3-1. 狂っていたのは、俺だった
アトリエには、奇妙な静寂が、再び舞い降りていた。
嵐は去った。だが、後に残されたのは平穏ではなかった。カイトの心の中に、今生まれたばかりの、そしてこれまで感じたことのない種類の静かな恐怖が、渦を巻き始めていた。
彼は、自分の右手をじっと見つめた。
さっき、確かに感じたはずの、固い石膏の感触。それはもうない。そこにあるのは、木炭と絵の具で汚れた、見慣れた自分の手だ。
だが記憶は、あまりに鮮明だった。
白い天井。消毒液の匂い。そして、知らない女の人の、穏やかな声。
カイトは、顔を上げた。その視線は、まっすぐに陽菜へと向けられていた。
彼女は、カイトのただならぬ様子に、不安そうな顔で立ち尽くしている。
「陽菜」
カイトの声は、ひどく乾いていた。
「俺は、いつからここにいる?」
「え……?」
唐突な質問に、陽菜は戸惑った。
「いつからって……おじさんが亡くなってから、ずっとじゃない。もう一週間くらいになるかな」
「そうか。一週間か」
カイトは、何かを確かめるように呟いた。
「……なあ陽菜。俺は、何か事故にでもあったのか? 例えば車とか……」
その言葉に、陽菜の肩がびくりと震えた。彼女は、あからさまに、視線を泳がせた。
「……何言ってるの、カイト。疲れてるんだよ。ずっと、ここに籠りきりだったから。事故なんてないよ。何も、なかった」
その、必死な否定。
それは、カイトの心の中の疑念を、さらに、大きく育ててしまった。
陽菜が、嘘をついている。
俺を守るために。あるいは、何か別の理由のために。
カイトと陽菜の、その張り詰めたやり取りを、ジャーナリストの迫は腕を組んで壁に寄りかかりながら、黙って観察していた。彼の、皮肉っぽい切れ長の目が、面白そうに細められている。
彼は、口を挟んだ。
「月城くん」
カイトは、迫の方を見た。
「君の、その頭の中で鳴っていたという電子音。それは、君のお父さんが日記に書き残していた『停止信号』と、全く同じものかね?」
それは、核心を突く問いだった。
カイトは考え込んだ。
「……分からない。でも、たぶん違う」
「ほう。どう違う?」
「親父が書いていたのは、哲学的な、世界の調和が失われる、というような概念的な音だった気がする。でも俺が聴いていたのは……もっと、具体的で物理的な音だった」
そうだ。あの音は物理的な機械の音だった。
そして、先ほどの記憶の断片。
『月城さん、聞こえますか?』
あの声。
生命維持装置の音。
カイトは、自分の荒唐無稽な結論に眩暈を覚えた。
俺はここにいない。
俺のこの身体は、ここに存在しない。
俺は今、病院のベッドの上で眠っている。
そしてこのアトリエも、陽菜も、高林も、この絵も、全ては俺の意識が生み出した、壮大な夢……?
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
「狂っているのは、親父でも高林でもない。俺だったのか」
「カイト!」
陽菜が、悲鳴のような声を上げた。
俺はふらふらと、完成した絵の前に立った。
もう、この絵は違って見えていた。
これは、親父の鎮魂歌などではない。
俺自身の、物語だ。
この黒いキャンバスは、俺の閉ざされた意識の闇。
無数の色の点は、俺の失われた記憶の断片。
そしてあの、光を喰らう沈黙の黒は、俺が時折陥る、深い無意識の状態。
全てが繋がった。
俺は、この絵の意味を、理解した。
ただの絵画ではない。
昏睡状態にある俺の意識の構造を完全に写し取った、精神の地図そのものだ。
そして親父が遺したあの楽譜は、この崩壊した精神世界を再構築するための設計図だったのだ。親父は全て知っていた。俺がこうなることを予見していた。自分の力でこの意識の迷宮から脱出するための、鍵を遺してくれていた。
俺は顔を上げた。
その視線は、陽菜と迫、二人に向けられていた。
「ありがとう。二人とも」
その声は、もう震えてはいなかった。
「もう、大丈夫だ。俺は、帰るべき場所が分かった。そして、そこへ帰る方法も」
俺は自分のこめかみを、とん、と指で叩いた。
「俺の戦いは、ここじゃない。この内側だ」
陽菜は、泣きそうな顔で俺を見ている。
迫は、ただ黙って、全てを理解したかのように。わずかに頷いた。
カイトは、自分の完成させた巨大な絵に向き直った。
俺は今、芸術作品を見ているのではない。
出口の扉と対面しているのだ。
彼は、目を閉じた。
全ての、意識を、この絵の中に沈めていく。
ここから、出るために。
本当の、現実へと目覚めるために。
「カイト!」
陽菜の声が遠くに聞こえる。しかしその声は、もう俺をこの世界に繋ぎ止めることはできなかった。俺の意識は、まるで水に溶けていく絵の具のように曖昧になり、アトリエの輪郭は失われていく。
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