第54話胸の奥のざわめき
春の雨は、まるで気まぐれな少女のようだ。
昼下がり、空の色がさっと薄暗くなったかと思うと、ぽつり、ぽつりと雨粒が降り始める。
やがて、窓ガラスを細かい雫が絶え間なく叩き、教室の空気は一段と静けさを増した。
「うわ、傘持ってきてないし……」
「午後、止むかな……」
クラスメイトたちのため息まじりの声が、いつもの喧騒を薄めていく。
私は自分のカバンをそっと開いて、折りたたみ傘を確認した。
ちゃんと入ってる。でも、今日は帰り道が少し遠回りになる予定だったから、できれば湊や真央と一緒に歩きたい……そんなことを考えている自分に気づく。
「詩、帰りどうする?」
真央が、後ろの席から椅子の背に顎を乗せてこちらを覗き込んでくる。
彼女の目は、いつもよりちょっと探るような色をしていた。
「うーん……ちょっと様子見かな。湊は?」
「湊なら、さっき図書室行くって出てったよ」
「そうなんだ……」
……昨日のこと。
放課後の教室で、湊が言ったあのひとこと。
“誰かに取られたらどうしようって考えてた”——
その声が耳の奥で何度も反響して、思い出すたびに胸の奥がざわめく。
嬉しいはずなのに、戸惑いもあって、感情がぐるぐる回って落ち着かない。
「ねえ詩」
真央が急に声を潜めた。
「小田くんのこと、まだ気になってる?」
「……気になってない、って言ったら嘘になるかも」
昨日の夕暮れ、校舎裏でのあの場面が頭をよぎる。
小田くんの少し照れた笑顔、でも真剣な瞳。
「前から、好きでした」
その一言に胸が熱くなって、でも私は首を横に振った。
「だよね。でも、答えはちゃんと出したんでしょ?」
「……うん。断った。だから……これでよかったって思うようにする」
真央はにこっと笑って、背筋を軽く伸ばした。
「それでいいんだよ。詩が悩んでるの見るの、私つらいからさ。……でも、ちゃんと頑張ったね」
その優しさが、胸の奥にじわっと広がる。
私は小さく頷いた。
⸻
放課後。
雨は弱まる気配を見せない。廊下を歩いていると、向こう側の窓際に湊の姿が見えた。
彼は鞄を肩に掛けたまま、片手をポケットに突っ込んで、ぼんやりと外を眺めている。
窓の外の雨粒が、彼の輪郭を柔らかく滲ませていた。
声をかけるか、少し迷った。
けれど気づけば、私は無意識のうちに足を向けていた。
「……湊、傘ある?」
振り向いた湊の目が、ほんの少しだけ驚いたように見開かれた。
それから眉尻をゆるめて、あのいつもの穏やかな笑顔を見せる。
「ん? ああ、あるけど、詩は?」
「あるよ。……一緒に帰らない?」
湊は一瞬だけ何かを考えるような顔をした後、照れくさそうに笑った。
「いいよ。……なんか久しぶりだな、こういうの」
⸻
昇降口を出た瞬間、雨音が耳に飛び込んできた。
しとしとというより、少し強めの雨がアスファルトを叩いている。
ふたりでそれぞれの傘をさすと、自然と歩幅を合わせるように肩が並んだ。
湊は歩きながら、ふと自分の傘の位置を少し外側に寄せる。
私の肩が濡れないようにする、そのさりげない仕草に胸が温かくなる。
「詩」
「なに?」
「昨日のこと……やっぱり、忘れて」
「……どうして?」
湊は少しうつむき、傘の先で水たまりを避けながら歩く。
耳の先がほんのり赤い気がして、私はその横顔から目が離せなかった。
「なんか、詩に余計なこと言った気がして。オレ、勝手だったなって」
小さく笑ってみせる湊は、でもどこかで自分を責めているように見えた。
その仕草が、私の心を締めつける。
「……そんなことないよ」
「そうかな」
「うん。……湊が考えてること、私、ちゃんと知れてよかった」
湊は一瞬だけ立ち止まり、私を見た。
雨粒が湊の傘の縁を伝って、ぽたり、と地面に落ちる。
その音だけが、世界のすべてみたいに響いた。
「……ありがとな」
小さな声だったけど、確かに届いた。
足元で雨が弾け、跳ね返った水しぶきがスカートの裾に小さな点をつける。
そのひとつひとつが、今の私たちの気持ちのように思えた。
言葉にしないままの気持ちが、ふたりの間でゆっくりと育っていく。
そんな確信が、雨音とともに胸の奥でひろがっていった。
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