第9話 ビルギット、治療2日目

 治療二日目。


 昨日の嵐のような嗚咽が嘘のように、治療室の空気は張り詰めていた。


 陽光が差し込む窓辺に、僕とビルギットは再び向かい合って座っている。

 彼女の瞳にはまだ不安の色が濃いものの、前向きに治療をつづけようという気持ちが感じられる。


 部屋の隅では、リネアとヴィルデが「護衛」と称して壁際に立っている。


 ……やりにくくて仕方ないが、今は目の前の患者に集中だ。


「ビルギットさん。気分はどうかな」


「……少し、眠れました。こんなことは、何年ぶりか……わかりません」


 か細いが、正直な答えだった。

 良い兆候だ。


「それは良かった。今日は、治療の第二段階に進もうと思う。君を苦しめているものの正体について、少し話をしたい」


 彼女の瞳をまっすぐに見つめ、語りかける。

 僕の脳内にある『賢者の知識(グノーシス)』が、専門用語を彼女に理解できる言葉へと翻訳していく。


「君が体験したファフナー渓谷での出来事は、間違いなく君の心に深い傷を負わせた。異世界の言葉で言えば、それは『PTSD(心的外傷後ストレス障害)』と『モラル・インジュリー(道徳的な負傷)』と呼ばれるものだ」


「ぴーてぃーえすでぃー……?」


「ああ。命の危険に晒されたり、凄惨な光景を目撃したりすることで、その記憶がフラッシュバックして心身に異常をきたす。君が戦場で動けなくなってしまったのは、まさにその症状だ。そして、もう一つのモラル・インジュリー。これは、自分が信じてきた道徳観や正義に反する行いを強いられた時に負う、魂の傷だ」


 ビルギットは、ごくりと喉を鳴らした。


「大事なのはここからだ、ビルギットさん。君を本当に苦しめているのは、あの渓谷での『出来事』そのものじゃない。その出来事に対する、君自身の『考え方』なんだ」


「……考え、方……?」


「そうだ。『私は部下を見殺しにした人殺しだ』。その考えが、君を縛り付ける呪いになっている。今日は、その呪いと対話してみようじゃないか」


 半信半疑、という顔だ。

 当然だろう。

 彼女にとっては、自分が人殺しであることは疑いようのない「事実」なのだから。

 だが、その強固な岩盤に、僕はこれから言葉という名のドリルで穴を開けていく。


◇◇◇


「では、ビルギットさん。君が一番強く信じていることから始めよう」


 僕は、彼女の思考の核心に、静かに切り込んだ。


「『私は、仲間を見殺しにした人殺しだ』。……なぜ、そう思うんだい?」


 それは、彼女にとって自明の理。

 問いかけられることすら想定していなかったのだろう。


 彼女は一瞬虚を突かれた顔をしたが、すぐに苦しげに表情を歪め、絞り出すように答えた。


「……決まっている。私の命令で、若い騎士たちが死んだ。私が……彼らを死なせたんだ。それは、人殺し以外の何物でもない」


「君の命令が、彼らの死の直接的な原因になった、と考えているんだね」


「事実だ!」


 彼女の声が、少し荒くなる。


 それで良い。

 感情が動いている証拠だ。

 昨日までのおどおどとした口調ではない。

 ビルギット本来の、司令官としての口調を取り戻していた。これも良い兆候だ。


 僕はあくまで冷静に、次の質問を重ねる。


「では、聞かせてほしい。あの状況で、君がその命令を下さなかった場合、どんな未来が待っていたと思う?」


「……それは……」


 ビルギットの言葉が詰まる。


 彼女の脳裏に、あの地獄が再び蘇っているのだろう。

 オークの雄叫び。

 空を覆う矢の雨。

 そして、絶望的な戦力差。


「……全滅、していただろう。私の部隊も、本隊も、すべてが……」


「そうか。つまり、君が命令を下さなければ、もっと多くの命が失われていた可能性が高い、ということだね」


「……っ! しかし、だからといって、私が彼らを犠牲にした事実は変わらない!」


「もちろん、その事実は変わらない。僕もそれを否定するつもりはないよ。では、少し視点を変えてみよう。君に『僕たちが囮になります』と進言した若い騎士たち。彼らは、なぜそんな提案をしたんだと思う?」


「それは……私を、王国を守るべき英雄だと信じて……」


「彼らは、君という指揮官と、その先にいる仲間たちの命を救うために、自らの命を賭けることを『選んだ』。そうは考えられないだろうか?」


「彼らは、まだ若かった! 未来があった! 私が、指揮官として、もっと別の道を探すべきだったんだ! もっと……何か……!」


 彼女の叫びは、悲痛な自責の念に満ちている。


 僕は、そのほとばしる感情を静かに受け止めてから、決定的な質問を投げかけた。


「――具体的に、どんな道が?」


「……え……」


「あのファフナー渓谷で、君が選べる『別の道』とは、具体的にどんな選択肢だったんだい? 部下を一人も死なせず、かつ、本隊も救うための、完璧な一手。それを今、ここで、教えてほしい」


 ビルギットは、はっと息を呑んだ。

 彼女の瞳が、答えを探して激しく揺れ動く。

 こうすればよかった、ああすればよかった、と、何千回、何万回と考え続けた後悔のシミュレーションが、彼女の頭の中を駆け巡っているはずだ。


 だが。


「……」


 答えは、出ない。

 いくら考えても、あの絶望的な状況を覆す魔法のような一手が、見つかるはずもなかったからだ。


「……ない……。そんな方法は……なかった……」


 か細い、蚊の鳴くような声。

 彼女が初めて、自分の思考の袋小路に気づいた瞬間だった。


 僕はその小さな亀裂を、逃さない。


「そうだよ、ビルギットさん。君は、あの時点で取りうる最善の、いや、唯一の選択をした。指揮官として、より多くの命を救うための、苦渋の決断を。それは『人殺し』の行為だったのか? それとも、仲間たちの意志と誇りを信じ、その犠牲を未来に繋いだ、指揮官としての『責任』だったのか?」


「せき、にん……?」


「彼らは君に『僕たちの誇りを、信じてください』と言った。彼らの願いは、君が罪悪感に苛まれて剣を錆びつかせることだっただろうか? それとも、自分たちの死を無駄にせず、生き残った者として、その責務を果たし続けてくれることだっただろうか?」


 「でも」「しかし」と繰り返していた彼女の抵抗が、完全に止まった。

 ただ、混乱したように僕の顔を見つめている。

 長年、彼女を支え、同時に縛り付けてきた「私は人殺しだ」という単純な定義が、音を立てて揺らぎ始めていた。


◇◇◇


「……わからない……」


 長い沈黙の末、ビルギットはそう呟いた。

 その声は、途方に暮れた子供のように、か弱く震えていた。


「もし……もし、私が『人殺し』でないのなら……。じゃあ、私は……私は、一体、何者なんだ……?」


 ついに来た。


 僕が待ち望んでいた、その問い。


 彼女を雁字搦めにしていた【罪悪感の鎧】が、音を立てて崩れ落ちていくのが、僕の『神の瞳』にははっきりと視えた。

 黒く、重く、鋭い棘を持った鎧が砕け散り、その下から、傷つき、戸惑い、裸のままの彼女の魂が姿を現す。


 鎧は、彼女を苦しめる呪いだった。

 だが同時に、それは「罪を背負い続ける者」という、歪んだアイデンティティを彼女に与える、唯一の支えでもあったのだ。


 その支えを失った今、彼女は空っぽの自分と向き合わなければならない。

 それは、回復への道筋において、最も苦しく、しかし最も重要な段階だった。


 僕は混乱する彼女の瞳を、覗き込んだ。


「それでいいんだ、ビルギットさん。今は、わからなくていい」


 僕は、今までで一番優しい声で、微笑みかけた。


「君の鎧は、今、砕け散った。空っぽになったその場所に、新しい生きる意味を、これから一緒に見つけていこう。――ここからが、君の本当の人生の始まりなんだから」


 僕の言葉に、彼女の瞳から、また一筋、涙がこぼれ落ちた。

 それはもう、昨日までの悲しみや後悔の涙ではなかった。

 自分が何者かもわからなくなった混乱と、それでも目の前に差し伸べられた希望の光に対する、戸惑いの涙。


 この治療は、まだ終わらない。

 だが、最も大きな山は、今日、越えることができた。


 僕は崩れ落ちるように泣き始めた彼女の背中を、静かにさすり続けていた。


――――――――――――――――――

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