3-2. 記憶の星々

 やがて、完全な闇が訪れた。

 これまで俺を苛んできた、恐怖に満ちた、虚無の闇とは全く違う。

 驚くほど、静かで穏やかな、始まりの空間だった。

 俺には、もう身体はなかった。ただ、純粋な意識だけの存在として、その温かい闇の中に漂っていた。

 目の前に、一つの赤い点が灯っている。

 俺が、最初に置いたCの音。全ての、始まりの一点だ。

 俺は、そこへ近づいていった。近づく、というより、ただ念じた。

 すると俺の意識は、自然にその赤い星へと引き寄せられていった。

 赤い点の世界に入る。

 そこは、驚くべきことに、一つの記憶の、風景だった。

 幼い俺が、赤いブリキのゼンマイ仕掛けの自動車を、夢中で追いかけている。フローリングの床の、木の匂い。窓から差し込む、柔らかい午後の光。そして、背後から俺を見守る、若い母さんの優しい眼差し。

 そうだ。これは、俺の最初の記憶の一つ。

 親父のあの楽譜は、ただの音楽の設計図ではなかった。あれは、俺自身の失われた記憶を再生するための、呪文だったのだ。一つ一つの音符が、一つ一つの記憶の断片に対応している。

 俺は、その温かい記憶の風景から、そっと離れた。

 すると、目の前の闇の中に、次なる青い点が輝いているのが見えた。

 Eの音。親父が、魂を震わせる青と書き記した、記憶。

 俺は、そこへ向かった。

 青い点の世界は、夏の日の、抜けるような青空だった。入道雲が遠くに見える。麦わら帽子をかぶった陽菜が、隣で笑っている。俺たちは、二人で用水路に足を浸して、冷たい水の感触にはしゃいでいた。

 そうだ。陽菜は、ただの幼馴染なんかじゃない。

 俺の人生の、あらゆる風景の中に、彼女は当たり前のように存在していた。彼女のサポートに、どれだけ助けられたことか。

 

 俺は、次々と色の星々を巡っていった。

 黄色い星は、幼稚園のヒマワリ畑の記憶。

 緑の星は、親父と初めてキャッチボールをした公園の、芝生の記憶。

 俺は忘れていた自分の人生を、一つ、また一つと取り戻していった。

 しかし、その穏やかな旅は、長くは続かなかった。

 次の、音へ向かおうとした、その時。

 ピッ……、ピッ……、ピッ……。

 あの忌まわしい電子音が、この記憶の宇宙に割り込んできた。

 それとほぼ同時に、黒い幾何学的な影が闇の中から現れた。それは、俺の行く手を阻むように立ちはだかった。高林の嘲笑うかのような冷たい気配が、そこから感じられる。

 俺は、楽譜を思い出した。

 色の星々の間に配置された、あの、沈黙の黒。

 光を喰らう、特別な黒。

 俺は、そこへ意識を集中させた。

 すると、俺の意識は、色の星々から離れ、何もない完全な闇の空間へと移動した。

 ここは、安全な場所だ。なんとなくそう感じた。

 電子音も、高林の影も、この沈黙の聖域までは入ってくることができない。そんな根拠のない絶対的ない自信があった。

 俺は、この沈黙の黒の中で、息を整えた。

 そうだ。この沈黙こそが俺の武器であり、盾なのだ。

 俺は、再び旅を再開した。

 色の星を巡り、記憶を取り戻す。そして敵が現れれば、沈黙の闇へと退避する。

 俺は、この精神の宇宙の航海術を、完全にマスターしたのだ。


 アトリエでは、陽菜と迫が息を詰めて、ソファに眠るカイトを見守っていた。

 カイトのその表情は、先ほどまでとは打って変わって非常に穏やかだった。時折その口元に、微かな笑みが浮かぶことさえあった。

 「……彼は、今、戦っているんですね」

 陽菜が、小さな声で呟いた。

 「ああ」

 迫は、腕を組んだまま、静かに頷いた。

 「我々には想像もつかない、戦場でな」

 彼は、完成した巨大な絵画を見つめた。

 「そしてどうやら、彼はその戦い方を見つけたらしい」

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