第二章「現実」 3-①

3-①


 前に少しだけ触れた気もしますが、彼の新作は私くらいの年齢の女性に人気の出そうな、と言うよりちょうど私の年齢の女性が主人公の作品であり、どちらかと言うと若者向けだったデビュー作とは雰囲気が一変した作品でした。かと言って、私を主人公のモデルにしたのでは全くないのでご安心ください。主人公の女性は家族を支える母親ですし、私のように小さな葛藤や不安に右往左往されることのない、芯の通った強く美しい女性です。世間の方々が一様に憧れを抱くとは言えないかもしれませんが、子を想い、夫を想い、迫り来る本能を業と認めながら、自らの信念を貫くその姿に、私は心を動かされました。彼女たちの生き様を、私は胸に刻みました。自分は何者だとか、何のために生まれただとか、そういうことを考えさせられると後ろ向きになる私のような人間のために、本当の温かさと優しさを垣間見せてくれる美しい作品です。人によって作風の合う合わないはあるでしょうし、碌な見識のない私では何の説得力にもなりませんが、表面化と潜在化を繰り返す複雑な現代と、そういう風潮が益々進行するであろうこれからの世界を包み込むような、温かくて優しい作品だと、私は思います。

 彼が二作目の発売に伴う挨拶回りから帰ってきたのは、一作目の授賞式の日よりも早い十九時頃でした。今日は豪勢な夕食で出迎えようとしていたわけではないですが、準備時間だけは充分にあったので、それなりに普段以上のものは出来上がりました。今回は以前のときのように変に緊張することもありませんでしたから、日中は結局普段の休日と変わらないようなダラダラ模様で過ごし、夕方に彼からもうすぐ帰れそうとの連絡を貰ったので慌てて買い物に出掛け、彼の帰宅に普段以上のものを間に合わせました。

 部屋着に着替えた彼と晩餐をたしなみながら今日までの出版関係の出来事を振り返っていると、どうやら今回は作風に合わせて売り方の方向性を変えるそうで、所謂いわゆるマーケティングの一種と私なりには分析しているのですが、作者である彼がより前に出るように売り出すそうです。したがって取材や宣伝広告なども以前よりは増えるみたいですが、それも少し経てば落ち着くだろうと彼は踏んでいました。

 その一方で彼は、作家としての自分の声が出版社になかなか届かないことを小さな悩みにしていました。先のマーケティングの件もそうですが、彼が最も気にしていたのは、作品における一ページの文字数でした。前にも述べた通り、彼には一ページ17行×40字のこだわりがあります。自由の利くデビュー前の作品は全てそうなっており、その構成を元に文字の配置なども考えられているため、彼のこだわりの中ではある意味最重要の事柄でした。しかし製本された彼の作品は、17行×40字ではありませんでした。原稿提出の際は確かにそうしていたはずなのに、出版社の方で修正されたそうです。出版前に彼にも確認の機会があり、その際に文字数の変更について問い合わせたそうですが、「こちら側の都合で修正させていただいた」というだけで、具体的な答えは帰ってこなかったそうです。結局、今作もデビュー作もそのまま発売され、私も読んでいてすぐに気が付いたのですが、彼の物語の魅力は不測の事態により、削がれる結果となってしまいました。

 しかし彼はそうなったことについて、「出版社が作家の意図を理解し切れていない」としながらも、結局はマーケティングの件も含めて、作家自身の力がないのが原因だと嘆くのでした。一ページの文字数を変えたところでそれによって感想を変える人間は少ないだろうし、売り上げも大して変わらない、今回もおそらくそこそこに留まるだろうと話していました。「そんな弱気でどうするの」と柄にもなく発破をかけてみましたが、小説家としての彼の苦悩には大いに力になりたいと素直に思えた反面、彼本人の人気については、迷いがあるというのが正直な胸の内です。そんな内心を彼が知れば、失望されるよりは笑われるかもしれませんね。彼にはもっと世間に影響を与える小説家になってほしいのは山々ですが、私の持つ器は小さいですから、今の私たちくらいが収まりの良い、ちょうどいいバランスなのです。それも含めて、彼に笑い飛ばしてもらえるとよいのですが。

 翌日、彼は取材のために朝早く家を出ました。私も仕事でしたからある程度の早起きをしましたが、私が起きた頃には彼の朝の準備は済んでおり、前日と比べるとかなり簡素なお見送りで、今日の健闘を祈りました。今日は取材だけでなくPR活動もあるみたいなので、一日がかりになるそうです。夕食も家では食べられないとあらかじめ言っていたので、久しぶりに前にも話した高校時代の友人と外食に行くことにしました。彼女には彼がデビューしたことを伝えていなかったので、そろそろ解禁してもいい頃合いかなんて考えて、完全に私の都合でご飯に誘いました。だけどこちらからぬけぬけと話すとなるとさすがに厚かましいかななんて思ったので、彼女が訊いてくれるのを待って、渋々答えようなどと下らないカミングアウトプランを頭の中で練っていました。今日の私もこんな風に、取るに足らない平穏な日常を過ごしています。

 しかし、発売から一ヵ月が経っても彼は忙しいままでした。その上一日がかりの日も増えてきて、その分私は一人で夕食を食べる機会が増えました。週内に休みの日も幾つかありましたが、そういう日は平日が多く、私のお休みとはなかなか被りませんでした。テレビやラジオにも初めて出演したそうで、どんな雰囲気だったかや他に誰と共演したかなど色々訊いてみたかったのですが、一緒に居られる時間は少なくなった上に、家に居ても彼は疲れてしまっていて、帰ったらすぐに布団に入る日が続きました。時折夕食を家で食べる機会があっても、完食できず残してしまうことが何度かありました。

 その一方で、彼の存在が着々と世に出て行き始めていることを、私は感じていました。この前仕事帰りに彼とよく行く駅前の本屋さんに寄ったとき、隅っこでしたが店頭に彼の新作が並んでいました。「注目の新人作家!」というポップが添えられており、世間の評判というよりもお店が独自に推しているようでしたが、今まで店の奥の方の新人作家コーナーでも小さな扱いだったのが、途端に一線の作家さんたちと肩を並べるようになったのです。そんなこんなでお店に立ち寄り、もちろん家に現物はあったのですが、職場の誰かにあげようかと一冊購入してみると、心なしか、私と同い年くらいの女性店員の接客の声のトーンが上がった気がしました。「私もこの作品が大好きです!」、随分身勝手ですが、そんな心中で声を張ってくれたのかと空想し、独りでに心が綻んでいました。また翌日、前日に買った彼の新作を鞄に仕込んで電車で出勤していると、私からちょっと離れた場所に座っていた女子高生が単行本を読んでいたのですが、読んでいたのはおそらく私の鞄の中のものと同じでした。表紙がちらっと見えただけなので断言はできませんが、最近は電車で本を読んでいる人に出くわすと問答無用で気になる体質になっていたので、その観察眼が確かならば、その人は彼の小説を読んでいました。

 こんなことは、以前はありませんでした。もちろん業界やネット上では彼はそこそこ好意的な評価を受けていたようですが、それを現実世界で実感するのは初めてでした。年末に帰省した際、妹の旦那さんがああ言ってくれたのも、お世辞を含んでいると内心思っているくらいでした。

 ですが、今の私は、現実の世界で彼を見かけます。私とも彼とも全く親交のない人々が、もしかしたら彼の身辺は名前くらいしか知らないような人々が、彼の作品を読んでいます。私たちの手の中にしかなかった美しき物語が、現実の世界で呼吸をしています。少しずつ、いや、気付いていないだけで実はものすごい速さで、私たちを取り巻く世界は変わっているのかもしれません。

 そうして私は、自分の中に二つの感情が生まれたことを悟りました。一つは、また、あの「執筆」の日々が戻ってきてほしい。まだまだ先になるかもしれないし、彼の活動を制限してまであの時間を手に入れたいとは思わない。だけど、もし望んでいいのなら、願っていいのなら、あの夢のような日々と時間を、束の間でも味わいたい。たった一日でも、一時間でもいいから、私の隣で頭を空っぽにしてほしい。きっとそれは、あともう少し時間が経てば実現するでしょうし、「夢」なんて言葉を使わなくたって、きっと彼は叶えてくれるはずです。だって、今は一緒に居られる時間は少ないけれど、私たちは誰が何と言おうと、一つの屋根の下に暮らしている恋人同士なのですから。

 そして、もう一つ、それは不安や葛藤、それから恐怖とも違う、予感──こういうとき、図らずも、私の予感は当たるのです──でした。これはもしかしたら、前と状況が違うのではないか。私からは訊かないですし彼も自分からはあまり話さないので、彼の外での活動がどういうものかはいまいちわかりませんが、おそらくこれは、一介の若手小説家に巡っている事務的な露出や注目ではない。私はメディアのことなど何もわからないですし、彼もまだ二度目の出版で、そういった周りを取り巻く状況に晒されることなどないに等しいのは確かです。でも、きっと、何かが動き始めている。今まで見たことのない世界が、想像したことのない出来事が、私たちの前に降りかかっている。一ヵ月経っても二ヵ月経っても、もしかしたら、一年が経っても、もう「執筆」の日々は戻ってこないのではないか。最初彼はこんなにも反響があるのは妙だから、出版社が広告会社と組んで色々仕掛けているだけではないかとも言っていましたが、私は彼の予想を否定しました。彼の論理的な予想より、自分の根拠のない予感の方がなぜだか腑に落ちたのです。

 いや、根拠がないわけでもない。私は現実の世界で、彼と私の二人だけのものだった世界を、実際に目撃しているのですから。


 発売から三カ月が過ぎ、春の名残と夏の訪れが交互にやって来るような時節となった頃、段々と彼の今までにない多忙も区切りが見えてきましたが、なんとなく日常はフワフワしていました。この三ヵ月、多忙さを極めた宣伝広告の効果があったのか、新作の売上はデビュー作を大きく上回りました。あの本屋さんでも、以前は店頭でも隅っこにあったのが、今では堂々と目立つ中央付近に置かれていました。むしろ以前から注目していたのを誇らしげに、ポップの文字はよりカラフルに彩られ、「当店の」注目新人作家として彼は君臨していました。

 そのようにして私たちの生活も大きく変わると思いきや、想像していたほどは変わりませんでした。「執筆」の日々はまだまだやっては来ませんが、一週間丸々家にいないというのはなくなりましたし、会食や打ち合わせ後の飲み会などで帰りが遅くなるのも少なくなりました。その上休日に休みを取れることが多くなり、そういうときに思いっ切りゆっくりして、彼が見ている新しい世界について心ゆくまで語り合うのです。

 その一方で、私たちは日常において、言葉にするのは難しいですが、何かこう、見られているような、うかがわれているような、そんな気がするのです。それはもしかしたら、彼の作品の評価や売上が前回よりも大幅に上がったことだけでなく、彼が個人的に作家として人気が出てきたこと、それからこれは私個人の推測に過ぎないのですが、女性を中心とした人気だということに関係があるのかもしれません。もちろん家にファンレターが届いただとか、家の周辺にそのような陰があるだとかだったら話は別ですが、実際にそういうことは起きていませんから、私の感覚はかなり抽象的なものだと言わざるを得ません。

 しかし、彼の人気が女性を中心としているという感覚は、私の中では確かです。ネット上の書き込みや評判でその兆候を読み取ったのも理由の一つですが、それ以上に私が現実世界で彼の物語を見かけたとき、必ずと言っていいほど、それを携えていたのは女性でした。発売から一ヵ月ばかりの頃、かの本屋さんで彼の本を購入した際の店員さんは女性でしたし、その翌日に電車で彼の本らしきものを読んでいたのは女子高生でした。その二人を基準に決めつけるのもなんとまあ早合点かもしれませんが、私は自分の「予感」に従って、それが事実であると結論付けていました。

 六月のある金曜日の夜、先に駅に着いていた彼と合流し、久々に二人で外食をして、駅から家への帰り道を歩いていました。

「どう? 最近何か変わったこととかある?」

「うーん、特にないですね」

 私は長袖のカットソーを着て、彼は半袖のシャツを着ていました。そんな風に心地良い気候が、二人の間にわずかな隔たりを生みました。

「女の子から声かけられたりしない?」

「いや別に、アイドルとかじゃないんでそういう人気はないですよ」

 月は新月前の小さな三日月でしたが、星は綺麗に輝いていました。ちょうど、私たち二人を象徴するような朧気おぼろげさと鮮やかさでした。

「ふーん。電車だと寛也くんの本読んでる女の子とかよく見かけるんだけどな」

 しかし、その鮮やかさが一瞬、消え失せました。

「どうしたの?」

 彼は私から手を放して立ち止まり、ゆっくりと後ろを振り返りました。

「……いや、なんでもないです」

 彼は前を向いて私の手を握り直すも、その手は少しだけ冷たくなっていました。

「……もしかして、誰かにつけられてた?」

 私もゆっくりと振り返るも、それらしき人は誰もいません。犬を散歩させている中年男性はいましたが、その他に人の気配は全くありませんでした。

「……いえ、たぶん気のせいです。お騒がせしてすみません」

 そう言って彼は申し訳なさそうに肩を落としましたが、その姿が無性に愛しくなり、勢いで腕ごとしがみついてみました。

「いや、きっといたんだよ。寛也くんのことが大好きな熱狂的な女の子のファンが、家を特定するためにこっそりついてきたんだよ」

 私の精一杯の冗談が伝わったのか、くっついた彼の身体は、安らぎを取り戻しました。

「それじゃ、恋人がいるって知られたらまずくないですか?」

 彼が悪戯いたずらっぽく笑ったのが、何よりの証拠です。

「そうね。私も夜道には気を付けないとね」

 私たちのマンションに辿り着いたのは、ちょうど二十一時を回る頃でした。階段を上って部屋の前まで行き、ドアを開けて彼が先に入ります。

「どこで、誰が見てるかわからないものね」

 私も玄関に入りドアを閉めようとすると、なんとなく、人の気配を感じました。

「どうしたんですか?」

 マンションの外廊下に出て辺りを見回す私を追って、彼も外廊下に出てきました。

「……ううん、ちょっと、外の空気が吸いたくなったの」

「なんですか、それ」

 彼はそのまま部屋に戻りましたが、私は十秒だけその場に留まってみました。かと言って何か起こるはずもないので、諦めて部屋に戻ろうとしました。

 しかし、ドアが閉まる直前、誰かの家のポストが開く音が、恍惚こうこつな夜を締め括りました。

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