第4話 何もない日
4-1
8月5日
―カチッ
何かの音が聞こえた。それに伴って意識が芽生える。無意識に、当たり前に私は目を開けようとしたが、瞼は閉じたままだった。
徐々に体全体が目覚め始め、私は現状を知っていく。足は地についている。手も開いたり閉じたりできる。肌は空気が確かにあることを感じさせる。眼が開くことを拒絶していることを除けば、何もおかしなことはなかった。
辺りの情報を得ようと腕を腕を動かしてみるものの、ただ空を切るのみ。鼻から息を吸い、口から吐き出しても何もない。
これ以上何をすべきか途方に暮れかけた時、再び音が聞こえた。文字通り右も左もわからないまま、私はその方角へと向かうことにした。
一歩一歩、確かめるように慎重に歩く。何も見えないということだけで、私の心には強烈な恐怖が襲い掛かって来る。転ばぬように、慎重に歩く。
ただひたすら歩き続け、何分が経っただろうか。音はあれ以降なることはなく、当てもないまま真っ直ぐ進むことに不安を覚える。けれど立ち止まったところで何もないのも事実であるため、私はその心を押し殺す。
先へ、先へ、先へ。
何にも頼らず、振り返ることをせず。
前へ、前へ、前へ。
何かがあると信じて疑わず、頼る人もおらず。
歩いて、歩いて、歩いて、永遠にも感じられるほど歩き続けた。
―ドンっ
突然の鈍い音とともに、私の身体が後ろへと傾く。その衝撃でか、ずっと閉じていた私の目が開かれた。
月明かりのある夜のような空間に、目の前の人を含め、何人もの人物が立っている。
どこかで見たことのある彼らは、皆一様に私を見て何かを呟いている。重力がなくなっているかのようにゆっくりと、けれど抗うこともできないまま、体が倒れていく。目の前の人に助けを求めようと、私は右手を前に伸ばした。
「っつ!」
思わず、目を見開く。痛みの走ったほうを見ると、私の右手の手首から先が失われて、黒い血が噴き出していた。それを知覚した途端、今度は胸に痛みが走る。下を向くと、私の胸に、何本もの針が刺さっていた。
瞬間、私の意識が落ちていく。ようやく開いた目は再び閉じられていく。
完全に闇に染まりかけたその刹那、誰かが私の手を取ろうとした。けれどそこに掴む手はなく、私は地面へと倒れ、すぐさま意識を失った。
次に目を開いたときに見たのは、明かりのぶらさがる天井だった。荒くなった呼吸のまま、あたりを見渡す。少しして、目が覚めたことを認識した私は、一つ深いため息をついた。
落ち着きを取り戻した私は立ち上がる。そこで私の鼻腔に、湿ったにおいが広がった。
後ろを振り返って窓の外を見ると、いつもの陽ざしは消え去り、久々の雨が降っていた。心音も邪魔をしなくなり、荒々しく水の打ち付ける音が聞こえる。
そういえば昨日、天気予報で既にこの雨を知っていたことを、今更になって思い出した。
「…。」
「…何?」
歯を磨く手を止めて、馬鹿みたいに目を開いて呆けている真那にそう問う。少し間を開けて、鏡の方を指さされた。それに従って鏡を見ると、目元が泣きはらしたように腫れていて、寝起きにしてもずいぶんとひどい顔が映る。
なるほど、朝にこんな顔を見せられたらああもなるなと思った。
顔を洗ってすっかり目が覚めた後、台所へと向かう。時雨一家に似たような顔をされたけど、二度目だからか対して気にはならなかった。
いつものように朝食を食べて、歯を磨き、部屋に戻って身支度を済ませる。カセットテープとプレーヤーを持っていつものように玄関に向かい、戸を開けたところで、外が雨だったことを思い出した。
「…本当に大丈夫?」
「何の話?」
「いや、何の話じゃなくてさ」
「私を気にしてる暇があったら勉強しなさい」
「そう思うなら視界に入るところでそんな無気力そうにしないでくれない?」
時計を見ると、時刻は既に十時を過ぎていた。いつもなら今頃、澄希さんと楽しく談笑をしていた頃だ。外では未だ、これまでの鬱憤を晴らすかのように雨が降り続けている。
「遥」
「何?」
「真那ってどこ行ったの?」
「ああ、確か彼方連れて調査してくるって」
「この雨で?よくやるなあ」
「私もそう思う。てか、そういえば祈李は今日はいいの?」
「今こうして暇してる時点で分かるでしょ」
「まあ、それはそうなんだけど」
会話が途切れる。ここしばらくはずっと、澄希さんとしかまともに会話をしていなかったため、少し新鮮さを覚えた。昨日までの彼女との時間を思い返す。
―今頃、私の知らないあなたは、一体何をしてるのだろうか。
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