第二章「現実」 2-②

2-②


 行く年は絶えずしてその定めに従い、新たな暦の到来を迎えます。

 私たちの毎日も刺すような寒さに抗いながら、人並みの年末年始を送りました。今回は初めて、彼を連れて実家に帰りました。前にもお伝えした通り、両親とはずっと冷え切った関係が続いており、約三年ぶりに帰省した今回も当初は何しに帰ってきたのだと問うような冷たい扱いを彼と共に受けましたが、この度に彼が小説家として正式にデビューしたことを伝えると、てのひらを返すように歓迎の意に換わりました。今回は彼のたっての希望だったのでこういう現金な扱いを受けることは重々承知していましたが、いざここまで予想通りに態度が変わり、長年の疎遠状態がこうもあっさり解決してしまうと、顔を合わせて苦笑いするほかありません。その一方で、妹には相変わらず白い目をされているような気もしましたが、妹の旦那さんは出版業界で働いているようで、彼のことを存じ上げていました。しかも旦那さんは彼を個人的に注目しているようで、商業的に落ち込んでいる出版業界、特に小説界隈にとっての希望になると、大絶賛されていました。その後男性二人はお酒片手に静かに語らい合っていましたが、帰省してからここまでの流れにモヤモヤを感じていた私は、多少鼻が高くなった気分に成り変わりました。下世話な話にはなりますが、こういうときにパートナーの存在は方々に影響力を発揮するのだと改めて教えられました。

 紅白歌合戦を束の間の団欒だんらんで眺めて年を越し、翌日は混み合っている東京近郊とは違っていている地元の神社に詣で、一年の安寧と繁栄を祈願しました。元日はそのまま泊まりましたが、翌日の二日には帰京することにしました。妹の旦那さんはとても悲しがっていましたが、正直言ってここにいると変な気をつかい続けなくてはならないので、迷わず二人の時間に戻ることにしました。一応口実としては彼の実家に行くという体にしましたが、実際にはそのまま西荻窪に帰り、それから仕事始めまでのんびり過ごしました。

 正月休みが終わると彼が忙しくなるのは必然でしたから、それこそ混み合っている遊興施設に行ったりもしました。ある程度は楽しめましたが、やっぱり二人が最もリラックスできて、尚且つ充実を満喫できるのは、日中を家でのんびり過ごし、そのうちに井の頭公園へ散歩に出掛け、最後に買い物を済ませて晩餐ばんさんを楽しむことでした。今の時期は昼のうちに散歩と買い物を済ませて、夕方はまたのんびりとテレビや映画を観ていましたが、明日から仕事始めだという日の夕方、急に人恋しくなったのか、彼はいていたテレビを消して、私を求めました。拒む理由は何もないので、彼に身を委ねて、夕食を前に肢体を共にしました。その夜は飽き足らず再び情事を結びましたが、翌朝は二人快活な朝を迎え、いつかの日のように二人一緒に出発し、お互いの目的地に向かいました。

 その日、お昼休みに電話がかかってきて、「早めに打ち合わせが終わったんで今から帰るんですけど、何か買っといてほしいものとかあります?」と訊かれたので、思い切ってケーキを頼んでみました。彼はほのかに悪戯いたずらっぽい笑い声を発しながら、「わかりました」と言って電話を切りました。本当はもっと話していたかったのですが、昼休み中に上司からの呼び出しがあったので、こちらから会話を切らざるを得ませんでした。それでも帰宅すると、冷蔵庫の中には有名店のケーキが何個も並んでおり、私がふざけて「これどうしたの? 何かいいことあった?」ととぼけて訊くと、「二十歳くらいの若々しい声で頼まれたんで断れませんでした」と、なかなか切れ味のある返しをされてしまいました。

 こんな風な日々で年が始まり、仕事が始まり、また新しい日常が動き出すと、楽しい時間は束の間と言うべきか、出版の日はあっという間にやって来ました。もちろん出版の日が来てほしくなかったわけではありませんが、待ち遠しかったとも言い切れません。なんだかんだ彼との時間を堪能できるのは、彼が「執筆」をしているときだけなのです。普通のカップルが平日にはなかなか会えないように、私たちもいよいよ普通に近付いてきましたから、出版前後の忙しい毎日では満足な時間は確保できません。

 それでも今は、初めての出版のときとは違います。何しろこの時期が終われば、また、二人の時間を過ごすことができるのです。新作の発売から一ヵ月くらいが経てば、彼はまた執筆の期間に入り、その傍らに私が居られるようになるのです。前のときはそうなるとは思いも寄りませんでしたから、不安になるのは当然です。このまま彼が離れていってしまうのではないかと、自分を責めるのも当然です。

 彼はきっと、この家に帰ってくる。たとえ遅くなっても、このドアを開けて帰ってくる。どんなパーティーに招かれようと、どんな催しで祝われようと、どんなに熱狂的なファンを名乗る女の子から、告白同然の言葉で褒め称えられようと、彼は、私の元へ帰ってくる。そうして、私の隣で眠りに就いてくれる。それだけは、確かなのです。言葉にして確認しなくとも、変な態度を取って試すような真似をしなくとも、彼と私は、ちゃんと繋がっているのです。

 だから私は、彼の夢を応援します。今ならば、彼の夢を応援できます。彼が打ち合わせに行くのなら、それが首尾よくまとまってくれることを祈りますし、本屋さんで彼の作品が手に取られるのを目の当たりにしたり、私たちの家に、真摯なファンレターが届いたとしても──、それらを、彼と一緒に喜ぶことができます。彼にファンがついている事実を、優越感や自尊心などではなく、純粋な気持ちで受け取ることができます。彼と共に、現実の夢を追い求められます。

 それこそが、本当の幸せなのかもしれません。この充実感こそが、真実の愛なのかもしれません。私たちは短くない年月を越えてきましたが、今が、いや、これからが、報われるときなのかもしれません。デビューするまでの日々も、私は好きでした。未だに「夢のような」としか言い表せないあの時間も、私は大好きでした。しかし、それを苦労の時代だったと呼んでも差し支えないのならば、彼にはその報いが訪れ、私には、潮時が訪れたのです。彼と共に挑み、彼と共に抗い、彼と共に感情を共有してきた日々と時間が、遂に終わったのです。私はもう、戦わなくてもいいし、抗わなくてもいい。ほんの少しだけ執筆の力添えになれれば、他に何もいらない。だって、私の欲しかったものは、もうほとんど手に入ったのです。

 彼が自分の夢を追い続けてくれるのなら、私は支えることに専念できます。誰に何と言われようと、誇りを持って彼を支えられます。なにせ、彼の夢は今や現実味の中にあるのです。今日も帰りに駅前の本屋さんに寄ってみたら、店頭には並んでいなかったですが、新人作家コーナーの一角に彼の作品が置かれていました。まだまだ在庫は残っていましたが、彼はこの本屋さんからも、しっかりと小説家として認められているのです。そんな人を支えられることが、幸せ以外の何と表現してよいのでしょう。今の私を夢から覚ましてくれるのは、それこそ彼本人だけではないでしょうか。

 そうして、その日はやって来ました。キャリアのある作家ではないので記者会見などはさすがにないみたいですが、発売日に合わせた挨拶回りのために、あの日と同じスーツで出掛けるそうです。

 当日の朝、以前よりもたくましく感じた背中を二回叩き、彼を送り出しました。わざわざ有休を取って一日を準備した私は、実家を出ていく息子を嘆くように、彼の背中を最後まで見送ります。

「行ってらっしゃい、寛也くん」

 ドアが閉まり切る直前に性懲りもなく声をかけると、彼は、閉まるドアを押し止めました。

「行ってきます、茜さん」

 その微笑みからたたえられたのは、紛れもない、私たちだけに見える形なき愛でした。

 今日もきっと、彼はこの家に帰ってきます。何も心配しなくても、私の待つこの家に帰ってきてくれます。

 でも、この胸騒ぎはなんなのでしょう。彼はこれからも側に居てくれるのに、私は今、間違いなく幸せなはずなのに、血潮が沸騰するようなこの胸騒ぎは、一体なんなのでしょう。

 いや、これもまた、幸せの布石でしょう。普段と違う物事がいつも凶兆の報せでは、人間はいつしか壊れてしまいますから。

 それとも、自分から、凶を吉に変えるのみ。たとえ、自らの何かを犠牲にしても。

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