第二章「現実」 2-②
2-②
行く年は絶えずしてその定めに従い、新たな暦の到来を迎えます。
私たちの毎日も刺すような寒さに抗いながら、人並みの年末年始を送りました。今回は初めて、彼を連れて実家に帰りました。前にもお伝えした通り、両親とはずっと冷え切った関係が続いており、約三年ぶりに帰省した今回も当初は何しに帰ってきたのだと問うような冷たい扱いを彼と共に受けましたが、この度に彼が小説家として正式にデビューしたことを伝えると、
紅白歌合戦を束の間の
正月休みが終わると彼が忙しくなるのは必然でしたから、それこそ混み合っている遊興施設に行ったりもしました。ある程度は楽しめましたが、やっぱり二人が最もリラックスできて、尚且つ充実を満喫できるのは、日中を家でのんびり過ごし、そのうちに井の頭公園へ散歩に出掛け、最後に買い物を済ませて
その日、お昼休みに電話がかかってきて、「早めに打ち合わせが終わったんで今から帰るんですけど、何か買っといてほしいものとかあります?」と訊かれたので、思い切ってケーキを頼んでみました。彼は
こんな風な日々で年が始まり、仕事が始まり、また新しい日常が動き出すと、楽しい時間は束の間と言うべきか、出版の日はあっという間にやって来ました。もちろん出版の日が来てほしくなかったわけではありませんが、待ち遠しかったとも言い切れません。なんだかんだ彼との時間を堪能できるのは、彼が「執筆」をしているときだけなのです。普通のカップルが平日にはなかなか会えないように、私たちもいよいよ普通に近付いてきましたから、出版前後の忙しい毎日では満足な時間は確保できません。
それでも今は、初めての出版のときとは違います。何しろこの時期が終われば、また、二人の時間を過ごすことができるのです。新作の発売から一ヵ月くらいが経てば、彼はまた執筆の期間に入り、その傍らに私が居られるようになるのです。前のときはそうなるとは思いも寄りませんでしたから、不安になるのは当然です。このまま彼が離れていってしまうのではないかと、自分を責めるのも当然です。
彼はきっと、この家に帰ってくる。たとえ遅くなっても、このドアを開けて帰ってくる。どんなパーティーに招かれようと、どんな催しで祝われようと、どんなに熱狂的なファンを名乗る女の子から、告白同然の言葉で褒め称えられようと、彼は、私の元へ帰ってくる。そうして、私の隣で眠りに就いてくれる。それだけは、確かなのです。言葉にして確認しなくとも、変な態度を取って試すような真似をしなくとも、彼と私は、ちゃんと繋がっているのです。
だから私は、彼の夢を応援します。今ならば、彼の夢を応援できます。彼が打ち合わせに行くのなら、それが首尾よく
それこそが、本当の幸せなのかもしれません。この充実感こそが、真実の愛なのかもしれません。私たちは短くない年月を越えてきましたが、今が、いや、これからが、報われるときなのかもしれません。デビューするまでの日々も、私は好きでした。未だに「夢のような」としか言い表せないあの時間も、私は大好きでした。しかし、それを苦労の時代だったと呼んでも差し支えないのならば、彼にはその報いが訪れ、私には、潮時が訪れたのです。彼と共に挑み、彼と共に抗い、彼と共に感情を共有してきた日々と時間が、遂に終わったのです。私はもう、戦わなくてもいいし、抗わなくてもいい。ほんの少しだけ執筆の力添えになれれば、他に何もいらない。だって、私の欲しかったものは、もうほとんど手に入ったのです。
彼が自分の夢を追い続けてくれるのなら、私は支えることに専念できます。誰に何と言われようと、誇りを持って彼を支えられます。なにせ、彼の夢は今や現実味の中にあるのです。今日も帰りに駅前の本屋さんに寄ってみたら、店頭には並んでいなかったですが、新人作家コーナーの一角に彼の作品が置かれていました。まだまだ在庫は残っていましたが、彼はこの本屋さんからも、しっかりと小説家として認められているのです。そんな人を支えられることが、幸せ以外の何と表現してよいのでしょう。今の私を夢から覚ましてくれるのは、それこそ彼本人だけではないでしょうか。
そうして、その日はやって来ました。キャリアのある作家ではないので記者会見などはさすがにないみたいですが、発売日に合わせた挨拶回りのために、あの日と同じスーツで出掛けるそうです。
当日の朝、以前よりも
「行ってらっしゃい、寛也くん」
ドアが閉まり切る直前に性懲りもなく声をかけると、彼は、閉まるドアを押し止めました。
「行ってきます、茜さん」
その微笑みから
今日もきっと、彼はこの家に帰ってきます。何も心配しなくても、私の待つこの家に帰ってきてくれます。
でも、この胸騒ぎはなんなのでしょう。彼はこれからも側に居てくれるのに、私は今、間違いなく幸せなはずなのに、血潮が沸騰するようなこの胸騒ぎは、一体なんなのでしょう。
いや、これもまた、幸せの布石でしょう。普段と違う物事がいつも凶兆の報せでは、人間はいつしか壊れてしまいますから。
それとも、自分から、凶を吉に変えるのみ。たとえ、自らの何かを犠牲にしても。
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