第3話名前の記憶
次の日の朝、私は少しだけ早く教室に着いた。
窓際の席から見える桜の木は、もう葉桜になりかけていて、
花びらはひらひらと風に乗って、どこかへ消えていく。
「……おはよう」
声をかけられて、私は少し驚いた。
顔を上げると、そこに立っていたのは、
湊だった。
「……あ、おはよう」
声が少し裏返ってしまったのが恥ずかしくて、視線をそらす。
でも彼は、そんな私に構わず、自分の席に座った。
それだけだった。
名前も、何も、言われなかった。
それでも、朝一番に彼から声をかけられたことが、嬉しくて。
心の奥がじんわりと熱くなる。
何か、話したい。
昔のこととか、思い出してくれてたら、って。
でも、私の期待は、午後になって少しだけ打ち砕かれる。
帰りの支度をしていたとき、湊が近くの男子と話していた。
「相澤ってさ、前どこ中だったの?」
「えっと、前のとこは横浜。こっちは引っ越してきたばっかで、あんまり覚えてなくて」
「あー、でもこの辺小学校の頃いたとか言ってなかった?」
「うん、ほんのちょっとだけ。けど昔すぎてなあ……正直、顔とかあんま覚えてない」
その言葉が、心に突き刺さった。
私は、あの日の湊の横顔も、声も、
手を振る姿も、
全部、ちゃんと覚えてるのに。
彼の中では、私はもう“記憶の一部”にもなれていないのかもしれない。
翌朝、私は迷いながらも、思い切って話しかけてみた。
「……あの、相澤くんって、昔この町に住んでたよね?」
湊は一瞬だけ目を見開いて、それから首を傾げた。
「うん。なんか、そんな気がする。なんかさ」
そこで言葉を切って、窓の外を見た。
「君の名前……聞いたとき、ちょっと引っかかったんだよね。どっかで……って」
私は、息を飲んだ。
「でも、ごめん。思い出せそうで、思い出せない。変な話だよな」
湊は苦笑いして、机の上にあごをのせた。
私は、なぜだか少しだけ、ほっとしていた。
全部忘れられてたわけじゃない。
名前だけでも、心に残ってた。
それだけで、嬉しかった。
心の奥で、ふっと春風が吹いたような気がした。
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