第4話



伯言はくげんさま、あまり体調が良さそうではなかったな……)



 表には出さなかったが、司馬孚しばふは心配していた。

 最近は彼の体調も落ち着いていたが、許都きょとに来た直後は陸遜はずっと臥せっていたのだ。

 慢性的に発熱があり、身体の弱い方なのだなと司馬孚は随分心配したものだ。


 用意するはずだった朝食の内容を食べやすいものに変えてもらい、彼自身は陸遜の気持ちが和らぐような温度で茶を淹れようと手の平で茶碗を確かめつつ、熱が冷めるのを待っていた。


 その時だった。



「失礼いたします」



 女官が朝の食事を持って来たのだと思い、司馬孚は迎えに出て行った。

「ありがとうございます。食事はこちらに……」

 扉を開けて、そこに立った女官の顔を見て司馬孚はおや、と思った。


「貴方は……」


 つい先日見た顔だ。

 そう思った瞬間、彼女の後ろから姿を見せる。


しん夫人!」


 司馬孚は仰天した。

 先日の訪問でさえひどく驚いたのだ。

 まさか再びこの女性が訪ねて来るだろうなどと思いもしなかったので、それは致し方ない反応だと言える。


「ごきげんよう。叔達しゅくたつどの。

 こんな朝早く訪ねたこと、どうぞお許しくださいませ」


「い、いえ。おはようございます。奥方様……あの、兄はまだ長安ちょうあんにおり、」


「あの花衣はなころもをお召しの美しい方はいらっしゃいますでしょう? 

 女同士、朝餉など食べながらお話しようと思って、用意して来ましたの。

 よろしいかしら?」


「えっ! あの、」


 甄宓しんふつは司馬孚の顔を見据えた。

 優雅に微笑んでいても、彼女の紫水晶のような瞳は男を見据える。


 この男が、例え兄に命じられようとも自分という女を独断で拒否出来ない器量だということは、先日会っただけで分かった。

 

 そして司馬懿しばいはこの弟に、自分に逆らうなと命じている。


 それでも今朝はその顔に、司馬孚しばふは先日見せなかった迷いを見せた。

 そんな些細なことでさえ今の甄宓には気に障った。


「よろしいですわね?」


 彼女は曹娟に目配せを送ると女官は一礼し、司馬孚をどけるような形で部屋に入って来た。


「お、お待ちください!」


 司馬孚は思わず、声を出していた。

 振り返った甄宓の直視にハッとして、深々と平伏する。


「申し訳ありません。あの方は今朝、お具合がよろしくないようで……先ほど一度こちらにお越しでしたが、部屋にお戻りになられました。

 ご不快でなければ……あの、……後ほどこちらから、奥方様の許にご挨拶に伺わせていただきます」


 甄宓は微笑んだ。


「一つお聞きしていいかしら。叔達どの」

「は、はい。」


「あなた――兄君から、何かあった折には私に逆らっていいよう、言われていらっしゃるのかしら」


 司馬孚は目を見開いた。

 数日前会った時、司馬孚は初めて甄宓に会って、何て噂通り美しい女性なのだろうと感動と驚きを覚えた。

 今ではこの女性と少しでも話をして、そんな誰でも分かるような浅いことしか理解しなかった自分の愚かさに呆れるばかりだ。


(やはり、私は司馬家の恥になるような器量の男)


 今日は、はっきりと感じる。

 甄宓しんふつの意志を。

 覇気を。

 これは並の女人の持つものではなかった。


 司馬孚は威圧感を感じた。

 それは兄の司馬懿から感じるものにすら似ていた。

 自分などが逆らったりすれば、決して無事に済む相手ではないということが確信出来る。


「……いえ……。兄からは、奥方様にお会いすることがあれば、全て良きようにするようにと……」


 甄宓は微笑む。


「留守中に私がこちらに来たことは、兄上には私の勝手でしたことだときちんと申し上げますわ。貴方が叱責を受けるようなことはない。安心なさい。曹娟そうけん

「はい」

「その方はお具合がよくないとのこと。薬湯をお持ちして」

「かしこまりました」

「ご心配なく。女同士の気兼ねないお喋りですわ。

 貴方は遠慮して下さる?」


 せめて自分も陸遜の側にいて、不安にならないようにしてあげようと思っていた司馬孚はその望みも絶たれてしまった。


「はい、」


「安心なさって。叔達様。そんなにダラダラと長居はしませんわ。

 本当にお具合がよろしくないようでしたら、切り上げて帰ります」


「かしこまりました。どうぞごゆっくり」


 何故今日に限ってこんなことになったのだろうと思いながらも、そう答えることしか出来ない。陸遜も体調が普通ならば、このような覇気ある女性とも難なく話せる教養の持ち主なのだ。

 知的で穏やかで、きっと甄宓が見ても、司馬懿の側にいると知って不快に思うようなことはない。


 だが今日は本当に陸遜は具合が悪そうに見えた。

 外の通路に優雅に出て行く甄宓を見送りながら、司馬孚は祈ることしか出来なかった。



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