやく一本の線でつながる。いや、つながってしまった。
「いやあ、GPJ側にご協力いただけるとは、我々としてもこの上なく心強い限りです」 スポンサーらしき男性が、腹の底から響くような声で言う。編成局長も、「ええ、ええ、全くです」と満面の笑みで相槌を打つ。
お互いの腹の内を探り合うような、それでいてどこか馴れ合いの、いかにもこの業界らしい空気が、部屋を澱んだ沼のように満たしていく。その中で、凛羽さんだけが、彫像のように静かに座っている。
「じゃあ、紫倉さん、早速ですが……」と局長が口火を切る。
手元のパソコンに目を落としていた彼女が、一呼吸置いて顔を上げる。口を開いた、ただそれだけで、さっきまで室内に漂っていた、お互いの腹を探り合うようなビジネスライクな社交辞令の空気が、真空に吸い込まれたかのように消え去る。
代わりに訪れたのは、音のない静寂。誰もが息をのみ、次の言葉を待っている。あたかも、熟練の指揮者がタクトを振り上げる直前の一瞬の静けさのように、部屋の空気は張り詰め、時間がほのかに止まったかのように感じられる。
「本案件における最大のリスクは、海外マーケットでのコンテンツ価値の不確実性です。フォーマットの輸出実績はまだ乏しく、初期投資に対するリターンを現時点で正確に算出することは困難かと」
淀みない、理路整然とした声。数字と専門用語が、一切の感情を排して紡がれていく。テレビ局の役員たちが、一言一句に真剣に耳を傾けている。昨夜、私の車の助手席で、か細い声で「寄り道はしない」と言った人物と、本当に同一人物なのだろうか。
軽率かもしれないが、見惚れてしまう。仕事をしている彼女は、精密な機械のようだ。でも、そのプロフェッショナルな仮面の下に、どこか人間離れした危うさが同居しているように見える。
「そういえば高月さん、この地方特集の第一弾は高月さんに担当してもらうことになった。近々、北海道へ出張だ。よろしく頼む」部屋中に張り詰めた空気の中、局長がふと私に話を振ってくる。
「え、そうなんですか?」
「正式な辞令は追って出すが、そのつもりでいてくれ」
突然の出張話に驚いていると、ふと視線を感じる。初めて、彼女はパソコンから顔を上げ、まっすぐこちらを見据える。星を飲み込むような深い黒い瞳。その奥に、ほんのわずか、コンマ一秒にも満たない揺らぎが見える気がする。
会議が終わり、役員たちがそれぞれ挨拶を交わしながら部屋を出ていく。凛羽さんも、静かに立ち上がり、資料をまとめて部屋を出ようとしている。
今だ。この機会を逃したら、もう二度と会えないかもしれない。足を速めつつも、呼吸を整えながら彼女に近づく。
「あの、紫倉さん!」
考えるより先に、声が口をついて出ていた。呼び止めると、彼女の肩がぴくりと揺れる。ゆっくりと振り返るその表情は、まだビジネスモードの硬さを保っている。
違う、そうじゃない 。
本当は、「凛羽さん」と呼びたかった。それでも、さっきまで会議室にいた彼女は、あまりにも遠い世界の人間のように感じられて、名前を呼ぶ勇気がとっさに出てこなかった。結局、口から出たのは、心の中で小さく舌打ちしたくなるような、当たり障りのないフォーマルな響きだけだった。
何と言って話を切り出そうか、一瞬迷う。先に口を開いたのは、凛羽さんの方だった。
「昨夜は、ありがとうございました」
「いえいえ、とんでもないです。無事に帰れましたか?」咄嗟に、当たり障りのない気遣いで答える。「まさか、こんなところでお会いするなんて。本当に驚きました」
「私もです……」
彼女はかすかに視線を落とす。何かを言いかけて、やめる。会話は途切れ途切れに続く。廊下には午後の柔らかな光が差し込み、光が、どこか迷いを含んだ彼女の横顔をそっと照らしている。
「今日は、紫倉さんがいらっしゃる予定じゃなかったんですよね?」 何か話さなければ、と焦るあまり、少し踏み込んだ質問をしてしまった。
「……なぜ、それを」
「あ、いえ、先ほど局長が、『今日は代理で』と仰っていたのが聞こえたので」
凛羽さんは少しだけ考えるそぶりを見せた後、小さく頷く。
「本当は私の上司が出席する予定だったんですが、急用ができてしまって」
「実は、私もなんです。この企画のプレゼン資料の一部を、以前、別の番組で扱ったことがあって。それで、『現場の意見も』って、急遽呼ばれただけで」
お互い、本来ここにいるはずじゃなかった。彼女との間に漂っていた、仕事相手としての硬い空気が、ほんのわずかに和らいだ。
「……そうですか」
「うん。だから、本当に偶然……」
一呼吸置いて、私は賭けに出る。「偶然で終わらせるのって、なんだかもったいないなって思って。よかったら、この後……お昼、じゃなくて、ドライブ、しませんか?」
黒曜石のような瞳が大きく見開かれ、戸惑いと警戒心、そしてほんのわずかな関心がその中で渦巻いているのが見て取れた。
「……仕事が、」
「ほんの一時間だけでいいんです……ちょっとだけ、風に当たりたいんです。付き合ってくれませんか?」
お願い、と心の中で祈る。彼女はしばらく黙って私を見つめた後、ふいと視線を逸らし、かすかに、ほとんど聞き取れないような声で、呟く。
「……わかりました」
声が耳に入ると、思わず胸の奥で小さく拳を握る。
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