カーゴカルト〜嗤う神像〜

火之元 ノヒト

第1話 巡航客船『ロイヤル・コーカーズ99』

 巨大な定規で引かれたかのような水平線が、紺碧の海とどこまでも広がる空を鮮やかに分かつ。

 その境界線を行く巡航客船『ロイヤル・コーカーズ99』のデッキから、加竹 哉太かたけ かなたは遠ざかる安宅港を眺めていた。


​ 全長200メートルを超える純白の船体。それは、彼が仕事場としている古びた小型貨物船とは比較にすらならない、まさしく海に浮かぶ白亜の城だった。


「……でかいな」


 思わず漏れた声には、純粋な憧憬よりも、ある種の圧迫感が滲んでいた。

 子供の頃、初めて巨大なコンテナ船を見上げた日の記憶が蘇る。天を突くクレーン、壁のようにそびえ立つ鉄の塊。世界は、自分など歯牙にもかけない巨大な歯車で動いている──そんな絶望的な無力感が、今も哉太の心の澱となっていた。


「すごいですね、この船! まるで宇宙船が海に降り立ったみたい!」


 不意に弾むような声が掛かった。

 視線を向けると、大きな瞳を輝かせた同年代と思しき女性が立っている。腕には、小さな琉球犬が抱かれていた。


「宇宙船、ですか」


「はい! 古代宇宙飛行士説ってご存知です? ピラミッドもナスカの地上絵も、かつて地球に飛来した知的生命体が人間に技術を教えた証拠なんです。今の船の技術だって、元を辿れば彼らの置き土産なんですよ!」


 女性は分厚い眼鏡の奥の瞳をキラキラとさせ、一気にまくしたてた。

 同意を求めるような熱っぽい視線に、哉太はたじろぐ。現実と鉄塊の中で生きる彼にとって、その飛躍した論理はあまりに突拍子もなかった。


​「……あ、申し遅れました!」


​ 反応の薄さに気づいたのか、彼女は慌てて金屋 真魚かなや まなと名乗った。腕の中の愛犬「みるく」が、鼻をひくつかせて哉太の手の匂いを嗅ぐ。


​「彼らは、私たちと生き別れた『兄弟』なんです。いつかきっと、私たちを更なる高みへ誘うために、空から迎えに来てくれるんですよ」


​ 真魚は眩しそうに空を見上げた。

 哉太は無言で海を見つめる。

 同じ甲板に立ちながら、二人の視線が交わることはない。この巨大な船の上で、二人は全く別の世界を見ていた。


 ◇


 順調かと思われた航海は、安宅港を出て三日目の深夜、唐突に終わりを告げた。

 船体を芯から揺さぶる不気味な振動。けたたましい警報音と共に、船内の照明が明滅を繰り返す。

 機関士としての経験が、哉太の脳内で警鐘を鳴らした。これは単なる故障ではない。


​ 騒然とする通路を逆走し、スタッフエリアの扉を抜けて機関部へ飛び込む。そこで目にしたのは、明らかに人の手による破壊の痕跡だった。

 主要な配管はありえない角度で捻じ曲げられ、冷却システムの一部が物理的に砕かれている。


「……なんてことを」


「貴様がやったのか」


​ 呆然とする背中に、冷徹な声が突き刺さった。

 振り返ると、険しい表情の船長と数人のクルーが立っている。


​「なにを……言ってるんですか」


「元機関士でありながら、今はうらぶれた貨物船乗り。おまけに船舶模型を破壊する奇っ怪な趣味があるそうだな」


​ 船長が突きつけたタブレットには、哉太が自作の模型を分解・破壊している写真が映し出されていた。構造を知るための分解まで、破壊衝動と結びつけられている。


​「だからって……こんなことする訳ないだろ!」


​ 叫びは、クルーたちの疑念の壁に弾かれた。

 弁明の機会すら与えられず、哉太は身体を拘束され、最下層の倉庫へと監禁された。


​ その夜、揺れはさらに激しさを増した。

 機関の損傷は致命的だったらしく、ついに総員退船命令が下される。頭上を走り回る乗客たちの足音が遠く響く中、倉庫の扉が──偶然か、誰かの手引きか──カチリと音を立てて開いた。


​ 甲板へ出ると、そこは地獄の様相を呈していた。

 傾いた船体、逃げ惑う人々。その混乱の渦中で、人波に揉まれてよろめく真魚と、彼女の腕で震えるみるくの姿が目に入った。

​ 思考より先に身体が動いていた。

 哉太は二人をかばい、押し寄せる群衆をかき分け、かろうじて空きのあった救命ボートへ二人を押し込んだ。自らも乗り込もうとした瞬間、船が大きく傾ぎ、ボートを吊るしていたワイヤーが断ち切れる。


​ 重力に従い、ボートは暗い海面へと落下した。その衝撃で哉太も海へ投げ出される。

 冷たい海水が喉に流れ込む。意識が遠のく中、彼は必死にボートの縁へ手を伸ばした。夜空に浮かぶ三日月が、愚かな人間たちを嘲笑うかのように光っていた。


 ◇


​ どれほどの時間が経っただろうか。

 冷たい感触と、寄せては返す波の音で、哉太は意識を取り戻した。

 目を開けると、視界いっぱいに白い砂浜が広がっている。全身が鉛のように重い。身体を起こして周囲を見渡すが、人の姿も文明の痕跡もなかった。ただ、濃密な緑のジャングルがすぐそこまで迫っている。


​ 少し離れた場所で、真魚がみるくを抱きしめてうずくまっていた。彼女も気づき、不安げな視線を寄越す。

 消耗しきった二人は、言葉を交わす気力もなく、泥のように眠りに落ちた。


​ 次に目を覚ましたのは、空腹を訴えるみるくの鳴き声と、頬を舐めるざらついた舌の感触だった。

 日は既に中天にあり、容赦ない日差しが肌を焼く。強烈な喉の渇きが、ここが過酷な現実であることを突きつけてきた。


​「ここは……一体……」


​ 真魚が呆然と呟く。見渡す限りの水平線と、背後に広がる深い森。救助を待つには、あまりに絶望的な光景だった。


​「……あの、加竹さん」


​ 震える声で、彼女が縋るように言った。


​「私たち、助かりますよね? 『兄弟』たちが……きっとこの星のどこにいても見つけてくれるはず……」


​ その言葉に、哉太は答えられなかった。彼が信じるのはレーダーであり無線だ。そして今、ここにはそのどちらもない。あるのは圧倒的な大自然と、孤独だけだ。


​ まずは水だ。

 生存のために思考を切り替えようとした、その時。


​ ガサガサ、と草木が揺れた。

 風ではない。一人の足音でも、獣のものでもない。統率の取れた複数の「何か」が、こちらへ向かってくる気配。


​ 哉太は咄嗟に真魚を背に庇って立ち上がった。みるくが唸り声を上げ、激しく吠え立てる。

 やがて、木々の暗がりから姿を現した集団を見て、二人は息を呑んだ。


​ 腰に藁を巻きつけ、顔には表情の窺えない奇怪な仮面。手には鋭く尖らせた石槍が握られている。

 彼らは言葉を発することなく、じりじりと二人を取り囲むように距離を詰めてきた。その動きは、獲物を追い詰める狩人のそれだった。


​「ナマハゲ……みたい……」


​ 真魚が引きつった声で漏らす。秋田の民俗行事に伝わる、鬼のような来訪神。その場の異様さを的確に表していたが、目の前にいるのは神事の演者ではない。明確な殺意を放つ、未知の脅威だ。


​ 仮面の男の一人が、石槍を振り上げた。

 万事休すかと思われた、その刹那。


​「──そこまでだ!」


​ 森の奥から、鋭い声が響き渡った。

 それは威嚇のようでもあり、上位者の命令のようでもあった。仮面の集団の動きがピタリと止まる。


​ 茂みを割って現れたのは、別の男たちだった。

 彼らはなめした動物の皮をまとい、仮面はつけていない。厳しい顔つきだが、その瞳には理性の光が宿っていた。

 彼らは仮面の集団と哉太たちの間に割って入ると、何事かを威圧的に叫んだ。仮面の男たちは怯んだように後ずさり、やがて不満げに森の奥へと姿を消していく。


​ 嵐のような展開に、哉太も真魚もただ立ち尽くすことしかできない。

 やがて、リーダーと思しき男が二人の前に進み出た。彼は哉太と真魚をまっすぐに見据えると、胸に手を当て、恭しく頭を下げた。


​「『稀人まろんど』よ。ようこそ、セキカの島へ。お待ちしておりました」


​「……稀人?」「待っていた?」


​ 二人は顔を見合わせた。

 その単語の響きを除けば、男の言葉は流暢な日本語だったのだ。

 男は二人の困惑には構わず、視線を砂浜の方へ向けた。そこには、二人が乗ってきた救命ボートが無残な姿で乗り上げている。


​ 男たちの目が、爛々と光った。

 それは、待ち望んだ獲物を見つけた狩人の目であり、同時に、失われた神器を見つけた狂信者の目にも似ていた。


​「……あの『舟』も、あなた方が?」


​ 男の問いに、哉太は言葉を失った。

 この島は何かがおかしい。仮面の集団、そして日本語を操り、自らを「セキカの民」と名乗る男たち。

 歓迎されているはずなのに、背筋を這い上がる悪寒が消えない。


​ ここは、本当にただの無人島なのだろうか。

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