第2話 開かずの間

 男たちに促され、哉太と真魚は鬱蒼とした森の奥深くへと足を踏み入れた。みるくは警戒を解かず、低い唸り声を喉の奥で鳴らしながら哉太の足元に張り付いている。

 道中、沈黙に耐えかねたのか、真魚が小声で囁いた。


「セキカの島って、どういう字を書くんでしょうね。石になる『石化』? それとも、赤い火の『赤火』かな。もしかしたら、雪の花って書いて『雪花せっか』かも。……ちょっとロマンチックじゃないですか?」


 努めて明るく振る舞おうとするその言葉に、哉太は眉をひそめた。

 ロマンチック、などという言葉が入り込む余地が、この状況のどこにあるというのか。歓迎されているという体裁だが、男たちの背中からは、異物を連行する看守のような緊張感が漂っている。そして時折投げかけられる視線には、ねっとりとした品定めのような熱が混じっていた。


「どうでもいい。今は、彼らが敵か味方かを見極めるのが先決だ」


 哉太の刺すような返答に、真魚は少しだけ唇を尖らせ、愛犬を抱き直した。


 やがて視界が開け、一行は集落へとたどり着いた。

 広場を囲むように、数十の家屋が立ち並んでいる。木と石、そして粘土で固められた壁に、大きな葉で葺かれた屋根。原始的ではあるが、そこには確かな生活の営みがあった。

 広場では子供たちが駆け回り、女たちが火を囲んで作業をしている。彼らは哉太たちの姿を認めると手を止め、一様に畏怖と好奇の入り混じった眼差しを向けた。


 その広場の中央に、見覚えのある顔ぶれが固まっていた。

『ロイヤル・コーカーズ99』の乗客たちだ。怪我の手当てを受けている者、呆然と虚空を見つめる者。ざっと数えて二二名。哉太と真魚を加えれば、生存者は総勢二四名ということになる。他の救命ボートも、運良く──あるいは運悪く──この島に流れ着いていたのだ。


 再会を喜び合う間もなく、リーダー格の男──名をタキリというらしい──が、広場で最も大きな家屋の前で足を止めた。


「さあ、稀人まろんどよ。我らが習わし、『異人歓待いじんかんたい』の宴にご案内しよう」


「異人歓待……」


 男が口にしたその言葉は、古めかしい儀式のような重々しい響きを帯びていた。生存者たちは戸惑いながらも、武装した男たちに囲まれては従う他ない。ぞろぞろとタキリの後について村の中心へと向かう。


 その時、真魚が息を呑んで立ち止まった。


「加竹さん、あれ……」


 彼女が指差す先を見て、哉太も目を細める。

 村の家々、その一軒一軒すべてに、通常の出入り口とは別に、太い丸太で厳重に閂がかけられた扉があったのだ。

 どの家のものも固く閉ざされている。まるで、外部から何かを封じ込めているのか、あるいは内部の“何か”を外に出さないためのものか。生活感のある集落の中で、そこだけが異質な沈黙を放っている。


 タキリは一行を、ひときわ大きな家屋の前へ導いた。そして、その家の、例の厳重に封をされた扉を指し示す。


「ここは『開かずの間』。客人をもてなすための、我らが自慢の部屋です」


 その不吉な名を聞いて、生存者たちの間にどよめきが走った。

 普段は開けることのない禁忌の場所で、なぜ歓迎の宴を行うというのか。


 ズズ、と重い音を立てて、長い間動かされることのなかったであろう閂が外されていく。扉が軋みを上げて開くと、かび臭い、湿った空気が足元へ流れ出してきた。

 扉の向こうは、完全な暗闇だった。


 タキリは松明を掲げ、にこやかな表情で一行を闇の中へと誘う。


「さあ、ご遠慮なく。これは祝福の宴なのですから」


 揺らめく炎に照らされたその笑顔は、もはや哉太の目には、生贄を祭壇へといざなう神官のそれにしか見えなかった。


 外の光が完全に遮断され、世界は壁際に並べられた松明の心許ない灯りだけになる。タキリが部屋の四隅にある祭壇へ火を移していくと、次第に室内の全貌が浮かび上がった。

 そこは予想に反して、簡素だが清潔に整えられていた。


 長い土間の両脇に真新しいむしろが敷かれ、中央には焼かれた魚や見たこともない木の実、湯気の立つ貝のスープなどが所狭しと並べられている。先ほどのかび臭さはなく、むしろ食欲をそそる香ばしい匂いが充満していた。

 そのあまりに人間的な「食事」の光景に、張り詰めていた生存者たちの肩から力が抜ける。


 だが、料理が運ばれてくる間、真魚は哉太の耳元でそっと囁いた。


「なんだか……精進落としみたいだと思いません? お葬式が終わって、日常に戻るための、あの……」


「……」


 哉太は答えられなかった。真魚の抱いた不吉な既視感を否定できなかったからだ。

 まるで、海で死ぬはずだった自分たちのために、死との区切りをつける儀式が行われているようだ。背筋を這う悪寒をごまかすように、哉太は視線を彷徨わせる。


 そして、部屋の最奥。上座にあたる場所に鎮座する“それ”と目が合った。


 白光りする木材で彫られた、等身大ほどの像。

 女性のようだが、腹部は不自然に膨れ上がり、異様に長い腕がその腹を守るように何重にも組まれている。

 何より異様なのはその顔だった。口は大きく三日月型に裂け、張り付いたような満面の笑みを浮かべている。だが、その瞳に感情はない。黒曜石が嵌め込まれているのか、あるいはただの空洞か。吸い込まれそうな漆黒の闇が、口元の笑みを完全に裏切っていた。

 目の奥が、笑っていない。


 その視線に射抜かれたように、哉太は身動きが取れなくなった。


「お気に召されましたか」


 不意に、タキリが隣に立っていた。彼は哉太が見つめる像へ、慈しむような視線を向ける。


「あれは『まろん神』です。我らがセキカの民に豊穣を齎す地母神、我らの守り神です」


 『まろん神』。

 可愛らしい響きとは裏腹に、哉太の中の警報は鳴り止まなかった。あれが守り神だというのか。豊穣をもたらす母なる神が、なぜこれほどまでに飢えたような、何かを渇望するような目をしているのか。


 タキリは満足げに頷くと、生存者たちに向かって両手を広げた。


「さあ、宴の始まりです。どうぞ、まろん神の恵みを存分にお召し上がりください。あなた方は、神が我らに遣わした、祝福の『異人』なのですから」


 セキカの民たちが、にこやかに食事を勧めてくる。その笑顔は、どこか、あのまろん神の張り付いた笑みに似ているように思えた。

 生存者たちは顔を見合わせ、空腹には勝てず、恐る恐る差し出された料理に手を伸ばす。

 しかし哉太は、目の前の魚に手をつけられずにいた。まろん神の虚ろな目が、ただじっと自分たちを見つめている。まるで、これから始まる祝宴の、その先にある結末をすべて見通しているかのように。


 ◇


 宴が進んでも、生存者たちの多くは、まろん神の視線の下で身を固くしていた。

 そんな中、『ロイヤル・コーカーズ99』の一等航海士だった男が、意を決したようにタキリに問いただした。


「長よ。我々を助けていただいたことには感謝する。だが、教えてほしい。我々を襲ったあの仮面の者たちは、一体何なのだ?」


 その問いに、村の者たちの空気が凍りついた。

 タキリは手にしていた杯を静かに置くと、重々しく口を開いた。


「先ほど襲ってきた者たちは飢寒者きかんじゃといいます。 彼らは常に飢えている。知恵も、神への信仰も忘れ、ただ奪うことしか考えられない獣のような存在です。我らの畑を荒らし、食料を狙い……そして、たまに人が攫われることもある」


 生存者たちの顔から血の気が引いた。ここは、人を攫うような危険な集団が徘徊する、弱肉強食の土地だったのだ。

 タキリは淡々と続ける。


「あなた方は、我々とは違う。海のかなたから『舟』に乗って現れた。我々の間では、そうした漂着者は『異人』、あるいは『稀人』と呼び、まろん神の使いだと伝えられています」


 真魚が、はっと息を呑んだ。

 稀人まろうど──それは日本古来の信仰において、常世から訪れ、人々に富や知識をもたらす神聖な客人を意味する言葉だ。彼女の語っていたオカルトじみた知識と、この島の伝承が奇妙にリンクした瞬間だった。


「『異人殺し』は、この島における最大の禁忌です。それを破れば、まろん神の怒りを買い、この地に二度と豊穣は訪れないでしょう。だからこそ我らは、あなた方を飢寒者の手から助けたのです。普段、我々が奴らと争うことは極力避けているのですが」


 その言葉は、生存者たちに複雑な感情を植え付けた。

 自分たちは、神聖な存在として保護されている。しかしそれは、彼らの信仰という、極めて脆く、理解の及ばない理屈の上に成り立っていた。もしその信仰の解釈が変われば、この保護も簡単に失われるのではないか。


 タキリは、彼らの不安を見透かすように、だが同時に釘を刺すように、もう一つの事実を告げた。


「この島には、我々と飢寒者の他に、もう一つの集団がいます」

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