第一章「夢」 2
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彼の名前は、矢崎
彼との出会いの経緯を詳しく説明すると、あれは私がまだ以前の部署に所属しており、そこの部署は営業やプレゼンテーションなど外向けの業務を受け持っていて、日々忙しなく駆けずり回っていました。その日は仕事終わりに会社を辞めて独立する先輩男性の送別会があり、個人としてはそこまで親交が深かったわけではないのですが、部署内では影響力が大きかった方ということもあって、そこそこ歴の長い人間は参加しなくてはならない雰囲気がありました。もちろんだからと言って行くのが嫌だったのかと問われるとそういうわけではなく、会自体も新年度に向けての決起集会を兼ねていたので定期的に開かれるものと同じように私もその場に淀みなく溶け込んでいたのですが、その日の私はいつになく疲れていて、二次会三次会を経て新宿から最終の中央線に乗った私は、乗車と共に運良く座れたシートで一瞬で眠りに落ちて、降りなければならない西荻窪駅を乗り過ごしてしまったのです。
そのとき彼は、私の隣の席に座っていました。そして彼は、私と共に隣駅の吉祥寺で降りました。
自分と共に吉祥寺で降りる私を見て、彼はすぐに私が本来降りるべき駅を乗り過ごしたことを察したようです。幸か不幸か私が目を覚ましたのはちょうど西荻窪から発車するためにドアが閉まる瞬間で、その際の慌てたリアクションを隣の席から間近で見ていたようですから、私の諸々の状況を理解するのに時間はかからなかったようです。加えて偶然か必然か、彼の降りる駅は吉祥寺でした。そうして赤の他人同士である彼と私は共に吉祥寺で降り、彼は吉祥寺にある家に帰るために、私は西荻窪にある家に帰るために、偶然か必然か、同じ方向へと歩き始めました。
実はそれまでにも、彼と私は接点と言いますか、接触する機会がありました。単刀直入に言うと、周りの目も気にせず座席で寝入っていた私は、彼の方へと身体を寄りかからせてしまっていました。自動ドアが閉まると共に飛び起きた私は、それまで彼の方へと寄りかかっていた身体の感触を本能的に察知し、電車が動き出した辺りで彼に小声で謝罪をしました。そもそも私に寄りかかられていた状況から受け入れていた彼はその謝罪をそつなく聞き入れ、その後も何事もなかったように電車に揺られ、何事もなかったように吉祥寺で降りました。
しかし駅を出て人気の少ない道中で再び鉢合わせた私たちは、さすがに何事もなかったようにはなりませんでした。私から「さっきは失礼しました」と謝罪について触れて会話の糸口を作ると、彼は応答の言葉と共に「もしかして、最寄り駅通り過ぎたんですか?」と言って、会話が弾む一番の話題で返してくれました。電車の段階から彼は自分よりも随分年下だろうなと内心思っていましたが、いざ話してみると酔いも合わさってか、そんな年齢差は全く感じませんでした。彼の家は吉祥寺と西荻窪の間にあるらしく、私たちの帰り道の方向は完全に同じでした。途中でタクシーを拾って彼を途中で降ろしながら帰宅しようかとも思いましたが、その考えは頭の片隅から一瞬のうちに消え去りました。なぜなら、彼との会話が楽しかったからです。学生時代を思い出したなんて言うと恥ずかしくて顔から火が出そうですが、実際はそんな感覚でした。あの、まだ社会のことなど何も知らずその日その時を楽しんでいた頃の感覚が、同級生や先輩に心の底から気を許せていた心地の良い関係性が、とても懐かしく思えたのです。
でも本当のことを言うと、私は彼と何気ない話をしていて、彼に好感を覚えました。彼は私の交友関係の中にいる人々とはどこか当て
率直に言って、彼は話し上手ではありませんでした。私は仕事柄そういった感覚には敏感ですから、話のスピードだったり抑揚だったりトーンだったり、それから目線だったり、彼が人と話すことに関して経験値が浅いことは暗闇の中でもわかりました。しかし彼は、言葉に関してとても繊細な感性を持っていました。一つ一つの物事を曖昧にせずしっかり言葉にして、それを繋ぐ接続詞だとか形容の表現もとても丁寧で、ちゃんと耳を傾けていれば、彼の話はとても面白く、ユーモアに富んでいました。最初は私が主体で話していましたが、途中からは自然と私が聞き役に回っていました。すると彼は「小野寺さんってすごく話しやすいです」なんて言うものですから、私の心は完全に掴まれていました。これが全て計算に基づく戦略だったとしたら、最近の若者の恐ろしさを説く最高のプレゼンテーションをする自信は大いにあります。
そんなこんなで、彼の家の近くに着いたのはあっという間でした。あっという間過ぎて、別れ際に連絡先を訊くことなどすっかり考えが及びませんでした。しかし彼の家から私の家までの一人きりの道中で、それも仕方ないと割り切る考えに至りました。それもそのはず、いくら会話が弾んだと言っても、私たちはただ偶然同じ電車に乗り合わし同じ帰り道を歩いたというだけで、合コンで出会ったわけでもなければ、マッチングアプリで知り合ったわけでもありません。偶然、同じ時間と空間を過ごしたただの他人です。
そんな彼に、なんて言って連絡先を聞き出せばよかったのでしょうか。十歳も年下の彼に、どんな口実で今後の関係性を築けばよかったのでしょうか。そんなことを考えながら彼の面影を思い起こしていると、自然と、仕方なかったという結論に至りました。彼から訊いてきたのなら私は喜んで応えるけれども、そんなことは現実には起こらなかったのだし、彼は性格的に、そんなことを訊いてくるはずがない、そんなことを訊いてくるはずがない性格だから私は好感を覚えた──、そのような結論を繰り返し出し続けて、私は西荻窪駅から徒歩七分ほどの自分の家に辿り着きました。
とっくに日付を超えてから家に帰宅しシャワーだけ浴びてベッドで眠りに就くと、再び翌日から社会人としての日常が始まりました。と言ってもあの一連の出来事は金曜の夜だったので、翌日は土曜日で仕事自体はお休みだったのですが、私はその休日の朝早くに起床しなければならない事情があったのです。
と再び言ってもそれはごく単純な事情で、その話をする前にここまで話していなかった事実が一つあってそれを先に説明すると、実は当時の私には、結婚を前提に交際している恋人がいたのです。彼は二つ年上で、外資系の証券会社に勤めていて、大学時代の友人の同僚として紹介されたのが出会いのきっかけでした。最初は二十代の後半に差し掛かった頃に知り合い、その間もお互い恋人がいたりいなかったりの時期を経て少しずつ交友を深めながら、三十歳になる手前で正式に交際を始めました。
なのでその頃は交際してからちょうど一年ほどが経過した時期で、当然お互いに結婚のことは頭にありましたが、正直言って私は、彼との交際に疲れていました。ここでその理由を詳しく書いても、会社の仲の良い同僚相手に愚痴を言うのと同じですから最低限にまとめると、一つは彼と過ごすための時間が自分のライフスタイルに微妙に合わないこと、もう一つは、自分と似たような人間を好きになることに違和感を覚えたことでした。
一つ目の理由は単純で、例えば
とまあ、結局こんなに詳細なエピソードを書き
二つ目はもっとごちゃごちゃしていて、自分でも支離滅裂なことを言っているのは自覚しているのですが、私と彼は、大きな括りで言ったら同じカテゴリーの人間でした。世間一般で言うところの大企業に勤め、ある程度社内で評価や信頼をされ、学生時代の友人含めた人間関係においても一定の親交を絶やさず、休日はレクリエーションを満喫している、いわば社会人として充実した日々を送っている男女、と周りは私たちの交際を表現していました。実際当初の私が好感を抱いたのは彼のそういうところであり、今もなお
結局同僚や友人に話していないことまで長々と書き連ねてしまいましたが、これには私なりに理由があるのです。もうお察しの方もいらっしゃるかもしれませんが、恋人として長い時間を共に送ってきた彼と、駅を乗り過ごし帰りの道中を一度だけ共にした彼は、全く違うタイプの男性でした。それが私の中でどのような意味を持つのか、どのような印象を私に植え付けたのか、答えを出すのに時間はかかりませんでした。偶然同じ電車に乗り合わせ、偶然帰り道が同じになり、それから、忘れられない楽しい話をたくさんしました。一週間経っても、一ヵ月経っても、彼の面影が忘れられませんでした。
ですが先にも述べた通り、一度だけ帰り道を共にした彼は、言葉通り、一度だけの出会いなのです。連絡先は知りませんし、彼の家の近くまで送りはしましたが、いい大人が家の場所を当てにするのは
私には、私を求めてくれる相手がいる。疲れているとか魅力に疑問があると言っても、それはただの自分勝手なわがままです。恋人の彼は、何も悪くありません。夢のような時間に踊らされて一時の迷いに囚われるよりも、しっかりと現実を見て、社会的にも成功を収めつつある彼との将来に向けて今の時間を大切にする──、それが、自他共に認める私のすべき生き方でした。
けれども、偶然は時として実に意地悪です。あの夜から三ヵ月後、仕事帰りの帰宅ラッシュの電車に乗っていると、本当に、本当に偶然、私は彼と、同じ電車に乗り合わせたのです。
同じ車内にいることに、おそらく彼は気付いていませんでした。だから見て見ぬふりをして素直に西荻窪で降りれば、何も問題はなかったのです。なのに私は、また、吉祥寺で降りた。改札を出て一直線に西荻窪方面の帰り道へと歩く彼に、声をかけてしまった。たまたまそのとき、恋人が海外出張に行っていてしばらく会っていなかったのも要因の一つかもしれません。いや、これは私の明確な意志によるものです。なぜなら声をかけて偶然の再会を分かち合った後、私は自ら、彼に夕食を共にしないかと誘いをかけたのですから。
彼は私の誘いを快く受け入れました。彼もまた、私との偶然の再会を喜んでいました。お店は南口や商店街など密集している場所を周った挙句、チェーンのファミリーレストランにしました。店内は学生や若者が多く少し騒がしかったですが、結果的にこの選択は成功でした。彼も私も、とてもリラックスして食事に臨めました。後々聞いた話では彼はお酒を飲みに行く機会があまりないようなので、居酒屋にしていたらあまり場に馴染めなかったかもしれませんし、かと言ってカチッとしたレストランでは私まで緊張してしまいそうですし、お互い行き慣れていて食べるものもある程度決まっているお店が、私たちの会話の花を咲かせるに相応しい最適な場でした。
彼とは色々な話をしました。あのときは吉祥寺や西荻窪の話など当たり障りのない話題でお互いを探っている感がありましたが、そのときはもっと直接的に、お互いの身の上話に踏み込みました。それだけ三ヵ月という時間に、私たちはお互いへの興味を深めていたのかもしれません。私は社会人として生きる日々を話し、彼は小説家を目指していることを、慎ましく、しかしはっきりとした口ぶりで話してくれました。
そのとき、私は驚きと共に、ある種の納得感を得ました。私が抱いた彼への印象は、確実に彼の志に繋がっている。私が抱いた彼への魅力は、まさに、彼の「夢」そのもの──、今までになく楽しそうで、それから嬉しそうに小説の話をする彼を眺めていると、眩しくて仕方がありませんでした。
気が付けば時間があっという間に経ち夜も深まっていて、彼の方から明日も仕事がある私を気遣ってお開きを提案してくれました。もっと彼の小説の話を聞きたい欲はありましたが、私たちにはまだ帰り道という時間があることを思い出し、会計を済ませて彼と共に店を出ました。まだ電車は走っているのに歩いて帰ると言った私の言葉を最初彼は冗談だと思ったようですが、結局今度は彼の方が、私の家の近くまで送ってくれました。彼に言わせればファミレスのお会計を出してくれたお礼だということでしたが、私も私でそのように誘導した節は否めません。前回も通った彼の家の近くにある
それからまた社会人としての日常に戻り、恋人も海外から帰国してきて、現実を生きる日々が始まりました。ですがそれが嫌だったわけではなく、仕事は以前と同様に楽しみながらできていましたし、恋人も私の内心を察したのか、以前ほどアウトドアの誘いを提案しなくなりました。休日もどちらか一日にのみ会うことが増え、その空いた時間に友人とショッピングに行ったり、一日アニメ三昧で過ごしたり、それから今までは避け気味だった小説を読んでみたり、色々と人生の視野が広がった気がしていました。
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